第二十七話 背中
三人で、じりじりと間合いを詰めた。
老騎士は、動かない。剣を提げたまま、俺達が広がるのを、ただ見ている。
三方から囲まれても、焦る様子がなかった。
何十年も、こういう場に立ってきた男だ。囲まれることの意味を、俺達より、よく知っている。
俺の呼吸は、まだ整っていなかった。腕の傷が疼く。太ももの傷も、じくじくと痛んだ。
ここまでの戦いで、体は、もう限界に近い。リーゼも、肩で息をしている。
三人がかりでも、勝てるかどうか。そう思わせる何かが、あの一人の男にはあった。
「小隊長」
ブルーノが、低い声で言った。
「俺が囮になって、あいつの気を引く。その隙に、二人でやれ」
「ブルーノ――」
「若い二人が先に死ぬな。これは年寄りの役目だ」
止める間はなかった。
ブルーノは、言い終わると同時に、踏み込んでいた。叫びもせず、無駄な力みもなく。ただ、まっすぐに。二十年、戦場を生きてきた男の、迷いのない一歩だった。
その一歩を、老騎士は待っていた。
ブルーノの剣が届くより、半拍、早かった。
老騎士の剣が、上から下へ、一度だけ振られた。ただ、それだけだ。派手さも、力みもない。
ブルーノは、走った勢いのまま、老騎士の奥に倒れていった。
囮になる、その暇さえ、なかった。
気を引くどころか、老騎士は一歩も動いていない。
ブルーノは、自分の立てた作戦を、何一つ果たせないまま、膝から崩れた。
床に、ブルーノの血が広がっていく。それが、先に倒れていた兵士の血に混ざった。
「ブルーノさん!」
リーゼが、叫んだ。
俺は、叫べなかった。ただ、目の前が、赤く濁った。
リーゼが先に飛び出した。つられて俺も飛び出した。
二人で、同時に斬りかかる。
いくら手練れとはいえ、二人がかりなら崩せるはずだ。
老騎士は、俺の剣を弾き、リーゼの剣を受け流した。二人がかりの攻めを、ほとんど足を動かさずに、さばいていく。剣先が、掠りもしない。
だが、無傷ではなかった。
俺達が手数で押すたび、老騎士の息が、少しずつ上がっていく。額に、汗が浮いている。
この男も、若くはない。激しい剣戟と、老いた体が、じわじわと、その動きを鈍らせていた。
いける。二人で削り続ければ。
そう思った、その時だ。
老騎士の剣が、俺の剣を弾いた。ただ弾くのではなく、下から、跳ね上げるように。握力の抜けた手から、剣が、飛んだ。
しまった、と思う間もない。
老騎士の蹴りが、俺の腹を直撃した。体が、後ろへ吹き飛んだ。柱に、背中を打ちつける。息が、止まった。
「小隊長殿!」
立てない。
起き上がろうとしても、体が、言うことを聞かない。剣も、手元にない。
残ったのは、リーゼだけだった。
もう、駄目だ。そう思った。
あの子が、一人で、あの男に敵うわけがない。二人がかりでも、あいつは、ほとんど傷を負っていない。
だが、リーゼは、倒れなかった。
あの子の剣は、小さく、速かった。無駄がない。老騎士の剣を、正面で受けない。受ければ、力負けする。だから、いなす。流す。角度を変える。
時折、老騎士の剣を流した後、鋭い突きを返していた。
そのたびに、老騎士の目が変わっていた。
決定打にはなっていない。一太刀も、当たってはいない。
だが、斬られてもいない。老騎士の剣を、その細い体で、しのぎ続けている。
俺が知っている、あの新兵は、どこにもいなかった。人を殺せずに手を震わせていた子が、達人の剣を、一人で受けている。
老騎士の息が、はっきりと、荒くなっていた。
リーゼをさばくために、初めて、足が動いていた。長い一日の疲れと、老いた体が、限界に近づいている。
その顔に、憎しみはなかった。
リーゼを見る目に、あったのは――何と言えばいいのか。認める、という色だった。
若い剣を、悪くない、と思っている目だ。
老騎士は、敵の兵士にそんな目を向ける男だった。
俺は、床を這っていた。
飛んだ剣が、すぐそこにあった。柱の陰。手を伸ばせば、届く。
握った。指が、まだ痺れている。だが、握れた。
立ち上がる。
老騎士は、リーゼだけを見ていた。
あの子の剣に、気を取られていた。認めるほどの剣に。
だから、俺のことは、意識の外にあった。倒したはずの男が、もう立てないと、思っていたのかもしれない。
その背中が、そこにあった。
俺は、走った。
足音を、殺したつもりはない。だが、リーゼの剣が、ちょうど、大きな音を立てた。老騎士が、それを受けた、その瞬間。
俺の剣が、背中から、入った。
手応えが、腕に伝わる。
老騎士の体が、こわばった。リーゼが、目を見開いた。剣を止めて、立ち尽くしている。何が起きたのか、分からない、という顔で。
ゆっくりと、老騎士が、膝をついた。
その時になって、頭が、追いついてきた。
俺は、リーゼの剣に気を取られた隙を、突いた。リーゼが引きつけて、俺が刺した。
――囮になる。あいつの気を引く。その隙に。
ブルーノの声が、耳の奥で、鳴った。
あいつが、果たせなかった作戦だ。
それを俺は、リーゼでやった。
あの子を囮にして、背中から刺した。
そんなつもりは、なかった。なかったはずだ。
だが、結果は、そうだった。ブルーノの言った通りに、なっていた。
そんなつもりはなかった、という言葉が、どれだけ軽いかを、この時、知った。
老騎士は、まだ、生きていた。
膝をついたまま、剣を杖替わりにして、倒れなかった。口から、血を吐き出した。
振り返って、俺を見上げた。
その目に、恨みは、なかった。
「……油断した」
そう言った。
俺が卑怯だと、責めなかった。
背中を取られたのは、自分の油断だ、と。
この男にとって、戦いに、卑怯も正々堂々もないらしい。取られたほうが、悪い。ただ、それだけのことだった。
俺は、何も言えなかった。
老騎士が、口を開いた。何か、言おうとして、一度、止めた。
武人が、敵に頭を下げる。そのためらいが、顔に出ていた。それでも、この男には、もう、他に頼れる相手がいなかった。俺しか、いなかった。
「頼みが、ある」
声は、掠れていた。だが、消え入りはしなかった。
「奥に、子供がいる。……助けて、やってくれ」
敵に、恥を忍んで、頭を下げた。
自分を背中から刺した男に。
俺は、答えなかった。答えられなかった。
その言葉が、どこかで聞いた言葉と、重なっていた。
故郷を頼む、と、あいつも言った。
こちらを見もせずに。
老騎士は、膝をついたまま、それきり、動かなくなった。
リーゼは、まだ、そこに立っていた。
剣を提げたまま、俺を見ていた。何か言おうとして、言えずにいる。
あの子は、見た。俺が、あの子の剣を囮にして、男の背中を刺すところを。
俺は、その目から、逃げた。奥の扉を見た。
あの先に、子供がいる、と老騎士は言った。
行かなければ、ならなかった。何のために行くのかは、まだ、分かっていなかった。




