第72話 本当の夫婦
魔法使いフォリーがウルティオと一緒に去ってから、一か月が過ぎようとしていた。
リアは毎日、フォリーが戻ってくるのではないかと期待して待っていた。村の外から誰かが来れば慌てて広場まで見に行き、ただの旅人だと知って気を落とす。ひょっとしたらと思い、森に入って使い魔たちの住処へと行ってみるが、彼らの住処は空のままだった。
(ひょっとして、もうフォリー様は戻ってこないんじゃ……)
嫌な想像をするたびに、リアは首を振ってその想像を追い払った。ゼインはと言うと、一見いつもと変わらない様子だった。いつもどおりリアと一緒に食事をし、狩りにでかけ、村人たちの手伝いをした。
傍目には普段と変わらないように見えるゼインだが、リアには彼の元気がないように思えた。ゼインは時折ふとぼんやりと遠くを見つめることがあった。夕食時の酒の量も増えているようだった。フォリーのことを村人に聞かれると、あからさまに不機嫌になった。
ある嵐の夜だった。ベッドで寝ていたリアは、背中から感じるほどの轟音を感じて目を覚ます。外ではひっきりなしに稲光が走っていて、そのたびに何かが落ちたような大きな音が響いていた。
とても再び眠れるような状況ではない。水でも飲もうと起き上がったが、ベッドサイドに置かれた水差しは空だった。リアはため息をつきながら水差しを持ち、もう片方の手で燭台を持ってキッチンに降りた。キッチンに入ろうとしたリアは、ふと廊下の奥にある扉を見つめる。
その扉はゼインの部屋に通じている。ゼインの部屋とは渡り廊下で繋がっている。
(もう寝ているかしら)
ゼインならこの雷の音に怯えることもないだろうが、リアは雷の音が苦手だ。今日の雷はいつもより酷かった。何度も雷の激しい音にビクッとなり、リアは恐怖すら感じていた。
一人でいることに心細くなったリアは、水差しを床に置き、思い切って彼の部屋へと足を進めた。扉を開け、木の板が敷かれた渡り廊下を歩き、その先にあるゼインの部屋の前に立った。
そこでリアは、はたと我に返った。自分から男性の部屋へ行くのは大胆すぎると思ったのだ。
(……そうだわ。教会で呪いを解いてから、もうひと月以上経ってる……)
ゼインはリアにキスまでしかしていない。それ以上のことはしてはいけないからだ。呪いの影響がなくなるまで一か月待たなくてはならない。気づけばとっくに一か月が過ぎていた。
このまま彼を訪ねれば、きっとゼインはキス以上のことをするだろう。リアはまだ、心の準備ができていない。
やっぱり戻ろう、とリアが戻ろうとした時だった。部屋の中からなにやら喚くような声が聞こえる。
「――るな、来るな!」
ゼインが何か叫んでいる。まさか、部屋の中に魔物が——? リアは慌てて扉を開けて中に入った。
部屋の中は真っ暗だった。リアが燭台を掲げて様子を見ると、ゼインはベッドの上で横になっていて、一見すると異常はない。だがその顔は苦悶に満ちていて、どうやら酷くうなされているようである。
「やめろ……やめてくれ! リア! どこにいる!」
ゼインはリアの名前を呼んでいる。リアはゼインのそばへ駆け寄り、彼の身体を揺り動かした。
「ゼイン様、ゼイン様!」
苦しんでいるゼインの額には汗が滲んでいた。心配そうに見つめていると、ゼインは突然パッと目を開けた。
「――リア?」
夢と現実の狭間にいるゼインは、まだぼんやりとしていた。ベッドサイドに置かれた燭台のわずかな明かりがリアの顔を優しく照らす。
「リア!」
ゼインは突然リアの腕を引っ張り、強く抱きしめた。リアは戸惑いながら、ゼインに身を任せる。
「俺はまだ夢を見ているのか?」
「現実ですよ、ゼイン様」
今度はぐいっとリアを身体から離し、ゼインはリアの顔をまじまじと見つめた。
「……すまない。夢と間違えた」
「いえ。私も驚かせてしまってすみません。なんだかうなされていたみたいだったので、勝手に入ってしまいました」
ゼインはため息をつき、ベッドから身体を起こした。
「リアには黙っていたが、実は……時々悪夢を見る。最近は悪夢を見ることも減っていたんだが、たまにこういう日がある。以前はフォリーによく眠れる薬を作ってもらっていたから、なんとかなっていたんだが」
「そうだったんですね……薬はまだありますか?」
「いや、もうない。こんなことになるなら、多めに作ってもらっておくんだった」
普段弱みなど見せないゼインの辛そうな顔に、リアは胸が締め付けられそうになった。
「……きっともうすぐ、フォリー様は帰ってきますよ」
「いや、あいつはもう戻ってこない。魔族の元で一緒に暮らすことにしたんだろう。なんだかんだ言って、魔族とフォリーは同じ種族だ。俺たちよりも気が合うはずだ」
「そんなこと……フォリー様は、私たちと楽しく暮らしていたじゃないですか。信じて待ちましょう? ゼイン様」
リアはゼインの手の上に、自分の手を置いた。その時、大きな稲光のあとに続いてドーンと激しい音がした。リアはビクッと身体を震わせる。
「怖いか?」
「……ごめんなさい。雷は苦手で……」
「リア、こっちへ」
ゼインはリアをベッドの上に座らせ、リアの背中から優しく抱きしめた。包み込まれる暖かさに、リアは少しホッとする。
「落ち着いたか?」
「……はい」
「怖い時は、俺のところに来い。そばにいてやる」
ゼインの腕に力が入る。ゼインの身体が熱を帯びる。リアの胸の音が激しくなり、雷のおかげで聞こえなければいいと思った。
「……ひと月、経ったな」
ゼインはリアの耳元に顔を寄せ、囁いた。リアは耳が熱くなるのを感じながら「……はい」と答えた。
♢♢♢
翌日、雨はすっかり上がり青空が広がっていた。リアは日課である森の女神像へのお祈りにでかけようと教会の外に出た。結局昨夜は殆ど寝ておらず、いつもよりも少し寝坊をしてしまった。
「あ、リア様! おはようございます。お祈りですか? 今日は遅いですね」
「おはようございます。ちょっと寝坊しちゃって」
「へえ、珍しいこともあるもんですねえ」
すれ違う村人と挨拶を交わしながら、リアは自分の顔が赤くなっていないか心配で、頬を手で覆った。昨夜の出来事がいまだに信じられず、まだあれは夢だったのではないかと思うほどだ。だがあれは決して夢などではない。リアは断片的に記憶を思い出しながら、一人心の中でパニック状態である。
(……でも、こんなに幸せな気持ちになるものなのね)
身体に感じる痛みとは対照的に、リアの心は幸せで溢れそうだった。もはやリアとゼインは偽装夫婦などではなく、本物の夫婦となっていた。
森の女神像で祈りを捧げたあと、リアは村に戻ろうと歩いていた。その時、後ろから「おーい」と小さく声が聞こえた気がして、リアはまさかと思い振り返る。
「……今日はいったい、なんて日なの?」
リアの目に涙が浮かび、ポロポロと零れ落ちる。彼女の目に映ったのは、魔法使いフォリーと彼の使い魔たちだ。フォリーは「おーい」と手を振りながらこちらへやってくる。
「リア様。ただいま戻りました」
フォリーは一人で、ウルティオはいなかった。少しはにかみながら微笑む彼の顔を見ながら、リアは涙を拭い、とびきりの笑顔でこう返した。
「お帰りなさい、フォリー様!」




