第十六話 灰はもう歩けない
今日も王都は、落ちなかった。
だが、こちらも馬鹿じゃない。何日も同じことを繰り返せば、いやでも見えてくる。
「小隊長殿。今日、油が来ませんでしたね」
撤退の後、梯子を担いで戻ってきたダルクが言った。
「ああ」
「矢も、昨日より少なかった気がします」
「気のせいじゃないな。壁の上の反撃も、鈍かった」
エルダインの王都は、大きい。
これを、ぐるりと囲めるほどの数は、俺達にはなかった。しかし、街道だけはしっかり押さえてる。王都へ物資を運び込む、太い道。それを、帝国が押さえていた。
「入ってこないんですよ。矢も、油も、あの壁の中には」
ゲルントだった。左腕の布は、まだ取れていない。
「毎日、馬鹿みたいに撃ってりゃ、矢も減る。撃った分は、もう戻ってこない。街道を、俺達が塞いでるからな」
「ゲルント、やけに詳しいな」
「二十年もやってりゃ、いやでも覚えます。攻める側が飢えるか、守る側が干上がるか。今回は、道を押さえたぶん、こっちが少し有利ってだけの話です」
「有利、ねえ」
「ええ。有利なだけで、楽とは言ってない」
王都の壁を見上げた。灯りが、前より少ない気がした。
その晩、飯が配られた。
薄い豆の汁と、乾いた麦。それでも、あるだけましだった。俺達の後ろで、第二軍団は相変わらず肉を焼いていたが、もう誰も、その匂いに顔を上げなくなっていた。慣れる、というのは、そういうことだ。
テオは、火の近くで、靴を乾かしていた。
濡れた革を、丁寧に火にかざしている。裏返して、中まで乾かしている。
「まだ、覚えてたのか」
俺が言うと、テオは手を止めずに答えた。
「はい。小隊長殿に、教わったので」
「手柄の立て方じゃなくて、靴の乾かし方をな」
「……手柄は、もういいです」
テオは、少し笑った。俺が知っている、前みたいなまっすぐな笑い方じゃなかった。
「立てても、意味がないってことがわかりました」
「意味がない?」
「あそこの、綺麗な軍団。自分達が敵を削って、あの人達が門をくぐる。手柄は、たぶん、全部あの人達のものでしょうから」
俺は、何も言えなかった。
こいつは、正しかった。正しいことを、俺が教えたわけじゃない。戦場が、教えたんだ。
「靴だけは、乾かしておけ」
「はい。自分は、それだけしか出来ませんから」
テオは、乾いた靴を、火のそばにきちんと並べた。
エイダンが、俺の隣に来た。
「レイ。あの梯子、なんで引き上げなかった」
俺達の野営地、少し前に置いてある梯子のことだ。
連日、俺達が使っている攻城の設備。梯子。盾を並べた櫓。
いつもなら野営地まで引き上げてくる。けど、その夜は野営地までは下げなかった。ちょうど、壁と野営地の間くらいに置いてある。また、ここから持っていく手間を少しでも省くために、小隊長間で話したからだ。
「明日も使う。運び直すのは、骨だからな」
「俺が向こうの将なら、あれを焼く」
「……焼く?」
エイダンは、王都のほうを見ていた。
「締め上げられてる側は、いつまでも黙って締められちゃいない。矢が減って、油が減って、このままじゃ削られるだけだ。だったら、こっちの梯子を焼く」
「焼くったって、火矢が届く位置じゃないだろ」
「少数精鋭で直接火を着けに行く。戻れない可能性が高いが、国を守るためだ。命を賭ける価値はある」
俺は、バルトロスの城を思い出した。あそこでも、毎晩、夜襲があった。
だが、あれとは、種類が違う気がした。
「見張りを、設備の周りに増やすか?」
「増やせるだけの人数が、残ってればな」
エイダンは、それきり、火のほうへ戻っていった。
来たのは、二日後の夜だった。
最初に気づいたのは、音じゃなく、光だった。
壁の下の闇に、火が点いた。一つ、二つ。すぐに、いくつも。松明だ。それが、こっちへ向かって、動き出した。
エイダンの忠告は当たっていた。
「敵襲――! 梯子を守れ!」
誰かが叫んだ。俺も、角笛を吹いた。短く二回。集まれ、の合図だ。
だが、遅かった。王都の門は、もう開いていた。中から、人が溢れ出してくる。松明を掲げた一団が、まっすぐ、梯子と櫓へ走っていく。
前線に最初に着いたのは、俺だった。
乱戦になった。
設備に、あっさりと火がついた。昼間は水に濡れていた木も、夜には乾いている。
炎が上がると、今度は、そこら中が明るくなった。城の夜襲は暗闇の中の手探りだったが、今夜は、火のせいで、味方も敵も、はっきり見えた。見えるからといって、楽にはならない。見えるのは、人が死ぬところだ。
「第三小隊! 俺の声のほうへ来い!」
叫んだ。喉が裂けるほど。
ゲルントの声が、返ってきた。ダルクの声も。リーゼの声も。エイダンの声も。
テオの声は、少し遠かった。だが、返ってきた。生きている。俺は、それで、一瞬、安心した。
その一瞬が、いけなかったのかもしれない。
俺の正面に、一人、飛び込んできた。
剣に、迷いがなかった。焼くと決めて、死ぬと決めて出てきた顔だ。受けて、弾いて、胴を薙いだ。倒れる間際まで、そいつは俺じゃなく、燃えている櫓のほうを見ていた。あれが燃えればいい。そういう目だった。
その向こうに、次が見えた。その次も。松明を持った連中が、倒されても倒されても、設備へ手を伸ばす。
左手のほうで、悲鳴がした。
若い声だった。聞き覚えがある。あの日、梯子の前で座り込んだ兵だ。行きません、と泣いた、あの若いの。俺が後ろの列に下げた、あいつだ。
囲まれていた。三人に。剣を、ただ振り回すだけで、当たっていない。
――間に合わない。
距離があった。俺と、あいつの間には、燃える櫓と、死体と、火の粉が、いくつもあった。
だが、間に合った奴が、いた。
テオだった。
横から突っ込んで、若いのを突き飛ばした。三人の剣の、真ん中へ、自分から入っていった。
一人を斬った。もう一人の剣を、受けた。
だが、三人目が見えていなかった。
背中から、剣が入った。
テオは、前のめりに、倒れた。
突き飛ばされた若いのが、尻餅をついたまま、それを見ていた。助かった側が、助けた側の死ぬのを、見ていた。
俺が駆け寄った時には、王都の連中は、退き始めていた。
狙いは、果たしていた。俺達の梯子は焼け、櫓は崩れ、盾は炭になった。攻城は、また、振り出しだ。連中は、燃え残りを確かめるように一度だけ振り返って、開いた門の中へ、引いていった。来た時と同じように、火を持って。
「テオ!」
抱き起こした。まだ、息があった。
「小隊長、殿」
「喋るな。今、血を止める。おい、誰か! 詠唱者を!」
インカント隊が来るわけがない。わかっていて叫んだ。取り乱している俺を横目に、テオは冷静だった。
「さっきの人は、無事ですか?」
「……ああ。無事だ。お前が、助けた」
「よかった」
テオは、少しだけ笑った。
あの、まっすぐな笑い方だった。手柄の話をしに来た、初日の顔だった。
こいつは、最後の最後で、それを取り戻した。手柄でも、仕送りでもなく。ただ、一人、死なせなかった。それだけのために。
「小隊長殿。自分は、手柄を――」
その先は、言わなかった。
言おうとして、口の中に、血が溢れたからだ。
「……テオ」
その時、誰かに肩を叩かれた。
「レイ。ここは危ない。一旦引き上げよう」
「……ああ」
俺は、テオの遺体を地面に置き、野営地のほうへ下がった。
振り返れなかった。今は、無理だ。
夜が明けた。
焼けた設備が、まだ燻っていた。黒い煙が、まっすぐ、朝の空へ昇っていく。
テオの遺体を、火のそばまで運んだ。母と、妹が二人いる、と言っていた。仕送りを増やしたい、と。その仕送りは、もう、届かない。届けるはずだった手柄も、故郷も、この夜の、名もない地面に、置いていくことになった。
俺は、名簿を開いた。テオの名前に、線を引いた。
あと、何本線を引けば、この戦争は終わるんだろう。
テオの死は、意味があったのだろうか。また、考えても仕方がないことが頭の中を支配してくる。
テオの靴が、火のそばに、きちんと並んでいた。
昨日、あいつが乾かした靴だ。乾いていた。まだ、温かかった。
足が腐らないように、置いていかれないように。俺が、教えたことだ。
守っても、死ぬ時は死ぬ。靴が乾いていようが、いまいが。
それでも、あいつは、守っていた。
「あいつ、靴だけは、毎晩乾かしてましたね」
ゲルントだった。俺の後ろに立って、その靴を見ていた。
「ああ」
「小隊長殿に、教わったって、言ってましたよ。嬉しそうにね」
「……そうか」
「乾いた靴、履かせてやりましょうや。せめて」
「……ああ」
俺達は、テオに、乾いた靴を履かせた。
もうどこへも歩いていかない足に、乾いた靴を。
そして、テオは灰になった。




