第六十話「境界接触」
セイリスは、静かにその“境界”へと手を伸ばした。
そこには何もないように見える。だが確かに、そこだけ世界の厚みが違っていた。
触れる直前、わずかに躊躇が生まれる。
(これは……本当に“入る”ものなのか?)
指先が触れた瞬間、空気が跳ねた。
拒絶でもなく、受容でもない。
まるで“存在そのものを確認するための反応”のようだった。
セイリスは一歩も引かず、そのまま押し込む。
世界が、わずかに軋んだ。
音がわずかに遅れて届く。
風が一瞬止まり、次の瞬間には別の方向から吹き始める。
視界の奥で、現実の輪郭が薄く揺れた。
「……これは」
セイリスは小さく息を吐いた。
(転移ではない)
(空間魔法でもない)
(もっと根本的な……“構造そのものの揺らぎ”)
境界の向こう側は見えない。
だが、確かに“何かがある”。
それは場所というより、流れに近かった。
空間の奥に、別の層が重なっているような感覚。
セイリスはゆっくりと手を引いた。
その瞬間、歪みは何事もなかったかのように戻る。
まるで「まだ来るべきではない」とでも言うように。
村へ戻る道すがら、空気は元に戻っていた。
鳥の声も、風の流れも正常だ。
だがセイリスだけは理解していた。
先ほど見たものは、錯覚ではない。
「これは……場所じゃない」
セイリスは静かに呟く。
「現象に近い」
ギルドに戻った報告書は、いつも通りだった。
異常なし。
魔物出現頻度、平常。
環境変化なし。
だがセイリスの中では、もう一つの事実が確定していた。
“記録の方が現実に追いついていない”
夜。
村の外れで、再び一瞬だけ空気が揺れた。
今度は触れていない。
それでも確かに、“何かがそこに在る”と分かる揺らぎ。
セイリスは剣に手を添えたまま、動かない。
(もう戻れない場所に近づいている)
(でも、これは見過ごしていいものじゃない)
境界は、そこにある。
しかし、それは“門”ではなかった。
ただ世界そのものが、わずかに裂けているだけ。
そしてその裂け目は、静かに広がり始めていた。
誰にも気づかれないまま。




