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北極星の四季

「くッ……今回はさすがに無茶が過ぎたぜェ……腰が終わる……ヘルニアが暴れてやがる……!」


夕日に照らされ、戦闘の終わりとともに"霜の縫合糸(リベラメ)"の効力が失われた。

持病の腰痛に加え、忘れていたはずの傷まで存在を主張し始め、ティナートは、僕が見たこともないほど険しい苦痛を顔に浮かべていた。


「コシュルちゃん……もう一度、"霜の縫合糸(リベラメ)"を……」

「駄目ですよ……何度も使ったら、そのぶん負担が溜まるって言ったじゃないですか……!命に関わるかもしれないんですよ?」


その返答を聞いた瞬間、最後の頼み綱が切れたと悟ったティナートの身体から力が抜け、どさりと地面へ落ちた。


「さて、ティナを施療院まで運ばないと」

「わたしも手伝います!」

「ああ……すまねェ……頼んだ……」


僕らはティナートの腕を掴み、半ば引きずるように道を戻った。

痛みに顔をしかめるティナートを見て、僕とコシュルは張りつめていたものが切れたせいか、笑いを抑えられなかった。

気づけば、さっきまで街を埋めていた騒がしさが消え、この戦いが終わったのだと思った。


だが、しばらく進んで曲がり角の先を見た瞬間、僕らは揃って足を止めた。


「えっ……」


僕とコシュルの口から、同時に声が漏れる。

ピチャ──ピチャ──

静まり返った街の通りに、水を含んだ嫌な音が鮮明に響く。

グチャリ───

続いて耳へ届いたのは、柔らかい肉が押し潰され、引き裂かれるような生々しい音だった。

想像したくも、聞きたくもない音。


「うぐ……ぁ……あぁ……」


弱々しい、掠れた呻き声が聞こえる。

か細いながらも、それはまだ生きている者の声だった。

その光景を見た瞬間、血の気が引いた。


禍異《マヴァロ》が、人を喰っていた。


「……マジかよォ……」


血が広がり、手形めいた赤黒い飛沫が壁や地面へべっとりとこびりついている。

腕を失った人間が、喰われながら苦しげに身をよじっていた。

その傍らで禍異《マヴァロ》は、口元を血で濡らし肉を噛み裂き、咀嚼の合間にこちらを見つめる。


「あ……あ……」


コシュルは凄惨な光景を受け止めきれず、呼吸を乱す。

恐怖に身体が縫い止められた僕らへ、禍異《マヴァロ》はゆっくりと腕を差し向けた。


「魔法《ルエラ》だ──!」


禍異《マヴァロ》の指先で火花が散る。

僕は二人の前へ飛び出し、抱き込むように庇った。


ドゴォォン──!


灼熱の風と飛び散った破片が一気に吹き荒れ、視界は土煙に呑まれた。

耳の奥が衝撃で痺れ、世界の音が掻き消されていく。

爆風に薙ぎ払われ、僕らは地面を転がった。

僕が前へ出たぶん、二人は直撃を免れている。

薄れていく土煙の向こうで、焼け焦げた人を踏みつけ、悠々とこちらを見下ろしているその姿。


「……解呪禍異《マヴァログレイス》……!」


ティナートはもう戦えない。

コシュルだって限界が近い。

この場であれに立ち向かえるのは、もう僕しかいなかった。


ひどく、理不尽だ。


ここまで傷ついて、ここまで足掻いて、それでもまだ終わらないのか。

ひとつ越えたと思った先には安堵ではなく、どうして別の地獄が待っている。

もういいだろうと叫びたくなる。

せめてこのまま、何事もなかったように帰らせてくれてもいいはずだった。

悪い夢であってほしかった。


けれど現実は、そんな願いを聞いてくれるほど優しくない。


僕は指先へ力を込める。拳を握り締める。

一人では勝てない。

普通の禍異《マヴァロ》すら倒せない僕に、解呪禍異《マヴァログレイス》をどうにかできるはずもない。

それでも、やるしかなかった。


「シル助ェ!」

「うあああああ!!」


叫びとともに前へ出て、拳を叩き込む。

何度殴っても、手応えはない。禍異《マヴァロ》の身体は微動だにしない。傷ひとつ入らない。

鉄塊へ殴りつけたような重い反発が腕を痺れさせ、衝撃は外殻に呑まれて消えた。

砕けるのは相手ではなく、自分の心だった。


届かない。

こんな力では、何も変えられない。


「コシュルちゃん……どうなってもいい、"霜の縫合糸(リベラメ)"をォ!」


背後でティナートが叫ぶ。

痛みに顔を歪めながらも、歯を食いしばり、震える腕で地面を押して、どうにか身体を起こそうとしていた。


「駄目です……!本当に死んでしまいます……!」


ティナートの懇願を断ち、コシュルは僕の前へ出た。


「コシュルさん!あなただけでも逃げてください!ここは僕が食い止めます……もう無理しないで……!」


僕が叫んでも、コシュルは首を横に振った。

その瞳は揺れながらも、まっすぐ前を見ている。


「……無理、させてください……私も……二人みたいに……!」


震える指先を持ち上げ、コシュルが構える。

今にも崩れ落ちそうなほどおぼつかない。それでも、その姿には退く意思がひと欠片もなかった。


「私だけ、守られているわけにはいきません……!」


コシュルは腕を掲げ、必死に魔力を練り上げる。

だが、術式はなかなか形にならない。

それも当然だった。さっきの戦闘で、彼女の魔力はとっくに枯渇していた。

コシュルの鼻から赤い筋が、つうとこぼれた。


「コシュルさん……!」


"氷像の綻び(ディエスイレ)"


コシュルから放たれた魔法《ルエラ》は、人ほどの大きさの氷像となって顕れた。

長い髪と髭をたなびかせたその姿は、厳かな怒りを帯びた神像のようでもあり、冷気の奥に抑えきれない激情を秘めていた。

だが、未完成。威力はまだ足りない。

解呪禍異《マヴァログレイス》の外殻を表面から砕きはしたが、深くまでは届かず、倒し切るには至らなかった。


「コシュルさん……このままじゃ命が危ない……!魔法《ルエラ》を解除してください……!」

「……嫌です」

「コシュルさん……!」

「ここで止めるなんて、できません……」

「皆さんと一緒に、生きてこの戦いを越えたいんです……」


コシュルの中に、遠い日の声がよみがえった。

それは病に伏した父が、かつて自分へ向けた言葉。


『コシュル……すまんな。お前には苦労ばかりさせてしまう』

『いいの、お父さん……私は大丈夫。だから、早く元気になってね』

『お前は神に愛された子だ……その優しさが、いつかきっとお前を幸せへ導いてくれるだろう』


「努力すればいつか報われるって……ずっと信じてきた……!」

「少しくらい、報われたっていいじゃないですかぁっ……!」


コシュルは力を籠める。

余力など残さない。むしろ、その身が壊れても構わないとでもいうように、限界を超えて出力を高めていった。


けれど、その願いは届かなかった。


解呪禍異《マヴァログレイス》の一撃があっけなく氷像を打ち砕く。

像はたちまち細かな破片となって弾け、冷たい光を散らしながら消えていった。


「あ……」


魔法《ルエラ》を保てなくなったコシュルもまた、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。


「ゲヒ……ゲヒ……」


耳障りなその声は、勝ち誇った嗤いにしか聞こえず、僕らは希望が潰えていく音をただ立ち尽くして聞くしかなかった。


その時だった。


ストッ──


気づいた時には、解呪禍異《マヴァログレイス》の首が地に落ちていた。

胴から切り離された断面は、信じられないほど綺麗だった。


「そうだ……努力を続ければ、必ず報われる」

「帝国はその努力を見捨てない……然るべき対価を与える」


解呪禍異《マヴァログレイス》の全身が風に溶けるように崩れていく。


人影が立っていた。

長身。ティナートにも劣らない体躯。

銀髪を揺らしながら、ひとりの騎士が剣を下ろしていた。

たった一太刀。

それだけで、あれほど戦場を覆っていた絶望が断ち切られていた。


「……誰だ……?」


僕には分からない。

けれど、その場の反応がすべてを物語っていた。

コシュルが血の気を失った顔で、祈るようにその名をこぼす。


「ローヴェス……様……」


その名に、ティナートも息を呑んだ。


「ローヴェスって……まさか……」


銀髪の騎士、ローヴェスは静かに剣を収める。


「救助が遅れ申し訳なかった。国民をこのような目に遭わせたのは、私の落ち度だ」

「だが、もう心配はいらない」

「──禍異《マヴァロ》の脅威はすべて葬った」


その声は圧倒的で、この場の主導権が完全に彼へ移ったのが分かる。

場に立っているだけで、絶えず睨まれているような錯覚に襲われ、全身の産毛が逆立つ。

僕はその重圧に息を詰まらせながら、どうにか声を絞り出した。


「あ……あの、ローヴェス様……」

「怪我人がいます……禍異《マヴァロ》に襲われた人が、まだ生きていて……」

「お願いです……!施療院まで運んでもらえませんか……間に合ううちに……!」


僕ひとりの手では、とても運びきれない。

だが、この人なら助けられる。

さっき国民を案じる言葉を口にした騎士が、見捨てるはずはない。そう思った。


「……なぜだ?」

「え……?」

「あの体の紋様……奴隷の刻印だ」

「私に、あれを救えと言うのか?」


奴隷。なんだ、その言葉は。

知らない。だが、知らなくてもわかってしまう。

ローヴェスの口ぶりで十分だった。

その刻印がある者は、助ける価値もないと見なされる。

そういうことなのだと、嫌でも理解できた。

なぜあの人がここに取り残されていたのか。

なぜ逃げもせず、助けも求めず、あの場にいたのか。

わかった気がする。


けれど、助けない理由にはならない。

奴隷だろうが何だろうが、人は人だ。

人の命に、軽いも重いもあるはずがない。

なのに、この男は。どうしてそんな問いを返せる。

どうして救わないという判断を、何の迷いもなく口にできる。


理解できなかった。


「はい、お願いします」

そう言おうとした、その瞬間だった。

横から伸びた手が、僕の口を塞ぐ。

……ティナートだった。

苦痛に顔を歪め、口から血をこぼしながら、僕を止めるために手を伸ばしていた。

自分の身より、僕の言葉を封じることを優先して。


(ティナ……なんで……)


コシュルもすぐに言葉を継いだ。


「いえ、帝国を裏切った者に施す救いなど不要です」

「どうかご無理なさらず、お休みくださいませ……"北極星の四季(ポラゼクェル)"ローヴェス・リオネペル様」


コシュルの顔をしているのに、そこにいるのは別の誰かに思えた。

"北極星の四季(ポラゼクェル)"──フェルキールから聞いたことがある。

帝国の心臓を守る近衛騎士団。目の前のこいつは、その一人だった。


「……ああ、貴様らも退いて休め」

「明日からも、プラティカムには変わらぬ平穏が戻る」

「帝国に忠義を尽くし、与えられた務めを全うするがいい」


そう言い残し、ローヴェスは街の奥へ消えていった。

静まり返った街と同じように、奴隷と呼ばれていたその人もまた、静かに冷たくなっていた。


挿絵(By みてみん)

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