第55話 マティアスのお願い
ルイーゼと別れ家を出たマティアスが頼ったのは、兄のロベルト王太子だった。
ロベルトは「行くあてがない」と泣きついてきた弟の為に、王都の外れにある小さな家を用意した。王宮から追放されたマティアスを助けることは、バークス王の意思に反する。それでも兄として、困っている弟をロベルトは放っておけなかった。ロベルトはマティアスにわずかな使用人を与え、生活の面倒を全て見ていた。マティアスは一日中家にいて、退屈な日々を送っていた。
人は退屈になると、ろくでもないことを考えるものである。
マティアスはリアに手紙を書くようになった。ルイーゼと喧嘩別れした彼は、以前の婚約者であったリアが急に惜しくなったのだ。
悪かった、反省している、どうか話だけでも聞いて欲しい――自分勝手な言い訳と、自分に酔った言葉を長々と書き連ねた手紙は十通にもなった。マティアスは何度も町の市場に通い、英雄の村へ向かう行商人を見つけ、手紙をリアに届けるよう頼んでいた。
しかし、リアから返事は来ていない。
リアとゼインは結婚したことになっていて、二人は王国民に祝福される夫婦となっている。普通の感覚ならリアに手紙を送っても無駄だと思うはずだ。だがマティアスはその事実に目を逸らした。婚約時代はリアを疎ましく思い、彼女を冷遇していたマティアスが、今度はリアの優しさに縋ろうとしていた。
ある日、マティアスは王宮内にある騎士団宿舎に来ていた。バークス王からは「王宮に入ることを禁ずる」と言われているが、王宮の敷地はちょっとした村くらい広い。王族が暮らす私的なエリアに入らなければ問題ない、と見張りを無理やり納得させた。
宿舎で待ち合わせていたのは、兄のロベルトだった。二人とも騎士でもあるため、ここで会うのが一番都合がいい。
「どうしたんだ? マティアス。急に会いたいだなんて」
ロベルトは息を切らせながら、宿舎内にある小さな部屋に入った。ロベルトは日課の訓練を欠かさない。戦は終わったといえ、いつ何が起こるか分からないと彼は思っているのだ。騎士団の鎧を身に着けたまま、ロベルトは椅子にどかっと腰かけた。兄弟二人だけの私的な空間なので、ロベルトはリラックスした表情をしている。
「兄さん、また剣の稽古か? 戦は終わったっていうのに、兄さんは本当に剣が好きなんだな」
「別に、必要だからやっているだけだよ。マティアスも少しは稽古したらどうだ?」
「俺はいいよ。どうせ父上に知られたら追い出される」
「お前は昔から稽古が嫌いだったな」
マティアスが嫌そうな顔で首を振るのを見て、ロベルトは笑った。第二王子として王宮で暮らしていた頃の彼は、見た目もよく高価な服を着ていつも自信満々だった。今の彼は少し艶を失った金髪と、ただの町人のような服を着た平凡な男だった。以前の華やかな第二王子の姿はもうない。
「マティアス。今はつらいだろうが、辛抱するんだ。いつか必ず俺が王宮に戻してやる」
「頼むよ、兄さん。もうあんな汚い家で暮らすのはごめんだ」
「文句を言うな、マティアス。あれでも綺麗な方なんだ。急いで探したんだから仕方ないだろ? それにあの家はアードンの従弟の持ち物だ。あまり悪く言うな」
マティアスは新しい家が不満だった。急な家探しだったことと、バークス王に知られないように家を探さなければならなかったため、マティアスの希望どおりの家とはならなかった。その家は古くから王家の護衛をしている一族の持ち物であり、ずっと空き家だった。家は古く、外壁は蔦がびっしりと這っていて、門扉はとっくの昔に壊れていた。
「……仕方ないな、分かったよ。それより兄さん、今日は一つ頼みがあって来たんだ」
「頼み? あまり面倒なことは言わないでくれよ。今でさえ父上の言いつけを破っているんだ。これが父上にばれたら……」
「心配ないさ、リアのことだよ。彼女に手紙を送ったんだが返事がないんだ。もしかして、向こうに届いていないかもしれないんだよ。だから確実に彼女へ手紙を届ける為に、兄さんの使者を貸して欲しいんだ」
「何だって? 聖女リアに……手紙を送った?」
ロベルトはあきれ顔だ。一般的に手紙を送る方法は二つある。国中を巡る行商人に託すか、伝書鳥に手紙を持たせるかだ。ただし伝書鳥だと伝言程度の短いメッセージしか持たせることができず、決まった場所にしか届けられない。
一方王家の人間は使者を使うので、大切な手紙を確実に相手のところへ届けることができる。返事があればしっかりと預かり、王家に持ち帰る。確実に手紙をやり取りするなら、使者を使うのが確実だが、それは大事な手紙に限られる。マティアスの独りよがりなラブレターを送る為に使うものではない。
「彼女と一度話したいと思って手紙を送ったんだ。それなのに返事が来ないなんておかしいだろ? きっと行商人が手紙を捨てたんだよ。やっぱりあんな連中を頼るんじゃなかった」
「……マティアス。はっきり言うけど、聖女リアはお前に返事を書いていないんだよ。返事が来ないということは、そういうことだ」
ロベルトの気の毒そうな目が、弟の顔を捉える。リアから返事が来ないと訴えるマティアスの目は不自然に見開き、身振り手振りは大げさで落ち着きがない。明らかに普通ではない精神状態である。
「リアが俺に返事を書かないはずがない! 彼女はいつだって俺に優しかった。婚約していた時は俺の言うことならなんでも聞いてくれた。優しい彼女が、英雄ゼインのような野蛮な男の妻になるなんておかしいだろう? きっとゼインの奴が無理やり自分のものにしたんだよ。あいつはそういう男だ。だから俺が彼女を救ってやらないと……」
「マティアス」
ロベルトはマティアスの言葉を遮った。
「聞いてくれよ、兄さん」
「それは俺の台詞だ。いいか、どういう経緯があったか分からないが、とにかく聖女リアは英雄ゼインの妻なんだ。だからいくら手紙を贈ろうと、彼女から返事が来ることはない。もう彼女のことは忘れるんだ。今はとにかく大人しくして、父上の怒りが収まるのを待て。無事に王宮に戻り、王位継承権も元に戻ったら、聖女リアよりも立派な聖女を妻に迎えればいいさ」
「リアよりも立派な聖女なんかいないだろ! 兄さんは何も分かっちゃいないな。そもそも国で最も優れた聖女であるリアを、何故あんな野蛮な男と結婚させたりしたんだ。父上だってリアを手放したくはなかったはずだ。彼女を連れ戻せば、きっと父上も喜ぶ」
ロベルトはマティアスが喚き散らすのを見ながら考えていた。英雄ゼインの人気を更に高めているのが、聖女リアの存在である。戦では自ら前線に立ち、危険な場所で呪いを解いた彼女は、滅びた村の瘴気をたった一人で浄化し、美しい村の姿を取り戻した。リアの力はバークス王や大聖女アズーラの予想を遥かに超えていた。彼女のような『奇跡の聖女』がマティアスと結婚すれば、コーザー家の人気は更に高まり、英雄ゼインの勢いを少し奪うことができるかもしれない。
「……確かに、マティアスの言い分にも一理ある。父上は聖女リアを随分気に入っていた。英雄ゼインに渡してしまったことを後悔しているかもしれない。お前がもしもリアを取り戻せたら、父上はお前を見直すかもしれないな」
「分かってくれるか、兄さん!」
マティアスは目を輝かせて笑う。ロベルトはマティアスの肩を励ますように叩いた。
「リアを取り戻したいのなら俺が力になる。だが無茶は禁物だ。英雄ゼインを敵に回すのは得策じゃない。分かるな? 今は辛抱して機会を待て」
「……まあ、兄さんがそう言うなら……」
渋々といった表情でマティアスは頷く。ロベルトは満足そうに微笑み、椅子から立ち上がった。
「それじゃ俺は戻る。父上が明日隣国へ出発することになっていて、準備で忙しいんだ」
「ああ……即位式に出席するんだったっけ?」
「そうだ。父上がいないあいだ、留守をしっかりと守らないと」
ロベルトは急ぎ足で部屋を出ていった。あとに一人残されたマティアスは、天井を見上げながら思案していた。
「兄さんも結局は他人事だからな」
ぽつりとマティアスは呟いた。兄の人生は順風満帆だ。聖女の妻と息子がいて、王国民から好かれ、父親からは信頼されている。兄は何も間違えない人生を送っていた。そして兄は次期国王としての立場を盤石なものとしている。今も王が不在となる王都を守るのは兄のロベルトだ。彼がどんなに望んでも手に入れられない人生を、生まれた時から既に手にしている兄を、マティアスはずっと羨んでいた。
マティアスは突然何か思いついたような顔をして立ち上がり、騎士団宿舎を出ていった。
彼は兄の忠告を無視することにした。急いで自宅に帰り旅支度を済ませ、リアの元へ向かうと決めたのだ。




