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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第一章 ヴェッセル掃討戦

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第一話 泥が染みていく

 ヴェッセルの冬は、雪が降らない。降るのは雨だ。


 三日に一度、しつこく降る。上がってもすぐには乾かない。丘の斜面が茶色く融けて、足を置くたびに脛まで沈む。


 こういう土地では、剣より靴が兵を殺す。


 濡れた靴を三日履くと足が腐る。腐ると歩けない。歩けない兵は置いていかれる。

 だから俺は、誰よりも先に靴を脱ぐ。火の近くを確保する。九年もやってれば覚える。


「おい、そこはおれの場所だ。小隊長殿」

「先に来たほうのもんだ」

「四十過ぎの足を労われ」

「まだ三十八だろ。この前は三十五って言ってたぞ」

「こういう仕事してると、老けるのが早いんだよ」

「じゃあ引退したらどうだ?」

「おれがいなくなったら、お前泣くだろ」

「バカ言え」


 火の反対側で誰かが吹き出した。


「小隊長殿、ゲルント伍長が泣かせにきてますよ」

「毎晩だよ。しつこいったらない」

「おい、聞こえてるぞ」

「聞こえるように言ってるんだ」


 ゲルントが俺の靴を蹴った。まだ脱いだばかりで、泥が飛んだ。


「うわ、汚ねえ」

「お前の靴だろうが」


 笑い声が上がった。この隊はよく笑う。飯がまずくて、雨ばかりで、四ヶ月も山を歩き回っているせいだと思う。笑わないとやってられない。


 俺はそういうのが得意なほうだった。

 昔から、黙って座っているのが苦手だった。



 統一暦二百七十九年、冬。

 第七軍団は、ヴェッセル州の掃討にかかって四ヶ月目に入っていた。


 掃討ってのは、戦がもう終わってるって意味だ。


 州都は夏に落ちた。領主は縄をかけられて帝都に送られた。街には帝国の旗が上がって、市場は三週間で再開した。


 俺はその市場を歩いたことがある。

 芋も、干した魚も、粗い麻布も、ちゃんと売られていた。値も上がっていなかった。占領軍が略奪をしていたら、こうはならない。


 残ってるのは、山に散った旧領主の残党だけだ。


 村人に紛れて、夜に出てきて、補給の荷馬車を襲って、また村に消える。それを一つずつ潰していくのが俺達の仕事だった。


 地味で、長くて、誰も武勲を立てられない類の仕事だ。


 でも俺は、この仕事に意味があると思っていた。

 本気で思っていた。ここは重要なところだ。



 俺の生まれたメレシアも、昔は同じことをやっていた。


 小領主が七人だか八人だかいて、二十年近く殺し合っていたらしい。らしい、というのは俺が覚えていないからだ。俺が一歳の時に終わった。


 父はその最後の年に死んだ。どっちの側で死んだのかも分からない。徴発された農民にどちら側もない。母は父が死んだ場所を知らないし、遺体も戻ってこなかった。


 そして帝国が来て、それが止まった。


 俺が物心ついた時、カルヴェン村には麦と羊と、退屈な平和があった。


 誰も夜に村を焼きに来ない。冬に穀物を持っていかれることもない。母は畑を耕して、俺は腹を減らしながらも生きて大人になった。


 メレシアは模範地域と呼ばれている。編入から二十六年、一度も反乱が起きていないからだ。

 俺はそれを誇りに思っていた。誇りに思って軍に入った。十八の春だ。


 ——というのは、半分だ。

 母が再婚したのは俺が十五の時で、家に自分の椅子がなくなったような気がしていた。福音のためだと自分に言い聞かせて出ていったけど、たぶん、出ていく口実のほうが先にあった。



 辞令は、雨が二日続いた後の朝に来た。


 ヴォルフ中隊長に呼ばれた時、正直、何かやらかしたかと思った。この人が兵を天幕に呼ぶのは、大抵よくない話の時だ。


「レイヴァン。今日から第三小隊を任せる」

「……はい?」

「聞こえなかったか?」

「い、いえ」

「なら返事は一つだ」


 ヴォルフ中隊長は書類から目を上げなかった。


 四十半ば。痩せて、背が高い。喜怒哀楽をほとんど顔に出さない。褒めることも滅多にない代わり、理不尽な怒鳴り方もしない。命令を受け取って、命令を渡す。それだけを二十年以上やってきた人の顔だ。


「拝命します」


 言ってから、腹の底が熱くなった。

 小隊長。二十人から三十人を預かる。名前で呼ばれる側から、名前を呼ぶ側になる。


 九年かかった。九年かかったが、俺の村の出身で小隊長になった男は、俺で三人目だ。


「あの、中隊長殿」

「なんだ」

「これ、母に手紙を書いてもいいやつですか」

「好きにしろ」

「妹がまだ字を読めないんで、母が読んでやることになるんですが」

「それは俺には関係のない話だ」


 まあ、そうだろうな。この人に世間話を振ったのが間違いだった。

 いつか一回でいいから笑わせてやりたい。まだ誰も成功していないからだ。


「浮かれるのは天幕を出てからにしろ」

「……失礼しました」

「前任は先週死んだ。荷馬車の護衛で、矢を首に受けた。即死だ」


 熱が引いた。


「調子に乗るなよ。お前が優秀だから空いた席じゃない。空いた席にお前が近かっただけだ」

「はい」

「だが席は席だ。埋める以上、埋めた者の責任になる」


 ヴォルフ中隊長が、そこで初めて顔を上げた。


「二十四人だ。減らさずに返せ。それだけでいい」



 名簿を渡された。


 天幕を出て、雨の切れ間の白い空の下で、一枚ずつめくった。

 二十四人。年齢と、出身地と、入隊年。半分は知った顔だった。


 三枚目で手が止まった。


 エイダン・ヴェスカー。二十七歳。メレシア州カルヴェン村出身。


 名簿を持ったまま、しばらく突っ立っていた。

 泥が靴に染みてくるのが分かった。それでも動かなかった。


 あいつが軍にいることは知ってる。同じ年に入ったんだから当然だ。


 でも第七軍団は一万五千人いる。同じ軍団にいることと、同じ天幕で寝ることの間には、途方もない距離がある。


 九年ぶりだった。


 十八の春、街の兵舎で、二人並んで名前を書いた。


 俺は字が下手で、書き直しを命じられた。それをあいつは横で笑っていた。笑いすぎて自分も書き直しになっていた。


 あの日から九年。

 あいつは俺の部下になる。


 ……いや待て。

 俺が命令する側。あいつが命令される側だ。


「まじかよ……」


 思わず声が出た。

 通りかかった兵が振り返ったので、なんでもない、と手を振った。


 配属先も、昇進の時期も、俺が選んだものは一つもない。全部、帝国が決めた。

 その時の俺は、それを幸運と呼んだ。


 明日、あいつに会う。

 どんな顔をすればいいのか、その晩は結局、思いつかなかった。

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