表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名も無き戦場  作者: 六花
灯火
PR
20/76

第十九話「信じるための祈り」

孤児院の朝は、静かだった。


光は柔らかく差し込んでいる。

だが、その温度はまだ低い。


セイリスは床を拭いていた。


特別な意味はない。

ただの作業だ。


それでも彼女は、丁寧に手を動かす。


子どもたちの笑い声が、少し遠くで響いている。


その音は、嫌いではなかった。


むしろ――


安心する。


「お姉ちゃん、そこもやるの?」


小さな声。


セイリスは顔を上げる。


「……うん」


短く答える。


それ以上の会話は続かない。


だが、それで十分だった。


ここでは、言葉は少ない方がいい。


そう思っているわけではない。

ただ、そうなっているだけだ。


手を止める。


ふと、胸の奥に違和感が走る。


(私は、何をしているんだろう)


すぐに否定する。


違う。


これは疑問ではない。


ただの“揺れ”だ。


セイリスはそう扱うことにしている。


祈る。


それが彼女の役割だ。


神界から与えられたもの。


人のために在るもの。


聖者としての自分。


それに、疑問を挟む必要はない。


――はずだった。


「セイリス」


背後から声。


院の責任者の女性だった。


「少し、話せる?」


セイリスは頷く。


「……はい」


外に出る。


風が少しだけ冷たい。


女性は、少し言いにくそうに口を開いた。


「最近ね、この辺りで変な噂があって」


セイリスの目が、わずかに動く。


「噂……ですか」


「うん。“形のないもの”が出るって」


その言葉に、セイリスの指先が止まる。


ほんの一瞬だけ。


「それで、子どもたちが少し怖がってて」


「……そうですか」


セイリスは空を見る。


空はいつも通りだ。


歪みはない。


異常もない。


それなのに。


胸の奥だけが、わずかにざわつく。


(形のないもの)


その言葉が残る。


まるで、どこかで聞いたことがあるような感覚。


セイリスは首を振る。


違う。


これは“信仰の揺らぎ”ではない。


ただの情報だ。


ただの噂だ。


そう処理する。


それでも。


手を胸に当てる。


祈りの形。


いつも通りの動作。


だが、声は出さない。


(私は、何を信じている?)


その問いが浮かぶ。


すぐに打ち消す。


違う。


これは祈りではない。


ただの思考だ。


「大丈夫です」


セイリスは言う。


女性が少し安心した顔をする。


「ありがとう、セイリス」


彼女は頷く。


そしてまた中へ戻る。


子どもたちの声が、また聞こえる。


笑い声。


走る音。


何も変わらない日常。


なのに。


セイリスは一瞬だけ立ち止まる。


(“形のないもの”)


その言葉だけが、


頭の中から離れなかった。


祈る理由はある。


信じる理由もある。


救う理由もある。


それでも。


(私は、それを“自分の意志”だと思っていいのだろうか)


答えは、まだ出ない。


セイリスは静かに目を閉じる。


そして、いつものように祈ろうとして――


やめた。


ただ、手を合わせたまま立ち尽くす。


風が、少しだけ遅れて流れた。


その祈りが誰に向いているのか。


彼女自身にも、まだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ