第十一話 長雨の線
突撃が失敗してから、戦は動かなくなった。
六百を捨てても、城壁は一歩も近づかなかった。もう一度同じことをしても、エルダインの門は開かない。それが誰の目にも見えていた。
だが、退くわけにもいかなかった。
この城を背中に残したまま奥の王都へ進めば、補給を断たれて、今度は俺達が干上がる。
この前のように攻めれば死ぬ。退けば元も子もない。だから軍は、動かないことにした。柵を組み、堀を掘り、上の人間が次の一手を決めるのを待つ。
待つのが、俺達の仕事になった。
夜になると、斜面で羽音がした。グレイヴクロウだ。前みたいに数は多くない。荒れた土地と、血の匂いに、どこからか湧いてくる。たぶん俺達が呼んだんだ。誰も、そうは言わなかったが。
その頃から、雨が降り出した。
山の天気は変わりやすいと言うが、今回の雨は長い。降り出すと何日もやまない。霧みたいに細かいのが、朝から晩まで落ちてくる。
土が泥になった。歩けば脛まで沈む。靴の中がいつも濡れていて、夜、火で乾かしても、朝にはまた濡れている。
足の指の間が白くふやけて、皮がむけた。掻くと汁が出た。
夜営したら飯より先に靴を脱げと、テオに言ったのは俺だ。その俺の足が、先に腐りかけていた。
夜は、あちこちで咳がした。誰かが咳をすると、離れた天幕の誰かが咳を返す。眠れない夜に、それがいつまでも続いた。
飯は、日に日に減っていった。俺達の補給は、遠い本国から運ばれてくる。この長雨で道がぬかるみ、荷が遅れているらしい。
敵の城も補給は入らないって話だった。でも、奴らはまだまだ余裕があるように見える。もしかしたら、俺達が知らない補給路があるのかも。まあ、俺が考えても仕方がないことだ。
こういう時、隊の士気を保つのはゲルントだった。
泥の中でも、あいつは口を動かし続ける。
「聞いたか。この雨がやんだら、今度こそ総攻めだとよ」
「ようやくですか?」
「嘘だよ。だけど、そう思っといたほうが気が楽だろう」
ダルクが鼻で笑った。
「伍長のその腹は、飯じゃなくて希望で膨れてるんですね」
「当たり前よ。朝には全部ケツから出てきちまうけどな」
「それは一度拝んどかないと」
ゲルントとダルクの馬鹿みたいな会話を聞いた周りの兵もつられて笑っていた。
濡れた木の下で、何人かが賽を振っていた。金はとうに尽きているから、明日の見張り当番を賭けている。負けたブルーノが二回続けて引き当てて、天を仰いだ。誰かが笑った。
「小隊長殿も一口どうです? 負けたところで、もう失うものもないですから」
兵の一人が、賽をこちらへ寄せた。
「やめとく」
「そうですか」
昔なら、何か返していた。今日から見張りを五回引く覚悟があるならな、とでも。
でも、言葉が出てこなかった。こいつは、それ以上は誘わなかった。
昔は、俺がそれをやっていた。
ヴェッセル掃討戦の頃は、俺が軽口を叩いて、部下を笑わせて、飯を食わせて、眠らせた。それが小隊長の仕事の半分だと思っていた。
今は、口が動かなかった。
笑わせようとすると、五人の顔が浮かぶ。俺が死地に放り込んで、殺した五人だ。名前を、全部覚えている。その名前を覚えたまま部下を笑わせる冗談は、俺の口からは出てこなかった。
だから、他の奴に任せた。任せて、俺は黙って靴の泥を落としていた。
テオが来たのは、そんな時だ。
「小隊長殿。いつまで、こうしているのでありますか」
「さあな。上が、次の手を決めるまでだ」
「攻めないのですか?」
「攻めて、六百死んだ。それでお前が来た。忘れたか」
テオは口をつぐんだ。だが、目はまだ何か言いたそうだった。
「自分は、手柄を立てに来たのであります。こんな泥の中で座っているために来たのでは、ありません」
まっすぐだった。
こいつはまだ、戦を手柄の立つ場所だと思っている。ヴェッセルで逃げた村人も、山の向こうで死んだ六百も、こいつの中ではまだ遠い話だ。
俺も、そうだった。こいつくらいの頃は。
「座っていられるうちは、いいことだ」
「なぜでありますか?」
「座っていられなくなった時ってのは、大抵誰かが死ぬ時だからな」
テオは、分からないという顔をした。
今は分からなくていい。もうじき、嫌でもわかるようになる。
この長雨は、戦わずに人を殺した。
泥の水を飲んだ連中から、腹をやられる者が出た。何日も下し続けて、力が抜けていく。食えないから動けない。動けないから濡れて、冷える。
やられたのは、補充で来た五人のうちの一人だった。テオと同じ天幕で寝ていた男だ。
リーゼが、その男の世話をしていた。
汚れた布を替え、水を含ませ、顔を拭いてやる。手が、慣れていた。少し前まで、人が死ぬのを見ては顔を白くしていた子だ。それが今は、汚物にも死の匂いにも、手を止めない。
強くなったんじゃない。慣れたんだ。慣れは生き延びるために要る。だが、慣れるたびに、何かが少しずつ抜けていく。
その世話の甲斐もなかった。三日下し続けて、四日目の朝には、動かなくなっていた。
斬られたのでも、矢を受けたのでもない。城の連中は指一本、触れていない。それでも、人は減る。
テオは、その死体のそばに座っていた。
俺が近づいても、動かなかった。
「小隊長殿」
「なんだ」
「こいつは、何もしていません」
「ああ」
「戦ってもいない。手柄も立てていない。ただ水を飲んで、腹を下して、それだけで」
テオの声は怒っていた。誰に怒ればいいか分からない、怒り方だった。
「これは、なんでありますか」
俺は、答えられなかった。
手柄を立てて死ぬなら意味がある。こいつはどこかでそう思っている。俺も昔そう思っていた。その考えが、今、目の前で崩れていた。
「靴を脱げ」
「……え」
「濡れてる。乾かせ。水は沸かしてから飲め。生の水は飲むな。次はお前かもしれないぞ」
言えたのは、それだけだった。
立派な死に方の話は、しなかった。そんなものはないからだ。
彼の死体は、焼かれた。
名簿から、名前が消えた。俺はヤコブの時と同じように、線を一本引いた。
減らさずに返せ、と中隊長は言った。俺はまた一人、返せなかった。
名簿を閉じようとすると、エイダンが来た。
「また一人か」
「ああ。腹をやられた」
「剣も抜かずにな」
「……ああ」
「この城は、正面からは落ちない。あの道を登らせるたびに、死体になりそこなった奴が帰ってくる。上も、それは分かってるだろう」
エイダンは、城のほうを見ていた。
「俺達は、なにをやってるんだろうな」
それだけ言って、火のほうへ戻っていった。
俺は、線を引き終えた名簿を、閉じた。
その晩、一人で火を離れた。
また岩の上から城を見た。相変わらず、暗闇の中に輪郭だけが浮かんでいる。あの一本道を、あと何度、登らされるんだろう。登るたびに、名簿の線が増える。
斜面のほうで、また羽音がした。




