第二十一話 余った木
次の日も、門は開かなかった。
その次の日も。
俺は名簿を開かなかった。
開かない理由なら、いくらでもあった。誰も死ななかった。書き足すことも、線を引くこともない。だから開かない。それだけのことだ。
そう思うことにしていた。
エイダンは、何も言わなかった。
あの晩の話を、一度も持ち出さなかった。飯の時に隣に座り、いつもどおり喋り、いつもどおり黙った。俺のほうが顔を合わせづらくて、水を汲みに行くふりをして立ち上がることが増えた。
あいつは、それに気づいていたと思う。
気づいていて、追いかけてこなかった。
その代わりに、あいつは支度をしていた。
俺は、それを見ていた。
飯を残していた。半分ほど食って、残りを布に包んで、荷に入れる。
腹が減っていない、と一度だけ言った。この陣で腹が減っていない人間はいない。
靴を直していた。夜、火のそばで、糸を通して縫っていた。ブルーノが「まだ履くのかそれ」と言って、エイダンは「履く」と答えた。
「そういえばブルーノ。北の川を知ってるか?」
「北の川? ああ、この前見たな。それがどうした?」
「あの川、渡れるのか? 敵の退路になるかもしれない」
「逃げるったって、どこに逃げるんだよ。おれ達が攻めてるのは、敵の王都だぞ」
「一応だよ。で、どうなんだ?」
「パッとみたところ、浅瀬が二箇所くらいあったな」
「そうか」
そのやり取りを、俺は全部見ていた。
見て、何も言わなかった。
クストディアの連中が着いたのは、その次の日の昼だ。
馬車が三台。護衛が十人ほど。泥のはねた俺達の荷馬車とは、造りが違う。
二台目から降りてきた男を、俺は知っていた。
背は高くない。太ってもいない。きちんとした身なりで、髪を丁寧に分けている。
顔に、傷が一つもなかった。
半年前と、何も変わっていなかった。
変わったのは、俺達だ。
「レイヴァンさん」
向こうから声をかけてきた。俺の名前を覚えていた。
「お久しぶりです。ご無事で何よりです」
「ああ」
「だいぶひどい戦と聞いています。大丈夫ですか?」
「……」
「……そうですね。すみません」
「厄介な相手と言ってたな」
「はい。エルダインは昔から、多くの魔物を相手にして、鍛えられてきた国です」
「俺達も、ここに来てから何度か魔物に襲われた」
「その魔物達を相手にしていたのが、名将バルトロス将軍です」
「そいつがいる城は、落とせなかった」
「そうですね。今も城は抑えていますが、多くの被害が出ているとか」
「じゃあ、向こうに残っても、あまり状況は変わらなかった、ということか」
「……そうでもありません」
「どういう意味だ?」
「こちらのほうが、手柄としては大きいですよ」
手柄。そうか。こいつにはそう見えてるのか。戦争は手柄をあげる場所で、俺達は、それを欲していると。
昔だったら、そう思ってたかもしれない。手柄を上げたら、故郷の為になる。家族を養える。誰からも尊敬される。
実際、戦場に立ったら、そんなことを考えてる余裕なんかない。
テオがそうだったように。
「……もう終わりますよ」
コンラートは、王都の壁のほうを見ながら言った。
「なぜわかる?」
「私共が呼ばれたということは、そういうことですから」
俺は、その言葉の意味を、その時は半分しか分かっていなかった。
後始末をする人間が呼ばれた。つまり、終わりが決まっている。
「内通者が出るってことか?」
「……申し訳ないですが、作戦の詳細は言えないのです」
その答え方でわかる。
誰かが、内側から開ける手はずになっている。
エイダンが言ったとおりだった。
その晩、俺は目が覚めた。
物音でだ。
布が擦れる音。荷を持ち上げる音。それから、砂を踏む音が、ゆっくり遠ざかっていった。
誰が出ていったかは、聞かなくても分かった。
俺は、目を開けなかった。
開けて、呼び止めればよかった。
あるいは、開けて、一緒に立てばよかった。
俺は、どちらもしなかった。
そのまま、目をつむって、砂の音が聞こえなくなるまで数えていた。
数えるのは得意だ。
あの晩は、足音を数えた。
三十七歩目で、聞こえなくなった。
朝、エイダンはいなかった。
リーゼが最初に気づいた。荷が一つ減っている、と。
「見回りじゃないですか?」
ヨナスが言った。誰も答えなかった。
ブルーノが、俺の顔を見た。
何か言いかけて、やめた。あの男は、たぶん、川の話を思い出していた。
昼前に、エイダンは戻ってきた。
自分の足で歩いていた。
ただし、両手を前で縛られていた。
第二軍団の兵士が二人、後ろについていた。
北の丘の、羊飼いの道の途中で見つかったそうだ。陣からかなり離れたところ。荷の中に、四日分の干し肉と、水袋が二つ。
言い訳の余地がない、というのはああいうことを言う。
エイダンは、俺のほうを見なかった。
誰のほうも見なかった。まっすぐ前を見て、歩いて、第七軍団の陣の中でひざまずかされた。
審問と呼べるようなものは、なかった。
コンラートが、椅子を出させて、そこに座った。紙を膝に置いて、開いた。
「エイダン・ヴェスカーさん」
「はい」
「北の道を、どこまでご存じですか」
「川まで」
エイダンは、それだけ答えた。
嘘をつかなかった。言い逃れもしなかった。
コンラートは、紙に何か書いた。
「ありがとうございます」
礼まで言った。
そして、周りを見回した。集められた第七軍団、一人ずつ。
目が合った。
「みなさん、勘違いをなさっているかもしれませんので、申し上げておきます」
コンラートは、優しい声で言った。
責めるでもなく、笑うでもなく。ただ、当たり前のことを教えるように。
「軍から抜けた人間は、罰されて終わりではありません。いなかったことになるのです」
「......どういう意味だ」
俺が聞いた。
「そのままの意味です。記録から名前が消えます。入隊年も、出身地も、戦った場所も。この方は最初から帝国軍にいなかった、ということになる」
コンラートは、帳面のページを指で押さえた。
「故郷の村には、戦死の通知も行きません。帝国には、逃亡兵などいないからです」
俺は、何も言えなかった。
言い返す言葉を探して、見つからなかった。
半年前と、同じだった。
あの時、コンラートは村を「処理済み」にした。人がいなくなれば、書類の上ではなかったことにする、と。
エイダンは俺に言った。悪人が悪いことをするなら憎めばいい。だが、いい奴が笑いながら村を処理済みにする。それを誰が憎める、と。
いま、その男が処理されようとしている。
俺がまだ形にできていないものを、あいつはいつも先に言葉にした。
自分の番が来ることまで、言い当てていた。
「レイヴァン小隊長殿」
コンラートが、こちらを見た。
「この方は、あなたの小隊の方ですね」
「......そうだ」
「ご存じでしたか?」
一言だった。
ご存じでしたか。
脅すでもなく、疑うでもなく。天気を聞くみたいに聞いた。
答えるまでに、どれくらいかかったのかは分からない。自分では、すぐに答えたつもりだった。
「......知らない」
言った。
誰も、驚かなかった。
「そうですか」
コンラートは、紙に何か書いた。
リーゼが、俺のほうを見た。
口が、少し開いていた。何か言おうとしていた。
俺は、その子のほうを見なかった。
見ていれば、止められた。見なければ、止める必要がない。
結局、リーゼは何も言わなかった。
第二軍団の兵が二人、エイダンの腕を取って立たせた。
エイダンは抵抗しなかった。膝の砂を払うこともせず、そのまま歩き出した。縛られた両手が、腹の前で揺れていた。
「どこへ連れて行くんですか?」
リーゼだった。
声が、思ったより通った。集められた連中の何人かが、そっちを見た。
兵は答えなかった。
振り返りもしなかった。ここでは、答えないことが答えになる。それを教わっていないのは、あの子だけだった。
俺は、何も言わなかった。
止めもしなかった。庇いもしなかった。十七の新兵が一人で声を出して、小隊長は黙って立っていた。
それだけのことだ。
エイダンは、一度もこちらを見なかった。
第二軍団の野営地は、少し後方にある。俺達の陣からは、天幕の頭がいくつか見えるだけだ。
その方向へ、三人ぶんの背中が小さくなっていった。
「後方送りだろうな」
ブルーノが言った。
「軍法会議だろ。本国まで戻されて、処遇が決まる」
「……戻れるんですか」
ヨナスが聞いた。
「戻れはするだろ。戻った先は牢だろうけどな。運が良けりゃ、鉱山で十年ってとこか」
ブルーノは、そう言って肩を回した。
リーゼは、まだ後方のほうを見ていた。
誰も、それ以上のことを言わなかった。
俺も言わなかった。
みんな、同じことを思っていた。あいつは連れて行かれた。この陣からは、いなくなった。それで終わりだと。
夕方、荷馬車が来た。
第二軍団のほうからだ。
積んでいたのは、材木だった。
角材が六本と、太い梁が一本。それに、板が何枚か。塔を組んだ時に余った分だろう。
「第七軍団、手が空いてる者」
第二軍団の兵が言った。若いのが二人。どちらも、綺麗な顔立ちだ。戦を知らないって顔をしている。
「ここに組む。指示は出す」
うちからは全員が出た。五人だ。他の小隊からも十人ばかり出てきた。
俺達は、指示通りに動いた。木を運んで、穴を掘って、立てて、縛る。ブルーノが穴の位置を決めて、ヨナスとメルクが角材を運んだ。リーゼが縄を担いできた。
第二軍団の兵は、二人とも手を動かさなかった。
立って、指を差していた。
俺は、櫓だと思っていた。
壁の前に立てる見張り台だ。攻城塔が焼けて、高いところから中を見る手段がなくなった。だから作るんだろう、と。そう思うのが自然だった。この陣で木を組む理由は、それ以外にない。
角材は六本。塔の脚は四本だった。多い、と思った。
だが、脚に使われたのは四本だけだった。残りの二本は、横に渡された。
高さが足りなかった。
俺の背の、倍くらい。あれでは壁の中は見えない。
櫓は、床を張る。
板は運ばれてきていたが、誰も張らなかった。指示が出なかったからだ。
板は、脚の下に、一枚だけ置かれた。
立って、そこに乗るための一枚だ。
俺は、手を止めていた。
いつから止めていたのかは、分からない。
リーゼが、縄を持って俺の横を通った。
肩に担いで、少し重そうにしていた。あの子は、それを運びながら、まだ後方のほうを気にしていた。




