第十九話「信じるための祈り」
孤児院の朝は、静かだった。
光は柔らかく差し込んでいる。
だが、その温度はまだ低い。
セイリスは床を拭いていた。
特別な意味はない。
ただの作業だ。
それでも彼女は、丁寧に手を動かす。
子どもたちの笑い声が、少し遠くで響いている。
その音は、嫌いではなかった。
むしろ――
安心する。
「お姉ちゃん、そこもやるの?」
小さな声。
セイリスは顔を上げる。
「……うん」
短く答える。
それ以上の会話は続かない。
だが、それで十分だった。
ここでは、言葉は少ない方がいい。
そう思っているわけではない。
ただ、そうなっているだけだ。
手を止める。
ふと、胸の奥に違和感が走る。
(私は、何をしているんだろう)
すぐに否定する。
違う。
これは疑問ではない。
ただの“揺れ”だ。
セイリスはそう扱うことにしている。
祈る。
それが彼女の役割だ。
神界から与えられたもの。
人のために在るもの。
聖者としての自分。
それに、疑問を挟む必要はない。
――はずだった。
「セイリス」
背後から声。
院の責任者の女性だった。
「少し、話せる?」
セイリスは頷く。
「……はい」
外に出る。
風が少しだけ冷たい。
女性は、少し言いにくそうに口を開いた。
「最近ね、この辺りで変な噂があって」
セイリスの目が、わずかに動く。
「噂……ですか」
「うん。“形のないもの”が出るって」
その言葉に、セイリスの指先が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「それで、子どもたちが少し怖がってて」
「……そうですか」
セイリスは空を見る。
空はいつも通りだ。
歪みはない。
異常もない。
それなのに。
胸の奥だけが、わずかにざわつく。
(形のないもの)
その言葉が残る。
まるで、どこかで聞いたことがあるような感覚。
セイリスは首を振る。
違う。
これは“信仰の揺らぎ”ではない。
ただの情報だ。
ただの噂だ。
そう処理する。
それでも。
手を胸に当てる。
祈りの形。
いつも通りの動作。
だが、声は出さない。
(私は、何を信じている?)
その問いが浮かぶ。
すぐに打ち消す。
違う。
これは祈りではない。
ただの思考だ。
「大丈夫です」
セイリスは言う。
女性が少し安心した顔をする。
「ありがとう、セイリス」
彼女は頷く。
そしてまた中へ戻る。
子どもたちの声が、また聞こえる。
笑い声。
走る音。
何も変わらない日常。
なのに。
セイリスは一瞬だけ立ち止まる。
(“形のないもの”)
その言葉だけが、
頭の中から離れなかった。
祈る理由はある。
信じる理由もある。
救う理由もある。
それでも。
(私は、それを“自分の意志”だと思っていいのだろうか)
答えは、まだ出ない。
セイリスは静かに目を閉じる。
そして、いつものように祈ろうとして――
やめた。
ただ、手を合わせたまま立ち尽くす。
風が、少しだけ遅れて流れた。
その祈りが誰に向いているのか。
彼女自身にも、まだ分からなかった。




