懺悔室に咲く反逆
僕は、目の前の亡骸を見つめていた。
無残に損なわれた身体はもう動かず、さっきまで確かにあった苦悶の声も、もうどこにも残っていない。
助けられなかった。目の前で、人が死んだ。受け止めきれず、思考は働かなかった。
「ローヴェス・リオネペル……あんなやつが来てたとは、思いもしなかったぜェ……」
コシュルは亡骸の前で祈りを捧げていた。
頬を伝った涙が、目に焼きついて離れなかった。
「この国では、奴隷をかくまうことも救おうとすることも、重い罪にされます。つらい話ですが……あのお方の前では、ああするしかなかったんです」
「奴隷だからって……なんで、こんな……」
「シル助……俺らだって、言いてェことは同じだ……だけどよォ……」
あそこで僕が口を滑らせていたら、夜叉の露見以上の火種を抱え込んでいただろう。
わかっている。わかっていても、飲み込めるわけがなかった。
「……僕が強ければ……救えたのかな」
誰も答えなかった。誰もが同じ痛みを抱え、黙り込んでいた。
救えたはずの命が、目の前で失われた。
人の命が、まるで道端の石ころのように切り捨てられた。
悲しみとも怒りとも悔しさともつかない感情が、濁った泥のように身体の底へ沈んでいく。
プラティカムを襲った禍異の脅威は去り、被害の中心にいた僕らもどうにか生き残った。
本来なら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。
けれど、そんな感情はどこにも見つからなかった。
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兵士に運ばれ、僕らは施療院へ戻った。
診察のためにそれぞれ中へ通され、僕はひとり外で待つ。
やがてティナートが先に姿を見せ、そこからは二人でコシュルを待った。
崩れた瓦礫を片づける者や、家族の無事を確かめ合う者、水を運び焼け跡を見回る者……
傷だらけの街には、人の気配が徐々に戻り始めていた。
「解呪級が四十、通常個体は百を超えたらしい」
そんな兵士たちの会話が、耳に入る。
「本当かよ……とんでもねぇ大事件じゃねぇか……」
「それでも死亡者は出なかったそうだ。街の被害も、天装艇一機と家屋がいくらか崩れた程度らしい」
「討伐隊もすべて、避難民の保護と支援に回されたそうだ。ローヴェス様お一人で、プラティカムを守り切ったとか」
「"北極星の四季"がいる限り、エウルヴェーブ帝国は揺るがんな」
死亡者はいない。
公に数えられる中に、あの人は含まれていなかった。
「すみません……!お待たせしました」
小走りで戻ってきたコシュルは、皮袋と、入りきらなかった薬瓶を落とさないよう胸元へ抱き寄せていた。
青ざめていた顔にも、血の気が戻ってきている。
「コシュルちゃん、もう平気なのかァ?」
「はい!これを飲んだので、消耗した魔力もだいぶ戻りました」
そう言って、コシュルは薬瓶を一本掲げてみせた。
瓶の中では、見慣れない色の液体が揺れていた。
「今回は、普段より効果の高いものをいただけたので、もう大丈夫です」
「……本当に、無事で良かったです」
僕がそう言うと、コシュルは少し照れたように目を伏せ、こくりと頷く。
「私が無事でいられたのは、シルさんのおかげです……ありがとうございます」
「コシュルちゃん……すまねェけど、あの力のことは他のやつには話さねェでほしい」
「勿論です……!このことは私だけのものにしておきます」
コシュルの迷いのない返事を聞いて、残っていた不安がひとつ軽くなった。
「……そろそろ戻ろうか、ティナ。フェルさんも心配してるだろうし……」
「お……おォ……そうだなァ……」
ティナートの返事は、どこか歯切れが悪く、何か言いたげにこちらを見たものの、結局それは言葉にならなかった。
「もう、行ってしまうんですか……?」
「はい……もう一人の友人にも、迷惑をかけてると思うので」
「そう……ですか……」
コシュルの表情が目に見えて沈む。
笑おうとしているが、その落胆までは隠せていなかった。
その表情に引かれるように、僕は言った。
「……また……会いにいきます」
「……え?」
コシュルが顔を上げる。
「コシュルさんの聖歌を聞きに……会いにいきます」
驚きに丸くなっていた瞳が、すぐに嬉しさで輝いた。
沈んでいた表情も、見る見るうちにやわらいでいく。
「はい……!今度は寝坊しません!」
返ってきた元気な声に、思わず笑みがこぼれる。
そうして僕らは、そこで別れた。
手を振ると、コシュルも瓶を抱えた腕を揺らしながら、何度も手を振り返してくれた。
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別れてしばらくした頃、隣を歩いていたティナートが不意に口を開く。
「……なァ、シル助」
「どうしたの?」
ティナートはどこか落ち着かない様子だった。
視線をさまよわせ、言いづらそうに頭を掻きながら言葉を探している。
こんなふうに歯切れを悪くするのは、いかにも彼らしくなかった。
「コシュルちゃんさ、俺らの仲間に誘えねェかなァ……って」
「ほらよォ、魔法だって使えるし、ああいう子が一人いりゃ、だいぶ違うだろォ……」
思わずティナートの顔を見るが、それは冗談で言っている顔じゃなかった。
「……彼女はこの国を信じてる……僕らと同じ道は選ばないと思う」
「信じてるっていうより、信じるしかねェんだろ……不満だって、ずっと漏らしてたじゃねェか」
食い下がる声は、いつになく真剣だった。
「それに……病気の家族もいる」
「そこは説得してよォ……俺の親父に話せば、手を貸してくれるかもしれねェだろ?」
「……彼女に戦場は……似合わないよ」
ティナートの言葉は痛いほどよく分かった。
できることなら、僕だってそうしたかった。
コシュルが一緒に来てくれたら、どれほど心強いか分からない。
今日だって何度も助けられた。
あの細い身体で恐怖を堪え、それでも前へ出た姿は、今も頭に焼きついている。
だがそれ以上に強かったのは、彼女に無理をさせたくないという思いだった。
僕らの進む先にあるのは、穏やかな旅路なんかじゃない。
血の匂いがして、一つ間違えれば何もかも失う道だ。
そんな場所へ、この街で静かに生きてきた彼女の人生を引きずり込むことはしたくなかった。
しばらく黙って歩いていたティナートが、足を止めた。
「……ワリィ……傷が少し響いてきた……施療院に戻るわ……」
「大丈夫?」
ティナートはいつもの調子を作るように笑っていたが、その顔にはどこかぎこちなさが残っていた。
「あァ、気にしなくていい……すぐ戻るから、先に帰っててくれェ」
「……無理しないでよ」
「おォ」
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コシュルはちょうど帰る支度を終えたところだった。
寝台で休む父親へ別れを告げ、扉へ手をかける。
開いた途端、見覚えのある大きな背が視界を塞ぎ、彼女は思わず足を止める。
「ティナート……さん……?戻ってきたんですか……?」
「へへ……まぁ、ちょっとなァ……」
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二人は夜の街を並んで歩く。
控えめでやわらかな声が、静かな通りにそっと響く。
「あの……お話って……」
「あ、いや……その、なんて言やァいいか……」
ティナートはすぐには言葉を返せない。
落ち着きなく目を揺らし、何度か口を開きかけては閉じ、ようやく言葉を絞り出す。
「コシュルちゃん、国に対して不満とか、抱えてねェのか?」
「えっ……?」
あまりに唐突な問いにコシュルは声を失った。
二人のあいだに気まずい沈黙が流れた。
「すまねぇ……急に変なことを聞いちまって……」
「いえ……!」
首を振ったものの、コシュルはすぐには答えない。
落とした視線の先で指先を動かしながら、思いを巡らせていた。
やがて、何かを思いついたのか、「あ……」と声を漏らし、彼女は小走りで通りの先へ向かった。
その先にあったのは、あの礼拝堂だった。
コシュルは扉を開けて中へ入り、振り返ってティナートを懺悔室へ招き入れる。
「シルさんと初めて話したのも、この部屋なんです。だからか、ここに来ると少しだけ本音を口にしやすくなる気がして……」
ティナートの大きな体には窮屈だったらしく、身を縮めるようにして声を待っていた。
「……さっきの答え、なんですけど」
「思うところがないと言ったら嘘になります」
「税のことも、奴隷のことも……私だけじゃなく、この国で暮らす人たちが苦しんでいる今の状況を、当たり前のこととして受け入れるのは……どうしても納得できません」
「そ……そうだよなァ」
ティナートは息を吐き、覚悟を決めたように続けた。
「実はよォ……俺もシル助も、この国のやり方をどうしても見過ごせなくてさ……黙って従って生きてくのが、どうにも性に合わなかったんだ」
「だから、この国に刃向かうための旅、してんだ……」
「それって……」
顔は見えなくても、彼女が怯えているように感じられた。
「あァ……まぁ、言い方を変えりゃ反逆だなァ」
「そう、だったんですね……でも、どうしてそれを私に……」
ティナートは少しだけ困ったように笑ってから、仕切り越しでも伝わるほど真剣な眼差しを向け、その思いを口にする。
「コシュルちゃんが力を貸してくれたら、心強ェって思ってよォ……」
「……!」
思いがけないその言葉にコシュルは息を止め、袋を抱える手へ強く力を込めた。
「もちろん楽な道じゃねェ……けどよォ、シル助の力は見ただろ?」
「あいつなら、無理だと思うような道にも希望を見出せる……この反逆だって、勝ち目はあるって思ってる」
「でも、あいつ一人じゃ足りねェんだ……」
コシュルは黙り、あの戦いを思い出していた。
死を前にしても退かず、進んでいったシルの姿を。
「シルさんの力……たしかに、そうかもしれません」
「だろォ!」
「……家族のことが簡単じゃねェのも分かってる。けど、治療にかかる金なら、俺の知り合いに頼ればどうにかできるはずだ」
ためらう理由をひとつでも減らしてやりたかったのだろう。
コシュルは黙ったまま天井を見上げる。心のどこかではその誘いに惹かれているのかもしれない。
「ずっと、思っていました。この国で、みんなが幸せに暮らせるようになればいいって」
「でも……そんな願いが叶うはずがないって、諦めていたんです」
「……シルさんが戦う姿を見た時、思ったんです」
「こんなことが本当に起こるんだって、不可能だと思っていたことにも、手が届くのかもしれないって……」
「……そんなシルさんの役に立てるなら、嬉しいです」
度重なる沈黙に、彼女の葛藤がよく伝わってきた。
「……でも、やっぱり……今すぐには決められません。父のことも、この街のことも、私にはまだ置いていけないんです」
「だから……少しだけ、考えさせてください」
ティナートはその言葉を受けて、何かを失ったように目を曇らせた。
「……そう、だよなァ……すまねェ……こんな話、急にしてよォ……」
「焦らなくていい……コシュルちゃんが納得できるまで考えて、それで答えを出してくれェ」
コシュルはその言葉を受け取り、揺れる気持ちを抱えながらも、約束を交わす。
「……明日、礼拝堂に来ていただけますか?その時に、ちゃんとお返事します」
「そんな早くて大丈夫なのかァ?」
「はい……あまりお待たせするのも、心苦しいので」
「わかった……じゃあ明日、ちゃんと聞きに行くぜェ」
そうして二人は別れた。
見送った背中が完全に見えなくなった頃になって、ティナートの頭も少しずつ冷えていき、自分がどれほど重い言葉をコシュルに渡してしまったのかを今さらのように悟る。
後から後から不安が込み上げ、ティナートは夜の通りに足を止めた。




