第十八話「守る理由」
風は、乾いていた。
街から離れた丘陵地帯。
草は低く、色は薄い。
踏みしめる音だけが、やけに響く。
ヴァルクは歩いていた。
迷いはない。
それはいつも通りだった。
目的は“討伐”。
それ以上でも以下でもない。
依頼は簡単だった。
最近この辺りで暴れている魔物の鎮圧。
理由は不要。
説明も不要。
剣があればいい。
そう思っていた。
――はずだった。
視線の先に、それはいた。
巨大な魔物。
形は崩れている。
輪郭が定まらない。
まるで“存在すること自体が不安定なもの”だった。
ヴァルクは一度だけ息を吐く。
「……面倒だな」
それだけ言って、剣に手をかける。
その瞬間。
魔物が動いた。
速い。
だが、速さそのものが歪んでいる。
ヴァルクは一歩引く。
剣を抜く。
金属音は短い。
斬る。
確実に当たった。
――はずだった。
手応えがない。
「……?」
ヴァルクは眉をわずかに動かす。
魔物はそこにいる。
だが、削れていない。
いや、正確には――
“削れた形だけが保たれている”
まるで、存在そのものが“固定されている”ようだった。
ヴァルクはもう一度踏み込む。
斬る。
また同じ。
「……なんだこれは」
低く呟く。
その時だった。
背後から声がした。
「それ、普通に切っても無駄だよ」
ヴァルクは振り返らない。
声の主を確認する必要がなかった。
「冒険者か」
「まぁ、そんなとこ」
軽い返事。
男の声だった。
だが、緊張感がない。
ヴァルクは剣を構えたまま言う。
「なら下がれ」
「いや、下がっても意味ない」
「意味がない?」
「それ、倒しても減らないやつ」
ヴァルクの目がわずかに細くなる。
「どういう意味だ」
男は少し間を置いてから言った。
「“形のない噂”みたいなもんだよ」
ヴァルクは一瞬、動きを止めた。
噂。
その単語が、妙に引っかかる。
「噂だと?」
「そう。誰かが見た。誰かが怖がった。誰かが話した」
「それが積もって、ここに“形”だけできてる」
ヴァルクは魔物を見る。
確かにそれは“生物”というより、
“現象”に近い。
「……馬鹿な話だな」
「だろうね」
男は笑った。
ヴァルクは剣を握り直す。
「ならどうすればいい」
「さぁな」
即答だった。
ヴァルクの眉が動く。
男は続ける。
「俺も倒そうとしたけどさ」
「無理だったわけだ」
「うん。で、気づいた」
少しだけ間。
「これ、“守る理由”がないと消えないやつだなって」
ヴァルクの動きが止まる。
「守る……理由だと?」
男は肩をすくめる。
「意味わかんないよな」
「でもさ」
「誰かが“これは違う”って思わないと、増え続けるんだよ」
ヴァルクはゆっくりと魔物を見る。
斬っても消えない。
壊れても戻る。
存在ではなく、意味でできているもの。
「……くだらない」
そう言いながらも、剣は下ろさない。
その時だった。
一瞬だけ、記憶がよぎる。
燃える地面。
崩れる視界。
届かなかった手。
守れなかった“何か”。
ヴァルクは目を細める。
(守る……)
そんな言葉、もう使わないと決めていた。
だが。
胸の奥に、わずかな違和感が残る。
「……守る理由、だと」
もう一度繰り返す。
男は何も言わない。
ただ見ているだけだった。
ヴァルクは剣を構え直す。
「なら聞く」
低い声。
「それを消す理由は何だ」
男は少し笑った。
「さぁな」
「でも」
「ここにあるの、気持ち悪いだろ」
ヴァルクは答えない。
だが、否定もしない。
風が一瞬だけ止まる。
そして、ヴァルクは剣を振った。
今度は斬るためではない。
“確かめるため”の一撃。
空気が裂ける。
魔物の輪郭が、ほんの少しだけ揺れる。
だが消えない。
ヴァルクは静かに言った。
「……まだだな」
剣を下ろす。
戦いは終わらない。
だが、止める必要もない。
男が言う。
「倒さないの?」
ヴァルクは少しだけ間を置く。
「必要ならな」
そう言って背を向ける。
魔物はそこに残ったままだった。
だが、先ほどよりわずかに“薄い”。
まるで、誰かの認識が揺らいだかのように。
ヴァルクは歩き出す。
剣はまだ手の中にある。
だがその重さは、少しだけ変わっていた。
(守る理由……か)
それを考えること自体が、まだ不快だった。
それでも、完全には捨てきれなかった。
風が遅れて流れる。
丘の向こうで、世界はいつも通り続いている。
だがヴァルクの中だけは、
わずかに“形のない何か”が残っていた。




