第十九話 掘れない墓
塔が焼けた翌日。
その日、俺達は壁に登らなかった。いや、登れなかった。
梯子も、櫓も、残った一台の塔も、まともに使える状態じゃない。作り直すには木がいる。木を切るには人がいる。その人が、足りない。
壁の前に並んで、エルダイン兵を見ているしかできなかった。
だから、待った。
待つのには慣れている。エルダインに来てから、俺達はずっと何かを待たされている。
ただ、いま何を待っているかは、ここにいる連中は知らない。俺を含めて。
「待機しろ」それだけを言い残して、ガキみたいな顔をした指揮官は第二軍団の方へ帰っていった。
この作戦が始まる前に、俺達に悪態をついていた指揮官だ。
困ったのは、待っている間に、匂いが濃くなっていったことだ。
壁の下に、昨日の死体が残っていた。
いつもなら、インカント隊が魔法で死体を焼いていた。
その火が、来なくなった。
「焼かないんですか」
聞いたのは、ヨナスだった。補充で来た五人のうち、まだ生きているほうだ。
「焼かないんじゃない。焼けないんだ」
答えたのは、ブルーノ。うちの最年長。ヤコブの墓を掘った時、腰をさすりながら文句を言って、それでも人一倍掘った男だ。
「詠唱の連中が、もう立てないらしい。魔素酔いだろうな」
「……じゃあ、遺体は」
ブルーノはそこで、少し間を置いた。何か足そうとした顔だった。
軽口を挟むなら、そこだ。
だが、出てこなかった。ブルーノは口を閉じて、壁の方を向いた。
ゲルントなら、そこで何か言った。くだらないことを。誰かが笑って、それで話が終わった。
今は、終わらない。誰も何も言わないまま、言葉が地面に落ちたままになる。
名簿を開いた。
一晩で、五本引いた。
残ったのは、五人。
エイダン。リーゼ。ブルーノ。ヨナス。メルク。
二十四人だった隊が、五人になった。俺を入れて六人。
ゲルントの名前にも、ダルクの名前にも、線を引いた。
二人は、あの壁の上だ。片方は塔と一緒に焼けた。どちらにしても、俺の手が届くところにはいない。
だが、壁の下には、第三小隊のやつらがいる。
部下がどうやって死んだのかすら、もう、把握できなくなっていた。
魔物が来たのは、その日の夜だった。
最初に気づいたのは、音でも光でもなく、馬だった。荷馬車を引く馬が、いっせいに騒ぎ出した。繋いだ縄を引きちぎろうとして、脚で地面を掻いていた。
「クローウルフだ」
ブルーノが立ち上がった。
「――なんですか、それ」
「見りゃ分かる。狼だよ。ただ、そこらの狼よりでかい」
闇の中で、目が光っていた。低い位置に、いくつも。
十や二十では、きかなかった。それだけは分かった。
「死体の匂いに引き寄せられたか」
エイダンが言った。
「死体を放っておくと、ああやって腹を空かせた魔物が湧いてくる」
「じゃ、じゃああいつらは、我々の仲間の死体を……」
「そうだ」
エイダンは、それ以上は言わなかった。
群れは、陣には来なかった。
まっすぐ、壁の下へ向かった。
積み上がった死体のほうへ。
「本来なら、あいつらは生きたのを狙う」
ブルーノが、低い声で言った。
「群れの中の何匹かが出てきて、若いのやら弱ったのやらを削いでいく。それが狩りだ。死んだ肉ってのは、あいつらにとっちゃ二番目でね。飢えてる時だけ、そっちに手を出す」
「じゃあ、今は?」
「飢えてるんだろ。全部で出てきてる」
闇の中で、何かを引きずる音がした。布の裂ける音がして、それから、湿った音がした。
誰も、何も言わなかった。
伝令が回ってきたのは、それからすぐだ。
「魔物には手を出すな。全隊、陣を固めて夜を明かせ」
「あいつらは?」
「捨て置け。死体のために兵を出す余裕はない」
筋は通っていた。腹立たしいほど通っていた。あそこにいるのは、もう死んだ連中だ。生きた兵を出せば、生きた兵が減る。上の立場なら、俺も同じことを言う。
少し離れたところで、誰かが言った。
「かえって助かるじゃねえか。焼く手間が省ける」
悪気はなかったと思う。事実を言っただけだ。
俺は、その声のほうを見なかった。
火の前に座って、しばらく、音を聞いていた。
――明日は、こっちに来る。
そう思った。
味を覚えた獣は、必ず戻ってくる。今夜は死んだ肉で足りても、明日はどうだ。あそこを片づければ、次は生きているほうへ来る。それも、疲れて眠っている連中のところへ。
今、追い払っておかないと、後で人が死ぬ。
これは合理的な判断だ。感情で動くわけじゃない。
――俺は、本気でそう考えていた。
剣だけを持って、立ち上がった。
「小隊長殿?」
リーゼの声がした。
「どこに行かれるのですか」
「すぐ戻る」
「一人でですか」
「お前たちは動くな」
リーゼが立ち上がりかけた。
その腕を、エイダンが押さえた。
振り返った時に見えたのは、それだけだ。リーゼの肘のあたりを、エイダンが横から掴んでいる。強く。あの子が、それを振りほどけずにいる。
俺は、そのまま歩き出した。
壁の下は、思っていたより明るかった。
月が出ていた。積み上がったものの形が、はっきり見えるくらいには。
匂いは、風上に立っても消えなかった。
群れの中に踏み込んだ時、いちばん近い一匹が、顔を上げた。
口の周りが、赤黒く濡れていた。
でかい。ブルーノの言った通りだ。肩が、俺の腰より上に来る。
俺は、そいつらに斬りかかった。
踏み込んで、首の付け根に叩き込んだ。手応えは、人と大差なかった。倒れる時、思ったより静かだった。
二匹目が横から来た。跳ぶ前の、体を沈める動きが見えた。合わせて、突いた。
三匹目。四匹目。
殺せた。一対一なら、殺せる。何年もやってきた。これくらいはできる。
できて、しまった。
五匹目を斬ったあたりで、気づいた。
周りの音が、変わっていた。
引きずる音が、止んでいた。
振り返ると、群れが、こっちを見ていた。積み上がったものから顔を上げて、全部が、同じ方向を向いていた。
――生きた肉ってのは、あいつらにとっちゃ一番だ。
ブルーノの言葉が、頭の中で鳴った。
最初の一匹が跳んだ。
剣で受けた。次が横から来た。腕に牙が入った。
熱かった。振り払ったところに、足元から来た。
膝が、落ちた。
もうどうなってもいい、と思った。
本当に、そう思った。
その時、目の前が明るくなった。
火だ。
松明が、俺の頭のすぐ横を飛んで、群れの真ん中に落ちた。
二本目。三本目。獣が、いっせいに飛び退いた。
「立て!」
エイダンだった。
両手に、火のついた松明を持っていた。陣からそのまま引き抜いてきたんだろう。走りながら、投げながら、こっちへ来る。
襟を掴まれて引っ張られた。
昨日と、同じだった。
だが、昨日と違って、あいつは何も言わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、引きずった。
後ろから、槍を並べた列が来るのが見えた。
第七軍団の生き残りの連中だ。
群れは、火と槍から少し離れて、それでも去らなかった。
列が下がると、また、死体に寄っていった。
陣に戻ると、リーゼが布を持って走ってきた。腕の傷を縛りながら、何も聞かなかった。聞かないのは、この子が、聞いても答えが返らないと学んだからだ。それを教えたのも、俺だ。
ブルーノが、離れたところで松明を付け直していた。エイダンが持っていった分だ。
メルクとヨナスは、火の向こうに座って、こっちを見ないようにしていた。
誰も、何も言わなかった。咎める者もいなかった。
たぶん、ここに来た連中は、みんな考えていることが同じだった。
たまたま俺が最初に動いただけだ。
エイダンが、俺の隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。壁の下の音は、まだ続いていた。
「レイ」
「なんだ」
「なんで行った」
「追い払わないと、明日は陣に来る」
エイダンは、しばらく間を開けて言った。
「お前、それが本心じゃないだろ」
答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。前にも、同じことがあった。
エイダンは、それ以上は聞かなかった。
立ち上がって、自分の場所へ戻っていった。
俺は、腕の布を見ていた。血が滲んで、じわじわ広がっていく。
懐に手をやると、あの石がまだあった。ヤコブの石だ。血の跡は、洗っても落ちなかったやつ。
握った。丸くて、冷たい。
験担ぎは効かない。
けど、ヤコブもダルクも、効かないとわかってて持っていた。
俺も二人と同じだ。
エイダンはその日、朝まで見張りをしていた。
なにかを考えているようだったが、この時、俺は気づかなかった。




