第九話「振らない理由」
風は弱かった。
訓練場の端。誰もいない時間帯。
そこにヴァルクは立っていた。
剣は抜かれていない。
ただ腰にあるだけ。
それだけで十分だとでも言うように。
目の前には訓練用の的ではない。
地面に刻まれた黒い痕跡。
それは魔力が漏れたような、焦げ跡のような、曖昧な痕だった。
ヴァルクはそれを見下ろしていた。
しばらく動かない。
「……またか」
誰に向けるでもない声。
低く、短い。
風が一度だけ流れる。
その瞬間、地面の“揺れ”がわずかに反応した。
黒い気配が形になりかける。
だが、それ以上は進まない。
何かに押さえつけられているように、そこに留まる。
ヴァルクは剣に手をかけた。
しかし抜かない。
「必要ない」
そう言って、手を離す。
黒い気配はしばらく揺れたあと、また沈んだ。
最初から何もなかったかのように。
ヴァルクは一歩踏み出す。
痕跡を避けるわけでもなく、気にする様子もない。
ただ通り過ぎる。
剣士の動きではない。
戦闘でもない。
だが確かに“制御”だけがそこにあった。
歩きながら、ヴァルクはふと空を見上げる。
「……もしあれを使っていたら」
言葉は途中で途切れる。
続きは出てこない。
代わりに、軽く息を吐いた。
魔法は使える。
それは知っている。
だが、それを“知っているだけ”でいいと決めている。
それ以上は必要ない。
ヴァルクは剣に触れた。
確かめるように。
そこにあるのは変わらない重さ。
変わらない形。
それだけでいい。
それだけで、自分は成立する。
風がまた流れる。
今度は何も起こらなかった。
ヴァルクは歩き出す。
揺らないまま。




