第九話 忘れるな
その報せは、兵の口から口へ、風邪みたいに広がった。
エルダインに、内通者がいるらしい。
誰が、とは、誰も知らない。ただ、城の内側の誰かが、こちらに何かを流している。末端の俺達には、それ以上のことは下りてこない。
だが、今回の命令は、やけに詳しかった。
ある日の晩、中隊長ヴォルフに呼ばれた。俺だけじゃない。そこには、何十人もの小隊長が集められていた。
「明日の明朝、仕掛けるぞ」
「奇襲、ですか?」
「詳細は省くが、内通者からの知らせで奴らは明日、兵の交代を図るらしい。この長雨の影響だろう。数は不明だが、これは戦局を動かす好機だ」
俺は、地図を見た。
エルダインは、城壁の前の山道に、三千ほどの兵を展開している。城壁の中に、予備が千、と言われている。その山道の兵が減る。
流石に一気に兵を下げることはしないだろうが、たしかにこれは好機だ。
「そこで、敵左翼を突く。こちらから見て右の山だ」
「……つまり」
「ああ、お前達だ」
ヴォルフは、地図の一点を、指で叩いた。
「軽装で、千。山道の右を、一気に駆け上がる。突破して、敵中央軍に食らいつけ」
「本隊は」
「お前達が突破して敵が混乱したところを、中央から一気に叩く」
俺は、しばらく黙っていた。
言葉の意味は、分かった。分かった上で、聞いた。
「もし我々右翼が突破してもなお、敵が崩れなかった場合はどうなりますか?」
「戻ってこい。生きていたらな」
ヴォルフは、俺の顔を見なかった。
地図を巻きながら、それだけ言った。
天幕を出て、空を見た。星が、まだ出ていた。
右翼千の顔ぶれを、俺は、もう知っていた。メレシア、アンセル、名も知らない征服地。純血の帝国兵は、一人もいない。中央の本隊は、そういう連中で固められている。
右で暴れて、死ぬ役。それを、俺達がやる。
捨て駒、という言葉を、俺は口にしなかった。
口にしなくても、みんな、分かっていた。
翌朝、雨の匂いと薄い霧の中を、俺達は進んだ。
噂は、本当だった。
山道の右は、薄かった。見張りの兵が数名いただけ。前の小隊が処理をして、その間に他が進む。ここに指揮官はいない。みんな経験だけで、連携を取っている。この険しい山を進んでいるにしては順調だった。
中央軍まで、あと少しだった。
山道を抜けて、開けた斜面に出る。その先に、エルダインの中央軍の背中が見えていた。あそこへ食らいつけば、命令は果たせる。ここまでは、順調だった。
いや、順調すぎたのだ。
左手の岩陰から、声が上がった。
エルダインの、残っていた兵だ。情報通り敵左翼はかなり減っていた。だが、ゼロじゃなかった。
気づかれた。
こちらの狙いが、中央だと。
先頭の何隊かは、そのまま中央へ突っ込んでいった。止まれば、勢いが死ぬ。止まらずに、抜けていった連中もいた。
だが、第三小隊は、その残った左翼と、まともにぶつかった。ちょうど、通り道にいた。運が悪い、という言葉で済ませるには、多すぎる連中が斬りかかってきた。
乱戦になった。
ゲルントが俺の右を固め、ダルクが若いのをまとめる。エイダンは、少し離れて、崩れかけた他の小隊をまとめていた。
一人が、俺に斬りかかってきた。俺と同じくらいの、髭を生やした男だ。剣に、無駄がなかった。何度も人を斬ってきた腕だった。
打ち合った。三合、四合。腕に、重さが響く。こいつは、本気で俺を殺しに来ている。俺も、殺すしかない。
隙をついて、胴を薙いだ。男が、崩れた。倒れる間際、俺の顔を、じっと見ていた。憎むでも、恐れるでもない。ただ、確かめるような目だった。
こいつは、自分の国を守っていただけだ。俺が、故郷を守るつもりで軍に入ったのと、同じように。
その時、悲鳴が聞こえた。
リーゼの声だった。
振り向くと、エルダインの兵が一人、リーゼに斬りかかっていた。リーゼは、剣で受けるだけで、精一杯だった。押し込まれて、後ろへ下がっていく。
「リーゼ!」
叫んだ。その声で、リーゼの体が、動いた。
押し込まれながら、半歩、横にずれた。相手の剣が、空を切る。がら空きになった脇腹に、リーゼの剣が、吸い込まれた。
エルダインの兵が、崩れ落ちた。
リーゼは、剣を突き立てたまま、動かなかった。抜くことも、離すこともできずに、突っ立っていた。
初めて、人を殺した顔だった。
だが、声をかける余裕はなかった。
「小隊長! あれを!」
ゲルントが俺の横で城壁の方を指さして叫んだ。
そちらを見ると、城壁から新手が出てきた。敵の予備隊だ。
早い、早すぎる。
まだ、ほとんどがここで足止めをくらっている。中央にたどり着いたのは、ほんの一握りだろう。
ここの兵士はかなりの手練れだ。傷を受けながらも、怯まずに剣を振るってくる。
左翼と予備部隊の挟撃。まずい。このままでは、ここで全滅する。
「右翼、退けっ! 退けえ!」
後方で、誰かが号令を出した。
俺は、部下を先に走らせて、殿に回った。ゲルントが並んだ。エイダンも他の小隊の撤退を誘導している。
斜面を、転がるように駆け上った。追いせまる敵を振り払い、味方の死体を踏み越えて。
中央を、振り返った。
帝国の本隊は、動いていなかった。
俺達が右で暴れても、エルダインの中央は、揺らがなかった。揺らがない中央に、本隊は突っ込む気がなかったのか、突っ込めなかったのか。どちらでもいい。結果は同じだ。
俺達は、揺さぶるために放り込まれて、揺さぶれなかった。それだけだった。
敵陣から戻った時には、右翼は半分以下になっていた。
千で登って、戻ってきたのは、四百人ほどだ。六百が、成果もなしに死んだ。
エルダインも被害は出たはずだ。だが、城どころか、中央すら抜けなかった。
作戦は失敗し、死んだ者たちは犬死した。
第三小隊にも死者が出た。
若いのが、五人。名前を、俺は全部覚えていた。年も、出身地も、入隊年も。
死んだ。いや、死地に飛び込ませて殺したんだ。
その夜、火のまわりは、静かだった。
五人ぶん、空いていた。誰も、その場所に座らなかった。
リーゼは、飯に手をつけていなかった。
「食っとけ。動けなくなるぞ」
「……はい」
だが、手は動かなかった。
「小隊長殿」
「なんだ」
「あの人にも、家族が、いたんでしょうか」
「……分からん」
本当は、分かっていた。左翼を守っていたのは、精鋭だった。長く生きた兵には、たいてい、家族がいる。だが、それを言う勇気は、なかった。
「わたし、あの人の顔が頭から離れません」
「忘れなくていい」
「え?」
「殺された人間は、殺した奴のことを忘れない」
「……」
「お前はよく戦った。仲間を守るために。お前が殺した奴もそうだ。国や家族、誰かを守るために戦った。そして、死んだんだ」
「なぜ私が生きて、あの人が死んだんでしょうか」
「さあな。お前のほうが想いが強かったのか、ただ単に運がよかったのか。どちらにしろ、お前はまだ生きている」
「……わたしはどうしたら」
「忘れるな。忘れたら、次はもっと簡単に殺せる。そうなったら、終わりだ」
言ってから、俺は、自分の言葉に、ぞっとした。
忘れるな、と俺は言った。だが、俺はもう、村の若造の顔も、床下の女の顔も、少しずつ、思い出せなくなっていた。
俺自身が、終わりに近づいていた。それを、この子に説教していた。
リーゼは、頷いて、冷めた飯を、少しずつ食べ始めた。
その姿が、昔の自分に、よく似ていた。
似ているからこそ、この子も、いつか俺と同じになるのかもしれない。
そう思うと、飯の味が、しなかった。




