チャプター59 ― 燃え盛る紫の炎が、凄まじき吹雪と激突する!
その夜、俺たちは皆、中心街の外れにある古い宿に腰を落ち着けていた。
石造りの建物で、揺らめく油灯が室内を淡く照らしている。
薪の燃える匂いと、焼きたてのパンの香りが空気を満たしていた。
俺は、あの伝説の暗殺者――暗殺者マスター・アーリャと、テーブル越しに向かい合って座っていた。
フードを外していても、彼から放たれる重い存在感は消えていない。
静かで、落ち着いているのに、いつでも斬りかかれる――そんな気配だ。
エリー、ブランシュ、ヴァイオレット、エスター、フードの女、そしてアンバーが、同じテーブルを囲んでいた。
背後では暖炉の火がぱちぱちと音を立て、外では雨が静かに降り始めている。
アーリャは杯を手に取り、ゆっくりと一口飲み干してから、グラスを置き、指を組んでテーブルの上に乗せた。
「ダルテン……この名前、気になっただろう、エンジェル」
俺はゆっくりと頷いた。
「彼は……かつての俺の弟子だ。ずっと昔の話だがな」
一瞬、沈黙が落ちる。
アーリャはため息をつき、蝋燭の炎を見つめた。
「優秀な少年だった。献身的で、常に他人を助けようとし、戦えない者を守ろうとした。……ある意味で、光のような存在だった。いつも笑っていた」
その言葉は、どこか郷愁を帯びて空間に漂った。
だが、彼の声色が変わる。
「だが、最愛の友を失った日からだ。彼は“消えた”。身体ではない……目が、二度と同じ光を宿さなくなった。笑わなくなり、人の言葉に耳を貸さなくなった。そして、最も暗く、最も危険な任務ばかりを選ぶようになった。気づいた時には……彼は《リリスの放浪者の修道会》に身を置いていた」
胸が締めつけられる。
その名は、俺も知っている。
俺は小さく呟いた。
「……ルドヴァーンが話していた組織だ」
アーリャはゆっくりと視線を上げ、驚いたように俺を見る。
「その名を知っているのか?」
「捕らえられる前に……ルドヴァーンが、俺に教えてくれた」
彼は静かに頷き、表情をさらに険しくした。
「なら、その影響力の大きさも分かるはずだ。あの修道会は、ただの傭兵集団じゃない。あれは狂信者の集まりだ。すべてを失い、リリスに意味と救いを見出した者たち……ダルテンも、そこに居場所を見つけた。そして、昇り詰めた。《百座》の一人にまで上り詰めたのだ」
ブランシュが眉をひそめる。
「“百座”……?」
「修道会最強の百人だ。王国ですら、名を口にすることを避ける存在だ」
俺の脳裏に、瀕死のルドヴァーンの言葉が蘇る。
俺は、ほとんど独り言のように呟いた。
「ルドヴァーンは……第二十席だった」
アーリャは俺を見つめ、悲しげな笑みを浮かべた。
「なら分かるだろう。ダルテンは、かつて第十六席――
リリスの放浪者の修道会・第十六席――だった。そして、そんな男が自ら動いたということは……目的は、お前の捕縛だけじゃない」
重い沈黙が宿を包む。
聞こえるのは、ただ炎の音だけだった。
アンバーが腕を組み、低い声で言う。
「つまり……修道会が、再び動き出したということね。なら……“何か”が近づいている」
アーリャは頷いた。
「そうだ。古いものだ。彼らが、何百年も待ち続けてきた“何か”だ」
俺は動けず、炎を見つめていた。
空気の中に、嵐の前触れのような匂いを感じる。
そして、頭の奥で、あの言葉が何度も反響していた。
「百席の第十六位は、お前を“生きたまま”欲している。エンジェル……」
アーリャはしばらく沈黙したまま、指でテーブルを一定のリズムで叩いていた。やがて、紫の瞳に鋭さを宿し、顔を上げる。
「ダルテンがヴォルタにいる……それだけで、状況は俺の想定を遥かに超えている……」
俺は眉をひそめた。
「俺一人のために、来たってことか?」
彼は首を横に振る。
「違う。お前だけが目的なら、赤級アーティファクトは使わない。つまりな、エンジェル……《リリスの放浪者の修道会》は、すでにヴォルタに根を張っている。深く、見えず、そして古く」
エリーが身を乗り出す。
「……古く?」
「おそらく数百年だ。ヴォルタは“侵入”されているんじゃない。“支配”されている。政治も、軍も……もしかすると精神面すらな。あの連中は置き換え、潜り込み、形作る。王国自身が、誰のものなのか分からなくなるまでな」
背筋に悪寒が走る。
「気づかれないまま……統治しているってことか?」
「その通りだ。修道会は名声を求めない。求めるのは“見えない支配”。ダルテンがここに送られたということは……彼らが守っている“何か”か、“誰か”がいる」
アンバーが低く問いかける。
「ヴォルタだけじゃない……そう思っているのね?」
アーリャは彼女を見て頷く。
「複数の百席が、すでに他国にいると見ている。セレスティア、エスターの王国、ブランシュの王国:「エーテル」……ソラリア、火と太陽の大地……そして、おそらくピュラにも。
“清廉”や“高潔”とされる組織の中にすら、な」
ブランシュの身体が強張る。
「……指導者の中にも、操り人形がいるってこと?」
「可能性は高い」
誰も言葉を発しなかった。
炎さえ、その重みに揺れているようだった。
俺はアーリャを見つめたまま、目を逸らせなかった。
「じゃあ……ヴォルタのこの平和は……」
「――仮面だ」
アーリャが静かに言った。
「奈落を覆う、薄い幕に過ぎない」
アンバーが拳でテーブルを叩く。
「なら、炙り出すしかない。全員」
アーリャは疲れたように、皮肉な笑みを浮かべる。
「簡単に言うな。奴らは決して表に出てこない。一枝を断っても、別の場所で十枝が伸びる……」
沈黙。
俺はブランシュ、ヴァイオレット、エスター、エリー、フードの女、そしてアーリャを順に見た。
彼の言葉は、すべて正しかった。
それでも――
もし、何百年もヴォルタを支配してきたのなら。
今こそ、誰かが根こそぎ引き抜く時だ。
……その決意を、俺はまだ、口にはしなかった。
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二つの声が、柔らかく、それでいて確かな自信を帯びて、背後から響いた。
――まあまあ……
――霧の伝説的暗殺者、《アーリャ》じゃない。
俺は思わず動きを止めた。
この声……聞き間違えるはずがない。
そして、エリーも同じだったらしい。背中を走る、かすかな緊張がそれを物語っていた。
アーリャはわずかに驚いたように顔を上げ、ブランシュとヴァイオレットもまた、宿の扉へと視線を向ける。
廊下の淡い灯りの中に、二人の女性の影が浮かび上がっていた。
最初に一歩踏み出したのは――アンジェリーナ。
黒の半袖ワンピースは街着ながら身体の線を美しくなぞり、派手さはないのに洗練されている。
長い金髪が肩から流れ落ち、黒いネイルが暖炉の炎を映してきらめく。
その紫の瞳は、夜すら射抜きそうな鋭さを秘めていた。
隣に並ぶのは、対照的な存在――ルナ。
深い夜色のドレスは大胆な胸元を描き、しなやかな曲線を隠そうともしない。
青い髪は足首近くまで届き、歩くたびに波打つ。
その笑みは、愉快さと焦れったさのあいだを揺れていた。
ブランシュは眉をひそめ、わずかに警戒する。
「……あなたたちは、誰?」
アンジェリーナは敵意を見せることなく彼女を見つめ、いつもの余裕ある雰囲気を崩さない。
「ただの……エンジェルの友達よ……」
俺の名を口にしたその柔らかさに、アーリャが軽く眉を上げる。
エリーが喉を鳴らし、小声で呟いた。
「……あー、これ、ヤバいやつだ…」
俺は歯の間から息を吐いた。
「……ああ。最悪だ……」
ルナが一歩前に出て、軽く手を振る。
「こんばんは!
ふふ……相変わらずねぇ。霧があると、どうしてこう暗くて重たい話ばっかりになるのかしら」
アーリャは興味深そうに二人を観察する。
「失礼だが……君たちとは面識がないようだ」
アンジェリーナは腕を組み、口元に小さな笑みを浮かべる。
「ええ。大した存在じゃないわ。
……彼にとっては別だけど」
全員の視線が、一斉に俺へと集まった。
俺はゆっくりと両手を上げ、引きつった笑みを浮かべる。
「気にしないでくれ。
こいつら……ちょっと大げさなだけだから」
「ちょっと?」
ルナが鈴のような笑い声を立てる。
「ふふっ……エンジェル、あなたは私たちの生きる理由なんだから……♡」
ブランシュが勢いよくこちらを振り向いた。
「……えっ?」
ヴァイオレットはわずかに俯き、ぼそりと呟く。
「……また一人……」
アンバーは面白そうに状況を眺めていた。
「ずいぶん……賑やかな人間関係ね、エンジェルくん……」
アンジェリーナがゆっくりと俺に近づく。
その歩みは静かで、猫のようにしなやかだった。
「変わらないわね」
囁くように言う。
「いつも美しい女性に囲まれて、いつも混沌の中心」
俺は視線を逸らす。
「……お互い様だろ」
アーリャは顎に手を当て、状況を眺める。
「なるほど……この二人は、君の知り合いか」
答える前に、ルナが遠慮なくテーブルに腰掛け、肘をつきながら目を輝かせてアーリャを見る。
「わぁ……本物のアーリャ!
霧の影、どの国にも捕まらなかった男!
伝説だと思ってたのに~」
アーリャは穏やかに微笑む。
「伝説というものはな……往々にして、走ることに疲れているものだ」
「ふふっ……話し方、好きよ」
ルナが楽しそうに笑う。
アンジェリーナは静かに椅子へ腰を下ろし、膝の上で手を重ねる。
紫の瞳が一度俺を捉え、再びアーリャへ戻った。
「それで……ヴォルタが、すでに侵食されていると?」
アーリャは頷く。
「ああ。《秩序》は、すでに根を張っている」
アンジェリーナは薄く笑った。
「やっぱりね。
ヴォルタは昔から、上品な偽善の香りがする街だもの」
ルナが肩をすくめる。
「ま、エンジェルに手を出さないなら、私はそれでいいけど…」
「そこが問題なんだ……」
俺は腕を組む。
「……向こうは、俺を狙ってる」
ルナは大げさに天を仰いだ。
「じゃあ仕方ないわねぇ……
――消すしかないか」
ブランシュとヴァイオレットが警戒の視線を交わす。
アンバーは眉をひそめ、
エステルはただ戸惑った様子だった。
その中心で、アーリャは静かに彼女たちを見渡し、次第に――興味と、不安の混じった表情になる。
「エンジェル……」
低く呟く。
「この二人は――」
「分かってる…」
俺は遮った。
「見た目通り、厄介だ……」
アーリャは小さく笑った。
「……危険な人生を送っているな、若者……」
俺は深くため息をついた。
「本当に、な…」
空気が変わった。
ついさっきまで、再会の笑い声があったはずなのに――
テーブルの端に座るブランシュは、いつの間にかアンジェリーナをじっと見つめていた。
動かず、声もなく、氷のような青い瞳で。
アンジェリーナは一瞬だけ視線を逸らす。
「……何かしら?」
丁寧な微笑みで問いかける。
ブランシュはゆっくりと立ち上がる。
二歩進み、視線を逸らさない。
「……少し、確かめたいことがあるだけ……」
沈黙が落ちた。
その声は柔らかい。だが、抗えない確信を帯びていた。
エリーが眉をひそめる。
「……何を?」
ブランシュは答えない。
ルナが楽しそうにアンジェリーナを見る。
「あらあら~、アンジーちゃん。
もう敵ができちゃったみたい」
アンジェリーナは小さく笑う。
「敵? ふふ……
いいえ。ただの、好奇心よ……」
彼女は優雅に立ち上がり、金髪を整える。
「いいわ。
確かめたいなら……方法は一つしかないでしょう?」
ブランシュは静かに頷く。
「ええ。
――戦いで」
「ちょ、待て!?」
エリーが声を上げる。
「はぁ……やめてくれ。
また床を壊す気か……」
アーリャは腕を組み、ため息をつく。
「若者というのは、考える前に誇りを量りたがるものだ」
「私は誇りで動いていない……」
ブランシュは冷たく言う。
「ただ……知りたいだけ」
「へぇ?」
アンジェリーナが軽く首を傾ける。
「じゃあ、その冷たい目は何?」
「……あなたが、何者なのかを知るため」
ざわめきが走る。
ルナでさえ、笑みを消した。
アンジェリーナは一歩近づき、距離を詰める。
瞳が、楽しげに光る。
「……“誰”じゃなくて?」
「違う」
ブランシュはゆっくりと言った。
「――“何”か、よ」
ルナが俺に小さく手を振る。
「ねえ、あなたの友達……
いつもこんなに怖いの?」
「……お前もな」
俺は低く返した。
アーリャは深く息を吐く。
「ここは宿だ。戦場ではない」
アンジェリーナは指を一本立てる。
「ほんのデモンストレーションよ、霧の暗殺者さん」
彼女が数歩下がると、
空気がわずかに震えた――魔力の波動。
ブランシュは動かない。
白銀の光が彼女を包む。
澄み切った、結晶のようなオーラ。
アンジェリーナが目を見開いた。
「……見事ね。制御が完璧。
あなた……王女でしょう?」
「ええ」
ブランシュは答える。
「伝説の《エーテル王国》の王女、ブランシュ」
「まあ!」
アンジェリーナが楽しげに声を上げる。
「あの吹雪の王国……これは面白いわ」
彼女は腰に手を添え、微笑む。
「最高の訓練相手を見つけたみたい」
「訓練ではない……」
ブランシュの声は氷のようだった。
「……確かめるだけ」
アンジェリーナは低く笑う。
「そういうところが……可愛いのよ」
「褒めてない」
俺は勢いよく立ち上がる。
「ストップ!
お前ら二人とも!
さっきまでテロから生き延びたばかりだろ!」
「本当よ!」
エリーも続く。
だが、二人は動かない。
視線だけで、火花を散らしている。
アーリャは諦めたように言った。
「……止めても無駄だ。
これは力の勝負じゃない。
――理解のための戦いだ」
アンバーは黙って見つめ、
ヴァイオレットは顔を背け、
エステルは不安と憧れの入り混じった目で見守る。
フードの女が、低く呟いた。
「……嫌な予感しかしない」
俺は顔を覆った。
「……床、壊したら、俺は出てくからな」
沈黙。
二つのオーラが、ぶつかり始める。
氷のように白い――エーテルの王女。
灼熱の紫――アンジェリーナ。
――決闘の幕が、上がった。




