第49話 あなたは誰?
村から逃げ出したケイトリンは、村を出て王都方面とは逆へ進んでいた。
どこへ行っていいかも分からず、ただ足を前に進めていた。街道があるといっても、でこぼこで所々ぬかるんですらいる道を、女性の華奢な靴で歩くのは難しい。靴もワンピースの裾もすっかり泥で汚れ、靴擦れで歩くたびに足がズキンと痛む。それでもケイトリンは村に戻らなかった。
そして日は徐々に傾き辺りが薄暗くなった頃、ケイトリンは途方に暮れていた。どうやらすっかり道に迷ってしまったようだ。
どこをどう間違えたのか、いつの間にか道幅がどんどん狭くなり、深い森に入ってしまった。道を間違えたと気づいて元に戻ろうとしたが、また別の道に入ってしまった。背の高い木々のせいでどこへ向かっていいか分からなくなる。そうこうしているうちに日はどんどん傾き、ケイトリンの焦りをあざ笑うように光がどんどん失われていく。そして完全に、周囲が暗闇に包まれてしまった。
ケイトリンはランタンを持っていたので、とりあえず手元の明るさだけは確保できるが、もうこれ以上先へ進むことはできなくなった。夜になり気温はどんどん下がる。寒さを感じてからケイトリンは、自分があまりにも軽装であることに気づいた。身体を縮めながらランタンのわずかな暖かさに頼っていたケイトリンは、ガサガサと風で枝が揺れる音にふと背筋がぞくりとなった。
それは本能で感じた恐怖だった。夜の森に若い女性が一人。ろくな装備もない彼女が、森の獣に対抗できる手段などない。
また、夜の森には『野盗』も潜んでいる。彼らは家を持たず、行商人や旅人を見つけると襲いかかり、金目のものを奪う。ケイトリンは金目のものを置いてきていたが、彼らにとっては美しいケイトリンそのものが『お宝』となりえる。
そして最も恐ろしいのが『魔族』の存在だ。戦が終わってから魔族はアクリア王国に完全降伏し、お互いに争わないという誓約を交わしているはずである。魔族は人間が近づけない山の奥深くで暮らしていると言われているが、一部の魔族は野盗のようになり、人間を襲うという噂もある。
ケイトリンは倒れた木の幹に座り、ランタンの頼りない灯りの元で一人震えていた。彼女が持ってきた武器と言えるものは、手紙の封を切る際に使う小さな鋏一つである。こんなものでどうにかなるとは思えないが、ケイトリンは鋏を強く握りしめながら、ただそこにいるしかなかった。
そこへガサッと物音がした。何かがこちらに近づいてくるような足音がする。ケイトリンは慌ててランタンを掲げた。いよいよ何かが近づいてきた気配を感じたケイトリンは、自分を鼓舞する為に大声を出した。
「去りなさい! 私はちっとも怖くなんかないのよ!」
足音は一瞬止まった。獣か、それとも人か――ケイトリンは息を飲み、どうすべきか素早く考える。自分の命はもはやここまでかと覚悟を決め、もう一度「私は少しも怖くなんかないわ!」と叫んだ。
ランタンの灯りに照らされ、現れたのは二本の足だった。革のブーツが目に入ったケイトリンはランタンを更に上に向ける。
するとそこには、身体全体をすっぽりと覆うローブを身に着け、顔をフードで隠した人間らしきものが立っていたのだ。
「だ、誰……?」
ケイトリンは怯えた声で尋ねる。身体はあまり大きくない。背の高いケイトリンとほぼ同じくらいだ。ケイトリンの声に応えるように、相手はゆっくりとフードを外した。
その顔を見たケイトリンは思わず悲鳴を上げた。
「あ……あなたは……」
目の前にいたのは、少年だった。年齢は十五歳くらいだろうか。銀色の髪の毛は無造作に伸びていて、あまり手入れされている様子がない。だがケイトリンが驚いたのは、彼が少年だったからではない。
少年の瞳は、まるで血のように赤い瞳だったのだ。
「あなたは魔法使い……? それとも、魔族なの……?」
震えながらケイトリンは少年に尋ねた。少年は「僕は、魔族だ」と答える。
「こ……殺さないで! 欲しいものがあるならあげるわ。この髪飾りは売れば多少お金になるはず。だから……」
ケイトリンは震える手で髪飾りを外そうとした。だが少年は髪飾りに興味を示さず、ただじっと彼女を見ている。
「ここにいたら危険だよ」
「え……?」
「安全に夜を明かしたいなら、僕についてきて」
突然魔族の少年に「ついてきて」と言われ、ケイトリンは混乱した。
「ついてきてって、あなたを信用しろって言うの? あなたは魔族でしょ?」
「死にたいなら、このままここにいればいいよ。この辺は狼や熊もいるし、下品な野盗もうろついてる。生きて朝を迎えたいなら、僕と一緒に来たほうがいいよ」
ケイトリンは迷った。このままここで一晩過ごすのは確かに危険だ。かといって魔族の少年についていけば、もっと恐ろしいことになるかもしれない。だが、結局ケイトリンは少年についていくことにした。ケイトリンは領主の娘として、どんな時も冷静に対処するよう育てられている。どうせ危険なら、わずかに生き残れるほうに懸けたのだ。
——少年がケイトリンを連れていった先にあったのは、丘のふもとにある小さな洞窟だった。入り口は狭かったが中は意外に広い。焚き火の跡と薄汚れた毛布が置いてあり、少年がここで寝泊まりしている様子が見える。
「あなたはここに住んでいるの?」
「いや、ここにはたまに来てるだけ。洞窟に戻ろうと思ったら、明かりが見えたから近づいたんだ。そしたらあんたがいた」
少年は焚き火の前に胡坐をかき、手をかざした。少年の指から炎が出て、あっという間に炎が大きくなる。魔族が使う魔法を目の当たりにしたケイトリンは、顔をこわばらせたまま恐る恐る焚き火の前に座った。
「助けてくれてありがとう。私はケイトリンよ」
「僕はウルティオ。ケイトリンはなんであんなところにいたの? その恰好からして、この辺の人じゃないでしょ」
少年はウルティオと名乗った。ケイトリンはただの魔族の少年だと思っているが、彼は魔法使いフォリーが保護して育てていた子供である。魔族の王ウィラードを実の父に持ち、本人はそれを知らずに過ごしていたが、彼を取り戻しに来た魔族によって連れ戻された。それ以来フォリーとウルティオは一度も会っておらず、既に六年以上が経過している。
「……私は北部領の人間よ」
「へえ、北部には一度『父さん』と行ったことがあるよ。昔父さんと一緒に旅をしてたんだ」
ウルティオは懐かしそうな目をした。
「お父様と旅だなんて、いいわね」
「楽しかったよ。父さんはカッコよくて、面白くて、どこへ行ってもみんなに好かれるんだ。北部ではワインを作ってる家に住み込んで、ワイン作りの手伝いをしてたこともあるよ」
「素敵なお父様なのね。今、お父様はどこに?」
何気なく聞いたケイトリンだったが、ウルティオは急に寂しそうな顔をした。
「……父さんとは、もう会えないんだ。父さんって呼んでるけど、実は本当の父親じゃないんだよ。母さんを亡くして行くあてがなかった僕を育ててくれた人なんだ。今は親戚のところにいて、父さんには会っちゃいけないって言われてる」
「それは……寂しいわね。お父様に会いたいでしょう?」
ウルティオはそれには答えず、あいまいな笑みを返した。
「……それより、ケイトリンの話を聞かせてよ。高そうな服着てるし、只者じゃないでしょ? どうせ夜は長いんだしさ」
ウルティオがいたずらっぽく笑うと、ケイトリンもつられて笑顔を浮かべた。
――ケイトリンは少しずつ、自分のことを話した。領主の娘として育ったこと、幼馴染のリックハードに恋をしたこと、リックハードへの気持ちを隠したまま生きてきたこと。
「私はリックへの気持ちに鍵をかけたまま、生きていくつもりだったの。でも彼も私と同じ気持ちだってことが分かって、もう自分の心に鍵をかけたまま生きていくことはできないと悟ったわ。このまま北部に戻っても、リックとは結ばれない。そう思ったら私、北部に帰るのが嫌になってしまって……気づいたら、村を出ていたの」
「だからあんなところにいたんだ。領主の娘なのに、ずいぶん無茶するね。お父さんに正直に話して、許してもらうことはできないの?」
「それができたら苦労しないわよ。お父様はゼイン様を私の夫にして、いずれはゼイン様を北部の象徴にしたいのよ」
ウルティオは一瞬黙り込んだ。
「……ゼイン? ゼインってあの英雄ゼインのこと?」
「ええ、そうよ。あなたにとっては……敵になるかしらね」
ケイトリンは気まずそうにウルティオを見る。ウルティオは「別に気にしないよ」とケイトリンに笑った。
「なんだか妙な感じね。少し前まで、私たちはあなたたち魔族と戦をしていたのよ? それが今じゃ、私は魔族に助けられて焚き火の前で身の上話をしているんだから」
「僕は別にケイトリンと戦う気はないよ」
「もちろん、私も同じことを思っているわ! あなたには助けてもらって感謝しているもの」
二人はお互いに微笑んだ。その後もしばらく話をしたあと、昼間の疲れがたまって眠くなったケイトリンは、そのまま横になった。目を閉じたケイトリンは、すぐに眠りに落ちた。
♢♢♢
ケイトリンがふと目を覚ますと、洞窟の外がすっかり明るくなっていた。
「ウルティオ?」
起き上がると、自分の身体に毛布がかかっていた。焚き火は消えていて弱々しい白い煙が上がっている。ウルティオの姿は見えない。
ケイトリンは外に出て彼を探したが、ウルティオはどこにもいなかった。
もう一度洞窟に戻ると、地面に何か書いてあることに気づいた。よく見るとそれはこの辺りの地図で、英雄の村までの道のりが書いてある。ウルティオが道に迷ったケイトリンの為に書き残したのだろう。
「――帰ろうかしら」
地図を見ながら、ケイトリンはぽつりと呟いた。




