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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第二章 エルダイン攻略戦

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第二十九話 掴んだ服

 俺は、布をそっと窪みに戻した。


 押し込むように。

 元からそこに何もなかったように。


 それから、王妃の死体の脇に立って、剣についた血を拭った。


 リーゼを、一度だけ見た。


 あの子は、俺の目を見て、それから口を固く結んだ。


 何を言うつもりだったのかは分からない。


 だが、言わないと決めた顔だった。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、ヴォルフ中隊長だった。


 後ろに兵を数人、引き連れている。


 この男がたどり着いたということは、外はあらかた制圧されたということだろう。


 ヴォルフの目が、床の死体に止まった。


「これは?」

「……抵抗されたので、殺しました」


 ヴォルフは、その死体をじっくり見た。

 そして口を開いた。


「よくやったレイヴァン。これは、シャルロッテ王妃に違いない」


 シャルロッテ王妃。


 それが、この人の名前。


 俺が殺した人の名前。

 あの、子供の母親の名前。


「これは大手柄だぞ。軍団長には、俺が報告しておいてやる。昇進が近づいたな」


 ヴォルフは上機嫌で俺の肩を叩いた。


 前に、誰がヴォルフを笑わせられるか、賭けたこともあった。


 あの時は、全員失敗した。

 あんな、石像みたいな人間を、笑わせられる奴なんかいない、と笑い合ったこともあった。


 俺が成功した。


 子供を守ろうとした、武器もまともに扱えない母親を殺して。


「王や王女は一緒じゃなかったのか?」


 俺は、一拍置いた。

 置いたつもりは、なかった。


 だが後で思えば、そこに一拍あった。


「……所在不明です」


 現場になし、とは言わなかった。

 言えなかった、というほうが正しい。


 あの窪みを、誰か一人でも覗けば、そこで終わる。


 だから、断定はしない。


 所在不明。


 書類の上で、いちばん後を残さない言葉だ。

 十年以上戦場にいると、そういう計算だけは勝手に口が動く。


 ヴォルフは、俺の顔を見た。


 三秒ほどだったと思う。


 その三秒が、長かった。

 心臓の音が聞こえるかと思った。


 バレたかと思った。


 この人は、俺の嘘を見抜いたんじゃないか、と。


「そうか」


 それだけだった。

 裏も取らなかった。


 窪みのほうを見向きもしなかった。


 あの三秒が疑いですらなかったことを、俺が理解するのは、ずっと後になってからだ。


 滅んだ小国の血が一滴、どこかに残ったところで、いくつもの軍団を抱える国の、何が揺らぐわけでもない。


 根絶やしは、脅威を消すためのものじゃない。


 古い血を、残さない。


 ただ、それだけの作法だった。

 書類を、綺麗に閉じるための一行。


 ヴォルフは、その一行が埋まればよかった。


 誰が埋めたかも、本当はどうでもよかったんだろう。



「今夜はよくやった。だが、まだ終わりじゃない」


 ヴォルフはそう言った。


「王は、まだ見つかっていない。城のどこかに、潜んでいるはずだ」


 それから続けた。


「見つけ次第、同じように殺せ。一人も、生かすな」


 一人も生かすな。


 その言葉が頭の中で、遅れて意味を結んだ。


 王も、王妃も、そして――子供も。


 王家の血は、一滴も残さない。

 それが命令だった。


 今初めて、それをはっきりと聞いた。


 俺が窪みに戻したあの子は、見つかれば殺される。

 俺がさっき、王妃にしたのと同じように。


「お前達は、向こうの部屋を調べろ。我々は、奥へ進む」


 ヴォルフはそう言い残して、兵を連れて部屋を出ていった。


 王を探しに。



 足音が遠ざかった。



 部屋には、俺と、リーゼと、死体と、窪みの中の子供だけが残された。


「小隊長殿」


 リーゼが口を開いた。


 声が震えていた。


「この子を……どうする、つもりなんですか?」


 俺は答えられなかった。


 窪みに近づいた。


 布をめくった。


 子供は、まだそこにいた。


 目を閉じて、息を殺して。

 俺が母親を殺すところを、この子は聞いていたはずだ。

 声も立てずに。


 ――奥に、子供がいる。助けて、やってくれ。


 あの老騎士の声が、また、聞こえた。



 手を伸ばした。


 子供は抵抗しなかった。


 その子は、泣かなかった。


 泣いても無駄だと、もう知っている子の静けさだった。


 征服地で、嫌というほど見てきた。


 子供が、俺の胸ぐらを掴んだ。

 小さな手で、ぎゅっと。

 血の匂いのする、俺の服を。


 ほかに、掴むものがなかったからだろう。


 この子の母親をたった今、殺した手で。

 俺は、その背中を撫でていた。


 自分が、とんでもないことをしているという自覚はあった。


 あったのに、腕を離せなかった。


「小隊長殿……」

「リーゼ」


 俺は、言った。

 子供を、抱えたまま。


「俺には、出来ない」


 殺すことも。

 殺させることも。

 渡すことも。


 何一つ、出来なかった。


 だから、残された道は一つしかなかった。



 この子を、連れて逃げる。


 帝国を捨てる。



 リーゼは、しばらく俺を見ていた。


 それから、窪みのほうを見た。


 死んだ王妃を見た。


 あの子が、何を考えていたのかは分からない。


 だがあの子は、俺を止めなかった。


「……行ってください」


 リーゼはそう言った。


「わたしが、見なかったことにします。小隊長殿は、王女の捜索に出て――そのまま、戻らなかった。そういうことに、します」


 俺は、あの子を死んだことにしてこの場を去る。

 あの子は、俺を死んだことにして軍に残る。


 それがあの子に、俺のためにできる、最後のことだった。


 俺があの子にしてやれることは、何もなかった。


「……自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

「わかっています」

「もし、このことがばれたら、お前も処罰されるかもしれないんだぞ」

「わかっています。でも……」


 リーゼは言葉に詰まって下を向いた。


 でもすぐに顔をあげて、俺の目を見た。


「こんな姿の小隊長殿を、わたしは見ていられません」


 十歳くらい離れている部下に、言われた。


 それほど、俺はひどかったんだろう。


 俺は悩んだ。


 どうするべきか、正解があるとするなら、どっちが正解か。


 この子を殺して帝国に残る。


 それともこの子を連れて、帝国を去る。


 正解なんて、わかるわけがない。



 でも、俺は選んだ。


 すまない、エイダン。

 俺はお前を裏切ることになる。


 たぶんもう、メレシアには帰れない。


「……すまない」



 子供を抱えて、俺は走り出した。


 城は、まだ燃えていた。


 あちこちで火が上がり、悲鳴が上がり、誰が生きていて、誰が死んだのかも、分からない。


 その混乱の中に、俺は紛れた。


 エイダンが、言った通りだった。


 城が落ちる日は、めちゃくちゃになる。


 死んだことにされる奴が、必ず何十人も出る。


 俺も、その中に混ざる。


 あいつは、その日を待って逃げられなかった。


 俺は、あいつを見捨てて生き延びた。


 そして今、あいつの計画を、一人で実行している。


 なぜ、こんなことをしているのか。



 腕の中で子供が、俺の服を掴み続けていた。


 その手の力だけが、俺の足を前に進ませた。

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