第二十二話 いなかったことに
その晩、俺は見張りをした。
自分から志願した。眠れそうになかったから。
台は、俺達の陣のすぐ横に立っていた。
自分で穴の位置を見て、自分で角材を押さえて、自分で縄を締めた。そういうものが、視界の端にある。目をつむっても、そこにあることは分かる。
なんとなく、小隊の連中の顔を見に行った。
誰も起きなかった。リーゼは寝ていた。ブルーノもヨナスもメルクも寝ていた。この陣で、疲れていない人間はいない。
俺は、台のほうへ歩いた。
何をするつもりだったのかは、今でも分からない。
縄を切ろうと思ったのかもしれない。台を壊そうと思ったのかもしれない。あるいは、ただ近くで見たかっただけかもしれない。
どれも違う気がする。
二十歩ほど歩いて、止まった。
それから、引き返した。
誰にも見られていない。誰にも咎められていない。俺は自分の場所に戻って、王都の方を見ながら、朝が来るのを待った。
あの二十歩のことを、俺は誰にも言っていない。
言うほどのことじゃない。ただ歩いて、戻っただけだ。
朝は、いつもどおり来た。
空が白んで、火の番が交代して、飯の匂いがした。壁の上ではエルダイン兵が歩いていて、こっちも砂の上を歩いていた。
昨日までと、何も違わなかった。
違ったのは、集合の声がかかったことだけだ。
第七軍団の生き残りが、集められた。千人はいなかったと思う。数えてはいない。
俺は、前のほうに立たされた。
小隊長だからだ。逃げた男を預かっていた小隊の、長だからだ。
右にコンラートがいた。左に、第二軍団の士官が二人。
台の所までは、十メートルもなかった。
俺とあいつの間にあったのは、その距離と、二十人ばかりの兵だけだった。
エイダンが連れてこられた。
最初、誰か分からなかった。
顔が、変わっていた。
右の目が開いていない。唇が切れて、片方の頬が腫れて、輪郭が別人になっていた。歩き方も違った。片脚をかばっている。
俺の後ろで、息を呑む音がした。
リーゼだ。
あの子は、その時に分かったんだと思う。昨日、自分が肩に担いで運んだものが何だったのか。台の上に渡された梁から下がっている、あれが何なのか。
振り返らなかった。
振り返れば、あの子の顔を見ることになる。
コンラートが、前に出た。
紙を一枚持っていた。手が震えてもいないし、声も張っていない。まるで、連絡事項を読み上げるかのように、淡々と言った。
「エイダン・ヴェスカー。敵前逃亡につき、皇帝陛下の名において、絞首刑とする」
それだけだった。
罪状の説明もない。経緯の読み上げもない。皇帝陛下の名において、という部分だけが、少しだけ丁寧に発音された。
エイダンが、台に上げられた。俺達の作った台に。
縄が首にかけられた。
結び目の位置を、兵が二度直した。丁寧だった。ちゃんと死ぬように、ということだ。
「何か、言い残すことはありますか?」
コンラートが聞いた。
優しい声だった。半年前に初めて会ったときと、同じ声だ。
エイダンは、少し間を置いた。
それから、言った。
「故郷を頼む」
こちらを見もせずに。
まっすぐ前を、王都の壁のほうを見て、そう言った。
誰も、反応しなかった。
千人近くいて、誰一人。
当たり前だ。誰に言ったのかはわからない。コンラートに向けて言ったのか。それとも、帝国に向けて言ったのか。
わかるのは俺だけだ。
この場で、エイダンと同郷なのは俺だけだ。エイダンは、俺に「故郷を頼む」と言った。
俺は、その言葉をはっきりと聞いた。俺にその資格があるとは思えないが。とにかく、聞いた。
あいつは、最後の最後まで、俺に迷惑をかけない言い方を選んだ。
板が外された。
音は、大きくなかった。
俺は、直立不動で見ていた。
目を逸らさなかった。
逸らせば、あいつが一人になると思った。
見ていることが、あの時の俺にできる唯一の弔いだった。
そう思うことにした。
終わるまでに、思っていたより時間がかかった。
リーゼの声が聞こえた。
なんと言っていたかはわからない。言葉になっていなかった。
解散の声がかかった。
他の小隊の連中は、散っていった。飯の支度をする者もいた。話し声もした。壁の上ではエルダイン兵が歩いていた。
第三小隊の人間だけがその場に残っていた。
台は、そのままだった。
降ろす、という話にはならなかった。
吊るしておくことに意味があるからだ。通るたびに見える。明日も、その次の日も。
壁の下の死体は、まだ焼かれていない。埋められてもいない。
あいつは、埋めるどころか、降ろしてももらえない。
コンラートが、俺の横に来た。
紙を、もう畳んでいた。
「レイヴァンさん」
「......ああ」
「名簿の名前を、消しておいてください」
それだけを言って、歩いていった。
その日の夕方まで、俺は名簿を開かなかった。
開いたのは、日が落ちてからだ。
火のそばで、膝の上に広げた。上から三行目。エイダン・ヴェスカー。二十七歳。メレシア州カルヴェン村出身。
俺が、この手で書いた文字だ。
線を引いた。
簡単だった。
指を動かすだけ。これまで何度もやってきた。
引いてから、しばらく見ていた。
ヤコブの線と、同じだった。ゲルントの線とも、ダルクの線とも、テオの線とも同じだった。太さも、長さも、傾きも。
違うところが、一つもなかった。
線を引いてくれ、と頼まれた時、俺は引かなかった。
引いていれば、あいつは紙の上で先に死んで、この陣からいなくなっていたかもしれない。
引かなかったから、本当に死んだ。
そして今、俺は引いた。
頼まれた通りに。ただし、頼んだ本人が、もういなくなってから。
名簿を閉じた。
絞首台から、風で縄が擦れる音が聞こえた。




