第二十話 線を引いてくれ
朝には、魔物はいなくなっていた。
死体は、そのままだった。
いや、昨夜より形が減っていた。それだけだ。
腕の布を巻き直した。牙が入ったところが、脈に合わせて熱を持っている。
剣は握れた。握れれば、問題はない。両腕、両足が体にくっついていれば、まだ戦えると判断される。
エイダンは、まだ火のそばに座っていた。
壁ではなく、北の方を見ていた。
交代の時間はとうに過ぎている。ヨナスが起きて、二度、代わりますと言った。二度とも、いい、と返していた。
俺はそのやり取りを、目をつむりながら聞いていた。
言うことがあるとしたら、寝ろ、だ。だが、寝ろと言って寝る男じゃない。
その日は、何も起きなかった。
壁を登らなかった。矢も飛んでこなかった。エルダイン兵が壁の上を歩いているのが見えて、こっちも砂の上を歩いていた。
昼過ぎに、第二軍団から紙を持った男が来た。
鎧を着ていない。腰に板と紙を下げた、痩せた男だ。
「所属は?」
「第三小隊」
「現員を」
「小隊長含め、六人」
そいつは顔を上げなかった。板の上で、指を少し動かした。
「六、と」
「人でも寄越してくれるのか?」
「補充の予定は、今のところありません。では、これで」
それだけ言って、隣の小隊のところへ歩いていった。
同じことを聞いていた。同じように書いていた。
俺は、その背中を見ていた。
俺達の隊は、二十四人だった。ヤコブがいて、ダルクがいて、ゲルントがいて、テオがいた。それぞれの年と、出身地と、入隊年を、俺は名簿に書き写した。そして覚えた。
それが、六、になった。
あいつは、今の人数を聞いて、書いた。ただ、それだけだ。
夜、エイダンが俺の肩を叩いた。
「ちょっと、歩くか」
火から離れた。
荷馬車の並んでいるあたりまで来て、そこで止まった。風下だ。匂いが濃い。だからこそ、あまり人が来ない場所だった。
エイダンは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「レイ。この戦争、どう思う?」
「なんだ、急に」
「壁の前に立ってから、数日が経った。その数日で、第七軍団は三千人から千人ほどに。俺達は二十二から五になった」
「……」
「じゃあ、あと数日でどうなる」
答えなかった。
計算するまでもない。
「ゼロにはならない」
エイダンは言った。
「三人か、四人減って、そのあたりで止まる。減るものがなくなるからだ。そうしたら、他所から寄せ集めて、また二十いくつかにする。名簿を書き直すのはお前だ。そしてまた数日で減る」
「......」
「それが、この戦の形だ。城を落とす形じゃない。兵を減らす形だ」
風が向きを変えた。
匂いが、少し薄くなった。
「上は、何かを待ってる」
エイダンは続けた。
「攻めさせない。退かせない。ただ待たせる。待ってる間に、俺達は勝手に減っていく。減っても困らない連中だから、ここに置かれてる」
「城攻めをしくじった罰だと、お前は前に言ったな」
「言った。今は、それだけじゃないと思ってる」
「じゃあ、何だ」
「知らん。今となっては、興味もない」
「……どういう意味だ?」
エイダンは、そこで俺のほうを向いた。
火から離れているから、顔はよく見えなかった。
「北へ抜ける道は、三本ある」
その言葉が、昼間から俺の中に引っかかっていたものと繋がるまでに、少し時間がかかった。
「抜ける?」
「そうだ」
「……お前、正気なのか?」
「お前こそどうなんだ、レイ」
「……なんの話だ」
「魔物の中を一人で突っ込んで行っただろう。あれが正気な奴の行動か?」
「……」
「お前が背負おうとしている連中は、もう歩かない」
俺は、エイダンに返す言葉がなかった。
「三本のうち、二本は街道だ。関所がある。使えない。もう一本の道は、丘を回って川に出る。川を渡って、その先の森に入れば捜索は困難だ。そのまま、エルダインを抜ける」
俺は、黙って聞いていた。
聞いてしまった時点で、もう遅かった。あとで思うことの一つだ。
「レイ」
「なんだ」
「いつ抜けるか、が問題だ。今は駄目だ。人数が少なすぎて、いなくなればすぐ分かる」
「じゃあ、いつだ」
「あの門が開く日だ」
俺は、壁のほうを見た。暗くて、何も見えなかった。
「開くのか」
「開く。中から誰かが開ける。金か、恨みか、命乞いか、どれかで開く。前にも言ったな」
「ああ」
「たぶん、俺達は、その日を待っているんだ」
エイダンは、はっきりとそう言った。
「城が落ちる日ってのは、めちゃくちゃになる。誰がどこにいるか、誰が生きてるか、数日は分からない。その間に死んだことにされる奴が、必ず何十人も出る。俺達も、その中に混ざる」
「......」
「混ざるだけだ。難しいことは、何もない」
それは、正しかった。
腹立たしいほど正しかった。この五日で、俺は誰がどう死んだのかを把握できなくなっていた。壁の下に転がっているのが誰なのかも分からない。分からないことが、こいつの計画の土台だった。
俺達が失ったものを、そのまま材料にしている。
「一つ、お前に頼みがある」
エイダンが言った。
「なんだ」
「名簿だ」
俺は、顔を上げた。
「名簿を持ってるのは小隊長だ。誰が死んで、誰が生きてるかを、紙の上で決められるのはお前だけだ。お前が線を引けば、そいつが死んだことになる。やつらはそれを写すだけだ。今日みたいにな」
「......何を言ってる」
「線を引いてくれ、と言ってる」
エイダンは、そこで初めて、少しだけ声を落とした。
「俺の名前に。まだ生きてるうちに」
風が止んでいた。
壁の下から、何かを引きずる音がした。魔物は、まだいた。
「お前もだ」
エイダンは言った。
「自分の名前にも引け。小隊長の欄は、上が管理してる。だが、城攻めの混乱の中では、管理なんか出来ない。三日あれば、俺達は紙の上で死人になる。死人は追われない」
「リーゼはどうするんだ」
俺は、そう聞いた。
なぜそれを最初に聞いたのかは、自分でも分からない。
エイダンは、少し黙った。
「連れて行けるなら、連れて行く」
「ブルーノは。ヨナスは。メルクは」
「連れて行けるなら、連れて行く」
「連れて行けなかったら?」
エイダンは、答えなかった。
それが答えだった。
俺達は、しばらく立っていた。
匂いは、消えなかった。
「レイ」
「なんだ」
「今は答えなくていい」
エイダンは、そう言って歩き出した。
少し進んだ後、止まった。
「ただ、覚えといてくれ。お前が黙ってる間は、俺はここにいる」
それだけ言って、火のほうへ戻っていった。
俺は、しばらくそこに立っていた。
懐から、名簿を出した。
暗くて読めない。読めなくても、どの行に誰の名前があるかは覚えている。
上から三行目。エイダン・ヴェスカー。二十七歳。メレシア州カルヴェン村出身。
俺が、この手で書いた。
線を引くのは、簡単だ。これまで何度もやってきた。指を動かすだけで、人が一人、いなくなる。
生きてる名前に引いたことは、一度もなかった。
その晩から、俺は名簿を開くのをやめた。
開かなければ、決めなくていいと思っていた。
そんなわけがないことに、気づいていなかった。




