第十八話 静かな空の下
ゲルントの背中は、あっという間に、敵の中に消えた。
古株だ。最初の二人は、斬った。三人目の腕を落とした。だが、それまでだった。
狭い足場に、エルダインの兵が、次から次へと湧いてくる。一人が槍でゲルントの足を突き刺し、崩れたところに、三本、四本と刃が入った。
声は、上げていなかった。ダルクと、同じだった。
俺は、まだ手を伸ばしていた。
届くわけがない。あいつは、もう、俺の数歩先で、動かなくなっていた。
娘が結婚するまでには帰りたい、と言っていた。
六つだと。嬉しそうに話していた。
子供がいない俺にとっては、正直よくわからなかった。
でも、あいつが娘の話をするたびに、いつか俺もこうなるのか、と思っていた。
その男が、娘のいる場所と、正反対のほうへ走って、そこで死んだ。
俺の中で、何かが、ぷつりと切れた。
それまでは、周りの怒号や剣がぶつかる音がよく聞こえて、うるさいくらいだった。
だが、その時だけは、周りの音がなくなった。
気がつくと、俺も、前へ飛び出していた。
ゲルントの倒れたところへ。ダルクの倒れたところへ。二人を置いて退くくらいなら、と、頭のどこかが言っていた。剣を握る手に、力が入りすぎて、痛かった。
周りの敵兵を、躊躇もなく殺せていた。剣の動きがよく見えた。体も、いつもより鋭く動いた。
何人斬ったかわからない。
けど、目の前のこいつを斬れば、ゲルントのところに着く。
そのとき、そいつの顔が目に入った。
テオと同じくらい。雰囲気もテオと似ていた。泣きながら、震えていた。
剣が、止まった。
「——長! 小隊長!」
後ろから掴まれた。
エイダンだった。
「よせ! もう無理だ!」
「離せ!」
「離さない!」
振りほどこうとした。あいつは、離さなかった。
俺の襟を掴んで、無理やり、後ろに下げさせた。
「ゲルントがあそこにいるんだ!」
「ゲルントは死んだ! 死んだんだ!」
わかっている。そんなことはわかってる。でも、ゲルントが、あそこに。
「周りを見ろ」
エイダンが、顎で、塔のほうを示した。
攻城塔が、燃えていた。
俺達が渡ってきた、あの二台。片方の屋根から、火が上がっている。エルダインの兵が、壁の上から、油を浴びせていた。惜しげもなく。桶ごと、ぶちまけるみたいに。まるで、もう、取っておく必要がなくなったみたいに。
火のついた油は、塔の梁を舐めて、みるみる燃え広がった。あれが焼け落ちれば、壁の上の味方は、降りる道を失う。
「塔が焼ける前に退かせろ! そうしないと、ここで戦ってる連中も全員死ぬぞ!」
「……」
「レ……小隊長。お前にしかできないんだ」
エイダンは、命令しなかった。
全部隊に「退け」と叫ぶことは、あいつには、できた。声も届いた。だが、あいつは、それをしなかった。最後まで、命令する側に、回らなかった。
代わりに、俺の腰の角笛を、俺の手に押しつけた。
俺は、角笛を吹いた。
長く、二回。撤退の合図だ。
息が、震えた。うまく鳴らなかった。もう一度、吹いた。今度は、鳴った。
壁の上の味方が、いっせいに、塔のほうへ退き始めた。焼け落ちる前の、もう一台の塔へ。斬り合いながら、後退する。エルダインの兵は、深追いしてこなかった。壁さえ守れれば、それでよかったからだ。
リーゼが、ダルクの遺体を、引きずっていた。
両脇に手を入れて、後ろ向きに、一歩ずつ。若い女の力で、大の男を。顔が、真っ赤だった。それでも、離さなかった。
「リーゼ、無理だ。はやく撤退しろ」
「つ、連れて、帰ります」
「……リーゼ」
その時、ダルクの懐から、何かが転がり落ちた。
丸い石だった。
川で磨かれたような、丸い石。アンセルの験担ぎの石。ヤコブが験担ぎと言って、拾っていたのと同じ。
効くわけがないと言っていた、その本人が、懐に、石を入れていた。いつからかは、分からない。
リーゼがこけた。当然だ。自分の体重の倍くらいの男を引きずっている。
「リーゼ! もう塔が崩れる。諦めろ!」
エイダンがリーゼにも声をかけた。
「お前もここで死にたいのか! はやく降りろ!」
「……ごめんなさい。ダルクさん」
俺達は塔が崩れる寸前で、地上まで降りた。
ゲルントがいない。ダルクがいない。二人とも、あの壁の上に置いてきた。片方は壁の上で、片方は、塔と共に焼け落ちた。
この隊で、軽口を叩く男が、いなくなった。
ヴェッセルの頃、火を囲んで笑っていた声が、一つ残らず、消えた。
俺が、笑わせてもらっていた側だった。いつのまにか、笑わせる男も、笑う男も、みんな、いなくなっていた。
その晩はとても静かだった。
俺は、火を見ていた。何も、考えないようにしていた。考えると、あの石が、頭に浮かんだ。
今は、焼け落ちた塔と共に、地面に転がっているだろう。
エイダンが、隣に来た。何も言わなかった。
ただ、俺の横顔を、しばらく見ていた。
あの時、あいつが何を考えていたのか、俺は知らなかった。
あいつが、その晩から、あることを考え始めていたことを。




