プロローグ いずれ死ぬ男
腹の傷から力が抜けていくのが分かる。
痛みはとうに遠のいていた。痛みというのは体がまだ何かを守ろうとしている証拠で、それがなくなったということは、つまりそういうことだ。十年以上、戦場にいた。この段階の人間が起き上がったのを、俺は一度も見たことがない。
だから先に言っておく。
これは、いずれ死ぬ男の話だ。俺は助からない。ここで倒れているのが結末で、これから語られるのはそこに至るまでの経緯にすぎない。
土の匂いがした。
秋口の、雨を吸った土。カルヴェン村の畑もこんな匂いがした。母が芋を掘り返すたび、根に絡んだ土くれがぼろぼろ落ちて、その匂いが立った。俺は籠を持たされて後ろに立っていた。七つか、八つ。あの頃はまだ、帝国という言葉に何の色もついていなかった。
視界の端で、剣がぶつかる音がする。
誰かが誰かを斬っている。俺ではない。俺はもう、剣を握れない。
――セラ。
声に出したつもりだった。出ていない。喉から漏れたのは、息の抜ける音だけだ。
「故郷を頼む」
エイダンはそう言った。
絞首台の下で、こちらを見もせずに。
あいつは最後まで俺の名前を出さなかった。出せば、同じ故郷の俺も疑われる。死ぬ間際にそこまで頭が回る男だった。だからこそ俺は、あいつが捕まった理由がいまだに分からない。
あいつの首に縄がかかるのを、俺は直立不動で見ていた。査定官の横で。姿勢を崩さなかった。崩したら、次は俺だった。次は俺達の故郷だった。
だから見ていた。見ていることが、あの時の俺にできる唯一の弔いだった。
――そう思うことにした。
その言い換えを覚えた日から、俺は坂を転がり始めたのだと思う。
誰かが俺の名を呼んでいる。
女の声だ。若い。
シャルロッテ王妃の声ではない。あの人は最後まで俺の名を知らなかった。名も顔も知らない男に、腹を貫かれて死んだ。名乗るべきだったのかもしれない。名乗らなかったのは、慈悲ではなく、単に俺が怖かったからだ。名を知られたくなかった。恨まれる先がある人間になりたくなかった。
あの人は倒れる前に、後ろを振り返った。
石壁の窪みに、布の塊が押し込んであった。震えていた。
「王妃を確認。王女は――所在不明」
上官にはそう報告した。
現場になし、とは言わなかった。言えなかった、が正しい。あの子を抱いた侍女を見たと言い出す兵が一人でも出れば、断定の嘘はそこで崩れる。十年以上も戦場にいると、そういう計算だけは反射でできるようになる。
嘘は、証明されない範囲でつくものだ。
ヴォルフ中隊長は俺の顔を三秒見て、頷いた。それだけだった。裏も取られなかった。
後になって理解した。あの三秒は疑いですらなかったのだ。
滅んだ小国の血が一滴どこかに流れ延びたところで、多くの軍団を抱える国の何が揺らぐ。根絶やしの命令は脅威の排除ではなかった。古い秩序の血を残さないという、それだけの作法だ。書類を綺麗に閉じるための一行。
だから帝国は、その一行を閉じないまま棚に上げた。
誰も追ってこなかった。十五年、ただの一度も。
俺はそれを幸運だと思っていた。
閉じられなかった書類は、消えたわけではないということに、思い至らなかった。
俺は、たった一行のために人生を捨てた。
捨てた側にとっては、それは人生だった。捨てられた側にとっては、最後まで、書き損じの余白ですらなかった。
三歳くらいだろうか。
拾い上げた時、腕の中の重さでそう思った。うちの妹が三つの頃と同じくらいの重さだったからだ。
その子は泣かなかった。
泣かない子供というのは、泣いても無駄だと学習した子供のことだ。俺はそれを、征服地で嫌というほど見てきた。
俺の胸ぐらを掴んで離さなかった。血の匂いのする男の服を。他に掴むものがなかったからだろうか。
この子の母親を斬ったばかりの手で、俺はその背中を撫でた。
あの時、自分がとんでもないことをしているという自覚は、確かにあった。あったのに、腕を離せなかった。
ヴァレンス。あの老いた騎士は、死ぬ間際に「子を助けてくれ」と言った。
二度目だった。死者に何かを頼まれるのは。
一度目は故郷を頼まれ、俺は帝国に残った。二度目は子を頼まれ、俺は帝国を捨てた。同じ種類の頼み事で、正反対のことをした。それでも両方とも、俺は「頼まれたからだ」と自分に説明してきた。
便利な言葉だ。頼まれたから、というのは。
自分で決めなかったことにできる。
鉄の匂いが濃くなってきた。自分の血だ。
――十五年。
長かったのか短かったのか、いまだに分からない。
薪を割った。屋根を直した。あの子が熱を出した冬、三日三晩眠らなかった。文字を教えた。字が汚いと笑われた。剣を教えた。あれは、俺がいなくなった後のためだった。そう言わなかったのは、言えば「いなくなる」という前提を認めることになるからだ。
俺はあの子に、本当のことを何ひとつ言わなかった。
言おうとした夜は何度もある。喉まで来て、飲み込んだ。そのたびに自分にこう言い聞かせた。
――この子の幸せのためだ。
……ああ。
今になって分かる。それは、帝国が俺に十八年かけて教え込んだ言葉とまったく同じものだ。
お前たちのためだ。いずれ分かる。今は知らないほうがいい。
あの理屈を憎んで、俺は逃げてきたはずだった。
逃げた先で、俺はそれを一言一句そのまま、あの子に使っていた。
業というのは、たぶんこういうことを言うのだろう。
視界が白く飛んだ。
誰かが俺の名を呼んでいる。さっきからずっとだ。
レイ、と。
あの子は俺をそう呼ぶ。エイダンと同じ呼び方だ。あの子はそれを知らない。俺が教えなかったからだ。俺の親しい人間はみんなそう呼ぶ、とだけ言った。「みんな」がもう一人も残っていないことは、言わなかった。
父とは、一度も呼ばなかった。
俺もそれを求めなかった。求める資格がなかったからだ。
――嫌われたまま死ねるなら、それでよかったのに。
声が近い。
膝をついた気配。俺の肩に手が触れる。冷たい。いや、俺の体温が下がっているのか。
やめておけ、と言いたかった。
こんな男のために、お前が泣く必要はない。お前が最初に覚えるべきだった感情は、俺への憎しみだ。それだけは正しい。それだけが、この十五年で唯一まっすぐな線だ。
だが、その手は離れなかった。
……そうか。
俺は結局、この子に一度も勝てなかったな。
斜面の下から、蹄の音が近づいてくる。
まだ終わっていない。
どうか、と誰にともなく思う。祈る相手はいない。帝国の福音は俺を破門にしたし、エルダインの神は俺を許さない。それでいい。神に許されたい男は、そもそもこんな死に方をしない。
どうか、この子が生き延びますように。
そのために俺が斬った人間の数を思えば、口にするのもおこがましい願いだが。
――さて。
目を閉じる前に、少しだけ時間を巻き戻す。
十七年前。統一暦二百七十九年の冬。
俺はまだ何も知らず、何も殺しておらず、辞令を受け取って舞い上がっていた、二十七の若造だった。
あの日から始めるのが、たぶん一番正しい。




