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      2.一日(午後)


 花房ゆきは、チョークでアスファルトに時刻を書き込んでいた。

 駐車違反の取り締まりだ。むかしは、とくに女性警察官が見回りをして取り締まっていたそうだが、現在では駐車監視員がその役目をになっているので、警察官自らが処置をするというケースは少なくなっている。

 市民からの通報があった場合には、出動することになる。警察業務のなかでも、とくに嫌われることになる行為だ。

 あーやだやだ、と思いながらやっている。こんなことで点数をかせいでも、どうせすぐに結婚してやめようとたくらんでいるから、熱も入らない。まあ、相手はいないのだが。

「ドロボー!」

 そのとき、大声が聞こえた。

 花房ゆきの眼に、猛スピードで疾走するバイクが映った。その奥では、倒れている女性がいた。

 ひったくりの瞬間だ。

 急いでゆきは、女性に近づこうとした。

「いいから、とりもどして!」

 女性は、立ち上がりながら叫んでいる。

 追いかけるしかない。ゆきは、ミニパトに乗り込んだ。

「花房さん!?」

 いっしょに取り締まりをおこなっていた先輩も、あわてて助手席に乗り込んだ。

「追いかけます!」

「ちょ、ちょっと……」

 発進させた。

「な、な……」

 先輩の女性警官は、絶句していた。あまりにも急加速したので、声が出なかったのだ。

「地図をみせてください」

 ゆきは言った。

「そこにありますから」

 この地域の地図を助手席側のドアポケットにはさんでいる。いつもは先輩が運転をするから、使う機会はなかった。

 先輩が、なんとかそれを取り出していた。

「広げてください!」

「停まってから見なさい!」

 ブレキーは踏まなかった。

「いいから広げてください!」

 強く言ったからか、先輩が地図を広げた。

「わかりました」

「え?」

「もういいです」

 ゆきは運転に集中した。

 追いかけているバイクは、路地に入った。

「大丈夫なの? あなた、うちに来て、まだ二週間よね!?」

 それまでは墨田区の警察署にいた。

「ここらへんの路地は、かなり迷うのよ! カーナビも無意味なんだから……」

 世田谷区の路地が、迷路と呼ばれているのは知っている。

「大丈夫です!」

 ゆきは断言した。

「で、でもね!」

 そんなやりとりのあいだにも、犯人のバイクは路地を縫うように走行を続けていた。

 見失わないように追跡する。

「大丈夫!?」

 さらに道が細くなっていった。

「とばしすぎよ!」

 赤色灯はつけているから、ルール違反にはならない。

 しかし自身の反射神経をかんがみて、少しアクセルをもどした。

 バイクが曲がった。さすがに車では追えないほどの細い路地だった。

 ゆきは、迷わずに逆の方向に曲がった。

「あきらめたのね……」

 先輩は、安堵したようだった。速度もゆるめたままだから、そう信じたのだ。

「いえ、追い詰めています」

「え?」

 T字路にささしかかった。そこを左折すると、大通りに出た。

「来ると思います」

 前方からバイクが右折して、大通りに合流した。ちょうど、真後ろをとったことになる。

「とまりなさい!」

 マイクで呼びかけた。

「それは、わたしがやる!」

 片手運転に危険を感じたであろう先輩が、マイクをひったくった。

「前のバイク、とまりなさい!」

 ひったくり犯は、後ろを振り返った。

 フルフェイスのヘルメットでも、口許に笑みが浮いているのがわかった。ミニパトなら逃げ切れると甘くみているのだ。

 またバイクが路地に逃げ込んだ。

「どうするつもり?」

「このまま行きます」

 ゆきは直進した。

 サイレンを消す。

「今度こそ、あきらめたのね」

「いえ、もう逃げられません」

 しばらく行った路地の出口で、壁になるようにミニパトを停車させた。

「あの道は、ここしか出口はありません。ここで捕まえましょう」

 ゆきは、車外に出た。

「わ、わたしたち二人で? まって、応援を呼びます!」

 同じように降りてきた先輩が、車内にもどろうとした。

「間に合いません」

 路地の奥から、バイクが向かってきた。

 Uターンすることも予想できたが、それをするには道幅が狭いし、逃走する姿を見ると、そういう性格ではないはずだ。

 ヘルメットのなかの眼が、驚きに見開かれていた。瞬時にそれが余裕の光に変わった。

 ゆきは、壁となったミニパトの前で、両手を広げた。

「とまりなさい!」

 その気がないことは、あきらかだった。

「花房さん!」

 先輩の声が危険を知らせた。

 しかし、どくつもりはなかった。

「危ない!」

 バイクが、ゆきをひき殺すことはなかった。寸前で方向を変えると、ミニパトとガードレールのわずかな隙間を通り抜けていった。そのさいにバイクの車体に傷がついたようだが、おかまいなしだ。犯罪者の心理を読みまちがえていた。

 ゆきの別れたばかりの元カレがバイク好きだったのだが、いつもピカピカに磨いて大切にしていたから、愛車を傷つけるようなことはしないと勝手に思い込んでいた。

 そもそも犯罪に使うのだから、盗難したものを用意したかもしれない。

 後悔しても、時すでに遅し、だ。

 ここまで派手に追いかけたというのに、恥ずかしさと悔しさが心に入り乱れていた。

 バイクは幹線道路を逃げていく。

「なにやってるの、追うわよ!」

「え?」

 ゆきはすでにあきらめていたが、先輩の声でわれをとりもどした。これまで、決められたことをキッチリやるしか取り柄がないと陰口を叩いていた自分を反省した。

 すぐに車にもどって、バイクを追った。しかし、かなり遠くの前方を走っている。全力で逃げているというよりも、こちらをおちょくるつもりで、わざと離れすぎないようにしているのだ。

 先輩が無線で報告を入れている。

 しかし、途中で混線してしまったようだ。

 ザー、という音がしたあと、クリーンにもどった。

『突然、失礼します。そちらのPCに、花房ゆき巡査が乗車していますでしょうか?』

「はい?」

 先輩が困惑の声を返した。

『花房ゆきさんですか?』

「い、いえ……花房は運転中です」

『いま、犯人を追跡中なんですか?』

「そ、そうです」

『どこを走っていますか?』

 先輩が詳細を説明していく。

『追っているのは、バイクなんですね?』

「はい」

『見えました』

「え?」

『いま追い抜ていきました』

「いま?」

 逃走しているバイクは、大型バスを追い抜いたばかりだ。ほかに近くを走行する車両はなかった。

「まさか……」

『こちらが見えますか?』

「大型バス?」

 ゆきが思ったことを、先輩も口にしていた。

『そうです』

 大型バスがスピードをゆるめたこともあるようだが、ゆきの運転するミニパトがバスに追いついた。

 左車線にバスがいて、右車線にミニパトがいた。

「え?」

 その車体に書かれている文字を見て、ゆきは驚いた。

「警視庁!?」

 つまり、警察の所有する車両ということになる。

『私は山吹といいます。花房さん、あなたの能力は知っています。指示を出してください』

 声は言った。

 能力?

『あなたは地図を一目見ただけで、その土地の道路を暗記してしまう──そうですよね?』

 どうしてそれを……。

 その特技は、同僚にも話していない。

『指示をお願いします』

「山吹さん、でしたね?」

『はい』

 ゆきは、腹をくくった。

 ちょうどバイクが、路地へ左折していくのが見えた。

「500メートル先に交差点があります。その交差点のすぐ手前に、抜け道の出口があるはずです。そこで道を塞いでてください」

 ミニパトも、バイクを追って路地へ曲がった。

 バイクは、わざとゆっくり走行しているようだ。もはや逃げるというよりも、からかうことを目的にしているのだ。

 女だと思って。

「大丈夫なの?」

 先輩が心配していた。

 ゆきは、ゆっくりうなずいた。犯人は油断しきっている。もう罠にかかっているのだ。

 同じ幹線道路にもどるまで、どこにも脇道はない。逃げられはしないのだ。

 余裕をみせていた犯人は、幹線道路へもどることのできる路地の出口が、大型バスに封じられたのを目の当たりにして、急ブレーキを踏んでいた。

 ミニパトで塞ぐのとはちがって、ガードレールとの隙間はまったくなかった。

 慌てたように、Uターンしようとしている。

 しかし、簡単にできるほど道幅は広くない。

「とまりなさい!」

 ミニパトから降りて、ゆきは叫んだ。

 先輩も同様に犯人へ迫っていた。ミニパトと二人いれば、ほぼ隙間は埋められる。もう逃げられない。

 大型バスからも、二人が降りてきた。

 犯人はバイクを乗り捨てて、ゆきのほうに走り出した。男性と女性なら、女性のほうを選ぶのは逃走心理としては当然だ。

「どけ」

 犯人が両手を突き出しながら迫ってきた。

 ゆきは、逃げなかった。相手の右腕を瞬時につかんで、その勢いを利用して投げを放った。

 柔道は得意ではない。それでもどうにか投げられた。

 背中から落ちた犯人は、しかしすぐに立ち上がっていた。技が浅かったのだ。

「抵抗はやめなさい!」

 先輩が立ちはだかった。

 犯人の逃げ足が止まった。

「おい」

 そのときになって、大型バスからの加勢が追いついていた。

 三十歳ぐらいのラフな格好をした男性だ。その背後には、やはり年齢は同じぐらいだが、だいぶ上品な雰囲気の男性もいる。そちらのほうが、無線で話した人物だと直感した。

「警視庁──まだ名前の決まってない署の古賀だ。もう観念しろ」

 名前の決まっていない署、というところに引っかかるべきか、それとも古賀という男性の古臭い言動に注目するべきか……。

「くそ!」

 やけくそになったのか、それまで大事に抱えていたカバンを犯人は投げ捨てるように手放した。

 どうやら観念したようだ。

「現行犯逮捕な。十四時五二──」

 時刻を読み上げている途中で、ラフないでたちの私服警察官は、視線をもう一人の男性──おそらく山吹という名前──に移していた。まるで、おうかがいをたてているかのようだった。

「このまま逮捕しちゃって、いいんですか?」

 同世代なのに、敬語をつかっているところをみると、やはりスーツ姿の男性のほうが上司になるようだ。

「そうですね……うちは、まだ発足前ですから、面倒なことになるかもしれない。できれば、あなたたちで逮捕してください」

 山吹という男性は、先輩にそう切り出した。

 先輩が手錠をはめて、犯人を署まで連行した。

 彼らも大型バスでついてきた。署の前の通りに停めたのだが、あきらかにそれが原因で交通が滞ってしまった。

「花房さん、署長室に行ってください」

 自分の席にもどるなり、そう呼び出された。

 はじめての入室だったが、緊張を通り越して、恐怖すら感じていた。

 強引に犯人を追跡したからだろうか?

 それとも、あの山吹という男性に関わることだろうか?

 山吹は、ゆきに用事があるようだった。いったいどんなことなのか……。

 室内には署長のほかに、やはり山吹がいた。あの部下と思われる男性はいない。

「花房さん、こちらは山吹警視です」

 警視?

 たしか、署長の階級も警視だったはずだ。署長は五十代なのだろうが、いかにもおじいちゃんのような外見をしている。それにくらべれば、とても若い。

 まちがいなく、キャリア警察官だ。

 はじめて会った。

「単刀直入にお話させてください」

 とても品のあるしゃべり方だった。容姿からも誠実さが伝わってくる。

「花房ゆきさん、あなたにはうちに来ていただきたい」

「はい?」

 まるでプロポーズされたみたいだった。

「新しい警察署の人員を募集しているんです。花房さんの力がほしい」

「新しい警察署?」

 そういえば、まだ名前の決まっていない署、ともう一人が口にしていたことを思い出した。

「交通部──交通課の代表として来ていただけないでしょうか?」

 大層な言い回しをされた。

「交通課の代表……ですか?」

 この人は、わたしになにを期待しているのだろう──ゆきは素直に思った。

「あの……わたしは、優秀であろうと心がけています。ですが、それはあくまでも理想です。悔しいですけど、わたしは普通の警察官でしかありません」

 ここで虚勢をはっても、自分の首を絞めるだけだ。

「いえ、そんなことはありません」

 あっさりと否定された。はじめて会ったというのに、自分のなにを知っているというのだろう。

「あなたの地図を読む能力は、とても凄いと思います」

「あの……どうしてそれを知っているんですか?」

 とても気になっていた。ゆきは、それを人にアピールしたことはない。

「そういうのが記録されたファイルをね」

「え?」

「まあ、それはあとで説明をします」

「はあ……」

 結局、ハッキリとした回答はなかった。

「来ていただけませんか?」

 あらためて、お願いされた。

「それは、異動ということでしょうか?」

「そういうことになります」

 ここで了承すれば、後日、辞令がおりる算段なのだろうか?

「……拒否はできないんですよね?」

「そんなことはありません」

 それは嘘だ。警察とは、上の命令に従うだけの組織なのだ。そう考えてしまう自分は、先輩の陰口を叩く資格なんてない──ゆきは、しみじみと思った。

「いやなら、断ってください」

「……」

 そんなことをすれば、自分の警察官人生は終わってしまう。キャリアから見れば、女性警察官なんて結婚までのつなぎだと軽く考えられているのだ。

 ……まあ、自分でもそのつもりなんだけど。

「それであなたにペナルティが課せられることは、絶対にありません」

 ずるい、と思った。

 こんな誠実に言われると、信じてしまいそうになる。

「……」

「だまされたっていいじゃないですか」

 答えを出せずにいたら、そんな言葉をかけられた。心のなかを読まれたようだった。

「え?」

「いまの業務が、あなたのスキルを生かしきっているとは思えない。もちろん、通常の交通課の仕事も大切です。ですが、あなたにはもっとべつのことができる」

「そちらに異動すれば、わたしの力を発揮できるということですか?」

 自分にそんな力があるとは思えなかった。

「そのとおりです」

 ゆきは、差し出された手を握ってしまった。

 きっと、この山吹という人の魔力に魅せられてしまったのだ。

 誠実そうな外見だけではない。山吹の内面からにじみ出る引力のようなものに共感してしまったのだ。

 こういうのを、カリスマ性というのだろうか。

「……よろしくお願いします」

「ようこそ」


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