第三章 光沢のあるカード
十月に入って最初の土曜日、雪子はいつもより一時間早く目を覚ました。隣のベッドでは健司がまだ寝息を立てている。ツインベッドのあいだの小さなナイトテーブルには、彼の腕時計と、充電器につながれたスマホが伏せて置かれていた。
台所でお湯を沸かしながら、雪子は冷蔵庫の扉に貼った紙を見た。「衣替え」と自分の字で書いてある。九月の終わりから、週末になるたびに書き直してきた予定だった。パートのシフトが土日のどちらかに入ることが多く、まとまった時間が取れないまま、気がつけば十月になっていた。今日は珍しく一日休みだった。
七時半に健司が起きてきた。寝癖のついた髪のまま食卓に座り、トーストを齧りながらスマホを眺めている。
「今日、打ちっぱなし行ってくる」
画面から目を上げずに健司が言った。
「お昼は?」
「向こうで食う。夕方には帰る」
「夕飯は家で食べるのね」
「ああ」
それきり会話は途切れた。健司はコーヒーを半分残して洗面所に立ち、十分後にはポロシャツに着替えて玄関でゴルフバッグを担いでいた。来月、会社の部長が主催するコンペがあるのだと、先週ぽつりと言っていた。そのために週末ごとに練習場へ通っている。熱心なのはいいことだと雪子は思う。家にいられても、話すことはない。
「行ってきます」
ドアが閉まる音を聞いてから、雪子は残されたコーヒーカップを流しに運んだ。
入れ替わるように、華が自分の部屋から出てきた。髪を一つに結び、バイト先のパン屋のエプロンを丸めてトートバッグに押し込んでいる。
「朝ごはん、パン焼く?」
「いい。向こうで賄い出るから」
「今日は何時まで?」
「四時。売れ残り、もらえたら持って帰る」
華は冷蔵庫から麦茶を出してコップに一杯だけ飲み、それから冷蔵庫の扉の貼り紙に目を留めた。
「衣替え、やっとやるんだ」
「やっとって何よ」
「二週間くらい貼ってあったから」
娘はそう言って、口の端をわずかに上げた。からかわれたのだとわかって、雪子も笑った。華は靴を履きながら振り返った。
「お父さんのスーツ、去年みたいに全部ベッドに並べたままにしないでね。夜まで片付かなかったじゃん」
去年の自分がそんなことをしていたのを、雪子はすっかり忘れていた。娘のほうが覚えている。
二人が出ていくと、マンションの部屋は急に広くなった。
雪子は寝室のクローゼットを開けた。扉の内側、向かって右半分が健司の場所だった。半袖のワイシャツ、薄手のスラックス、夏物のスーツが三着。左半分が雪子の服で、こちらは夏物と言っても数えるほどしかない。パートの日は動きやすい綿のシャツとジーンズで、休みの日もそれとほとんど変わらないからだ。
まずベッドの上にバスタオルを広げた。華に言われたことを思い出し、並べるのは一着ずつにしようと決めた。
天袋から収納ケースを下ろす。蓋を開けると、六月に入れた防虫剤の匂いが鼻をついた。中から出てきたのは、グレーの合い物のスーツと、紺のジャケット、厚手のスラックス。夏の初めに、同じ手順でここに眠らせたものだ。合い物を一着ずつハンガーにかけ、窓辺のカーテンレールに吊るして風を通す。ベランダの向こうでは、隣の棟の住人が布団を干していた。
夏物のスーツは、クリーニングに出す前に一度ブラシをかけるのが雪子のやり方だった。肩から裾へ、生地の目に沿って。汗の染みがないか、ボタンが緩んでいないか確かめる。それから、ポケットの中身をすべて出す。
そうするようになったのは、結婚して三年目のことだ。健司のズボンのポケットにレシートが入ったまま洗濯機を回してしまい、細かな紙屑が黒い靴下にも生まれたばかりの華のよだれかけにもびっしりとついた。健司は笑って「俺が入れっぱなしにしたのが悪い」と言い、二人で床に座りこんで一枚ずつ紙屑をつまみ取った。あのころは、そういうことが笑い話になった。
一着目の薄いグレーのスーツからは、ボールペンが一本と、のど飴の包み紙が出てきた。二着目のストライプのスーツからは何も出なかった。
三着目は濃紺だった。背抜きの軽い生地で、健司が夏のあいだいちばんよく着ていたものだ。襟の裏に、汗の跡が白く浮いている。雪子はそこにブラシを当ててから、上着の外ポケットを探り、それから内ポケットに指を入れた。
硬いものに触れた。
ハンカチではない。紙だ。それも、ずいぶんしっかりとした紙。指先でつまんで引き出すと、名刺くらいの大きさのカードだった。
取引先の名刺だろうか、と最初は思った。健司は営業の仕事柄、名刺をよく持ち歩く。けれど、手のひらに載せてみて、すぐに違うとわかった。
厚手で、表面に艶がある。黒地に金の箔押しで、流れるような筆記体の文字が浮いていた。『Starlight Lounge』。その下に、ひとまわり小さな字で『Rena』とあり、携帯電話の番号が印刷されている。会社名も部署名も肩書きもない。名前と番号と、店の名前だけ。
窓から入る光の加減で、金の文字がちらちらと光った。
雪子はしばらく、それを見ていた。何を見ているのか、頭がうまく理解しようとしなかった。それから、何の気なしに裏返した。
裏は白地だった。そこに、ピンク色のペンで丸みを帯びた文字が書かれていた。
『また会えるの楽しみにしてます♡ レナ』
ハートの部分だけ、ペンを二度なぞったように色が濃い。
心臓がどくん、と大きく鳴った。耳の奥で血の流れる音がした。雪子はカードを持ったまま、健司のベッドの端に腰を下ろした。スプリングがきしむ。膝の上に広げた濃紺のスーツから、健司の整髪料の匂いがかすかに立った。
夜の店だ。それくらいは、雪子にもわかる。
健司は、ときどき遅く帰ってくる。「残業だ」と言う日もあれば、「接待だ」と言う日もある。どちらの日も、雪子は疑ったことがなかった。疑う理由がなかった。営業課長という肩書きがどれほど忙しいものなのか、雪子には想像するしかなく、想像するしかないものを疑う気にはなれなかったのだ。
接待で、こういう店に行くこともあるのだろう。雪子はまずそう考えようとした。取引先の人に連れて行かれて、断れなくて。女の子が名刺を渡すのは仕事のうちで、健司はそれをポケットに入れたまま忘れていただけ。
けれど、裏の文字が、その考えを押し返してきた。また会えるの、と書いてある。また、ということは、一度ではないのだ。
雪子はエプロンのポケットからスマホを取り出した。検索窓に店の名前を打ち込もうとして、指が止まった。綴りがわからない。カードを見ながら、一文字ずつアルファベットを拾う。S、t、a、r。打ち間違えて消し、また打つ。同じ名前の店がいくつも出てくるだろうと思い、沿線でいちばん大きな繁華街の地名を足した。
いちばん上に、店のホームページが出てきた。
黒い背景に、名刺と同じ金色の筆記体。画面の下から、ドレス姿の女性たちの写真が帯のように流れていく。どの顔も目元を伏せ気味にして、同じ角度で微笑んでいた。雪子はそれを見ないようにして、上部のメニューに並んだ文字を順に目で追った。「キャスト」「システム」「求人」「アクセス」。
「システム」を押した。
『SET 60分 ¥7,000』
『延長 30分 ¥3,500』
『本指名 ¥3,000』
『場内指名 ¥2,000』
『同伴料 ¥3,000』
『※別途TAX・サービス料30%を頂戴いたします』
その下に、『キャストへのドリンクのプレゼントも大歓迎♪』と添えてあった。
雪子は数字を一つずつ読んだ。読みながら、頭の中で足し算をした。一時間座って七千円。名前を指して呼べば三千円が足される。女の子に飲み物を頼めば、それもまた別に。延長をすればさらに。そこに三割。
二万円、と雪子は思った。少なく見積もっても、一晩で二万円。
惣菜売り場に立って、唐揚げを揚げ、コロッケを詰め、値引きシールを貼って、髪に油の匂いを染みつけて働く。その四日分が、一晩で消える。
指名、という言葉の意味を、雪子は画面の隅の注意書きで知った。『お気に入りのキャストをご指名いただくと、次回からそのキャストがお席につきます』。本指名と場内指名の違いもそこに書いてあった。店に来る前から名前を決めているのが本指名、店の中で気に入って選ぶのが場内指名。
名刺の裏の「また」の文字が、急に別の重さを持った。健司は、Renaという女を、名前を指して呼んでいる客なのかもしれない。
同伴、という言葉の横にも小さな説明があった。『キャストとお食事などを楽しんでから、ご一緒にご来店いただくシステムです』。
雪子は画面を閉じかけて、もう一度開いた。「キャスト」のページを押す。並んだ顔写真の中に、Renaという名前を探そうとして、指がまた止まった。
見て、どうするのだろう。若いのか、きれいなのか。自分とどれだけ違うのか。それを確かめたところで、何かが楽になるとは思えなかった。きっと、もっと惨めになるだけだ。
雪子はページを閉じ、画面を消した。黒くなったスマホに、自分の顔がぼんやり映った。化粧もしていない、四十五歳の女の顔だった。
膝の上の濃紺のスーツを、ベッドの上に戻した。立ち上がったとき、足に力が入らずよろけて、ナイトテーブルの角に手をついた。健司の腕時計が置いてあった場所には、もう何もない。今朝、彼は時計を巻いて出かけていった。
どうしよう、と雪子は思った。
まず浮かんだのは、このカードを元のポケットに戻して、何も見なかったことにする、という考えだった。そうすれば、今夜も明日も、昨日と同じように過ごせる。健司は気づかない。華も気づかない。雪子だけが知っていて、雪子だけが黙っていればいい。
それは、雪子がずっとやってきたことだった。言わないことで、家の中を平らに保つ。
けれど、指がカードを放さなかった。
雪子はもう一度スマホを手に取り、カメラを起動した。ベッドの上に広げた白いバスタオルにカードを置き、表を撮った。光が反射して、金の文字が白く飛んだ。角度を変えてもう一度。今度は店名も番号も読めた。裏返して、ピンクの文字を撮った。ハートの濃いところまで、はっきりと写った。
なぜ撮るのか、自分でもよくわからなかった。ただ、手の中のものがいつか消えてしまうような気がした。健司がポケットを探り、ないことに気づいて、どこかへ処分してしまうかもしれない。そうなったら、今日見たものは雪子の気のせいになる。
撮った写真を拡大すると、携帯電話の番号の数字が画面いっぱいに並んだ。この番号に電話をかけたら、あの丸い字を書いた女が出るのだろうか。出たら、何と言えばいいのだろう。坂口の妻です、と名乗るのか。夫がいつもお世話になっています、と言うのか。
雪子は通話の画面を開き、最初の三桁まで打ちこんで、そこで指を止めた。
電話の向こうの声を想像しただけで、喉が締めつけられた。若い声だろう。明るくて、慣れていて、夫の名前を聞けば「ああ、坂口さん」とすぐに笑う声。その声に向かって何かを言える自分を、雪子は思い描くことができなかった。
三つの数字を一つずつ消した。画面が元の白さに戻ると、雪子は長く息を吐いた。
寝室を出て、リビングの棚から自分の手帳を取ってきた。
手のひらに収まる大きさの、黒い革の手帳だった。印刷会社で事務をしていたころからの習慣で、毎年同じ型の中身を文房具店で買い足している。紙だけを入れ替えて、表紙は結婚した年から同じものを使っていた。角が擦れて、革が白っぽくなっている。
マンスリーのページには、パートのシフトと、華の学校の行事と、ゴミ出しの曜日が書き込んである。それから、もう一つ。健司が夕飯を食べない日には、その日の欄の隅に小さく「健×」と書く。夕飯の材料を無駄にしないための、ただの覚え書きだった。
雪子は七月のページを開いた。
「健×」は、七月に五つあった。八月に四つ。九月に六つ。ほとんどが木曜日か金曜日だった。一つずつ指でなぞりながら、その日のことを思い出そうとした。
七月の第三金曜日。この日は覚えている。華の期末テストの最終日で、夜に二人で回転寿司に行った。健司は「接待で遅くなる」とメッセージをよこし、帰ってきたのは零時を回ってからだった。
八月の、お盆休みが明けてすぐの金曜日。この日、健司は帰ってこなかった。夜の十一時過ぎに電話があり、「終電を逃したからカプセルホテルに泊まる」と言った。電話の向こうが妙に静かだったことを、雪子は今になって思い出した。駅の近くなら、もっと騒がしいはずではなかったか。あのときは、そんなことを考えもしなかった。
九月の下旬の一つにも、印がついていた。先週、美容院で髪を切ったばかりだった夜だ。十一時を過ぎて帰ってきた健司は、髪のことには気づかなかった。すれ違ったとき、酒の匂いに混じって、花のような、果物のような甘い香りがした。電車で隣に立った人の香水が移ったのだろうと、雪子は打ち消した。
打ち消したのは、自分だった。
雪子は手帳のページに目を落としたまま、別のことを思い出していた。
今年の夏のボーナスが出た七月の初め、健司は家計用の口座に四十万円を振り込んだ。去年は六十万円だった。「今年は査定が渋くてさ。営業全体で数字が悪かったんだ」と健司は言い、雪子はそれを信じた。会社の業績のことはわからないし、わからないことを問いただすのは、彼の仕事を疑うことのような気がしたからだ。
クレジットカードの明細のことも思い出した。結婚したころは、紙の明細が毎月郵便で届き、雪子が家計簿と照らし合わせていた。それがいつからか、ウェブで見る仕組みに変わった。健司のスマホでしか開けないその明細を、雪子は一度も見たことがない。一度だけ、見せてほしいと言ったことがある。冷蔵庫を買い替えたときの分割の引き落とし額を確かめたかったのだ。健司は「会社の立替が混じってるから、見てもわからないよ」と言った。言い方は穏やかだったが、話はそこで終わった。
接待費を立て替えて、あとで会社から戻ってくる。営業ではよくあることだと、健司はずっと言っていた。
その立替の中に、一晩二万円の席はどれくらい混じっていたのだろう。
雪子は名刺を手帳の十月のページに挟んだ。まだほとんど何も書いていない、白い升目のページ。表紙を閉じると、ちょうど名刺の分だけ、手帳がわずかに膨らんだ。ゴムバンドをかけると、膨らみは目立たなくなった。
手帳をエプロンのポケットに入れようとして、思い直し、通勤用のバッグの内ポケットにしまった。そこなら、健司が触れることはない。彼は二十年間、雪子のバッグを開けたことが一度もなかった。それが信頼なのか無関心なのか、今まで考えたこともなかった。
時計を見ると、十一時を回っていた。
雪子は寝室に戻り、衣替えの続きをした。濃紺のスーツにブラシをかけ直し、ほかの二着と一緒にクリーニング屋の袋に入れた。半袖のワイシャツを畳み、薄手のスラックスを畳み、収納ケースに防虫剤と一緒に詰めた。手は、いつもと同じ順番で動いた。十年、惣菜売り場で同じ作業を繰り返してきた手だ。考えなくても動く。
カーテンレールに吊るしてあったグレーの合い物のスーツを、クローゼットの、さっきまで濃紺のスーツがかかっていた場所に移した。その隣に紺のジャケット。厚手のスラックス。健司の側の半分が、秋の色に入れ替わっていく。
自分の側の半分は、ほとんど変わらなかった。綿のシャツを二枚しまい、長袖のカットソーを三枚出した。それで終わりだった。去年の秋に一枚だけ買ったベージュのカーディガンを手に取り、袖を通しかけて、やめた。誰に見せるわけでもない。
昼は食べなかった。お腹が空いているのかどうかもわからなかった。
午後は、合い物の上着のポケットも一つずつ確かめた。六月にしまったときに中身はすべて出したはずだが、確かめずにはいられなかった。何も出てこなかった。何も出てこないことに安堵している自分が、ひどく滑稽だった。
収納ケースを天袋に戻し、クリーニングの袋を玄関に置いた。月曜日の朝、パートに行く途中で出せばいい。
それから、雪子は台所に立った。
冷蔵庫には、昨日パートの帰りに買った秋刀魚が三尾入っていた。今年は細いですね、と鮮魚売り場の若い社員が言っていた。大根をおろし、すだちを切り、味噌汁の鍋に湯を沸かす。いつもの土曜日の夕飯だった。いつもの手順を一つずつこなしていくと、さっき寝室で見たものが、遠くの出来事のように思えてきた。
四時半に、華が帰ってきた。
「ただいま。今日、クロワッサン残ってた」
紙袋をテーブルに置き、華は手を洗いに洗面所へ行った。戻ってくると、台所に立つ雪子の横に来て、鍋の中をのぞいた。
「秋刀魚?」
「うん。今年は細いって」
「ふうん」
華はそれだけ言って、雪子の顔を見た。何かを確かめるような、短い視線だった。
「衣替え、終わったの?」
「終わったよ。ベッドに並べっぱなしにもしてない」
「えらい」
華は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぎながら、もう一度雪子を見た。
「お母さん、なんか顔色悪くない?」
「そう? 一日中、防虫剤の匂い嗅いでたからかな」
雪子は笑ってみせた。華は「ふうん」ともう一度言い、それ以上は聞かずに、麦茶を持って自分の部屋に戻っていった。ドアが閉まる音を聞いてから、雪子は自分が包丁を握る手に力を入れすぎていたことに気づいた。すだちの切り口から、汁がまな板の上ににじんでいた。
六時を過ぎて、健司が帰ってきた。
玄関でゴルフバッグを下ろす重い音がした。それから、靴を脱ぎ捨てる音。廊下を歩いてくる足音。どれも、何百回、何千回と聞いてきた音だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
雪子は振り返らずに言った。声が普段どおりに出たことに、自分でも驚いた。
健司は日に焼けた顔でリビングに入ってきて、ソファにどさりと座った。首にかけたタオルで額を拭い、テレビをつける。土曜の夕方のニュースが、どこかの地方の祭りを映していた。
「腹減った。今日、三百球打った」
「すごいね」
「すごかないよ。半分はスライスだ」
健司はリモコンでチャンネルを変えながら、ぼやくように言った。
「コンペで部長と同じ組になるのは、二課の若いのなんだとさ。入社六年目のやつ。俺は後ろの組で専務のお守りだ」
「そうなの」
「そいつ、この前の上期で、俺が課長になる前の年の数字を軽く超えやがった。あいつ見てると、自分が何年もかけてやってきたのは何だったんだって思うよ」
健司の声には、苦いものが混じっていた。雪子はガスの火を見つめたまま、秋刀魚を裏返した。皮がはぜて、脂が網の下に落ちる。
いつもなら、ここで何か言うのだろう、と雪子は思った。あなたはあなたでがんばってるじゃない、とか。若い人は若い人で大変よ、とか。そういう言葉を、結婚してから何度口にしてきたかわからない。言えば健司は「まあな」と答え、それで機嫌がいくらか直る。
今夜は、その言葉が喉の手前で止まった。
この人は、会社で追い抜かれて、悔しくて、その悔しさを一晩二万円の席で慰めてもらっているのだろうか。若い女に「すごいですね」と言ってもらうために。
「お母さん、焦げてる」
いつの間にか、華が台所の入口に立っていた。
雪子は慌ててグリルを開けた。手前の一尾の尻尾が、黒く縮れていた。
「ごめん、これ、お母さんが食べるから」
「いいよ、私それで」
華は焦げた一尾を自分の皿に取り、残りの二尾を父と母の皿に分けた。
三人で食卓につくのは、二週間ぶりくらいだった。健司はビールを開け、テレビのほうを向いたまま秋刀魚に箸をつけた。
「細いな、今年の秋刀魚は」
「鮮魚の人も、そう言ってた」
「去年はもっと太かったよな」
「そうね」
会話は、それで足りた。いつもと同じだった。いつもと同じであることを保つために、雪子は全身の力を使っていた。箸を持つ手が震えないように。健司の顔を見すぎないように。見なさすぎないように。
華はクロワッサンを一つ取って半分に割り、黙って食べていた。
「グレーのスーツ、出しといてくれた?」
健司が不意に言った。雪子の箸が止まった。
「出してあるよ。クローゼットの、いつもの場所」
「月曜から着るわ。夏のはクリーニング出しといて」
「月曜の朝に出す」
「頼む」
それで終わりだった。健司はまたテレビに目を戻し、ビールを飲んだ。
雪子は、健司の横顔を見た。何も気づいていない顔だった。濃紺のスーツの内ポケットに何を入れていたのかも、覚えていない顔。忘れているのだ。妻が衣替えのたびにポケットを探ることも、華が赤ん坊だったころに二人でレシートの紙屑をつまんだことも。
忘れられるくらい、どうでもいいことなのだ。名刺のことも、雪子のことも。
華が箸を置いて立ち上がった。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「パン、食べすぎた」
華は自分の皿を流しに運び、そのまま部屋に戻っていった。通り過ぎるとき、華の目が一瞬だけ父の横顔の上で止まり、それから雪子の顔の上で止まったような気がした。
食事のあと、健司は風呂に入った。
シャワーの音が廊下の向こうから聞こえてくる。雪子は食器を洗いながら、食卓の上に置かれたままの健司のスマホに目をやった。画面を下に向けて伏せてある。いつからだろう、彼がスマホを伏せて置くようになったのは。以前は、ソファの上に放り出しても気にしなかった。
そのとき、スマホが震えた。テーブルの天板が小さく鳴った。伏せた画面の縁から、白い光が細く漏れた。
雪子は、泡のついた手のまま、それを見ていた。
手を伸ばせば届く距離だった。拭いた手で裏返せば、通知の一行くらいは読めるかもしれない。名前が出るかもしれない。
光はすぐに消えた。
雪子は、手を伸ばさなかった。伸ばせなかったのか、伸ばさなかったのか、自分でもわからなかった。ただ、蛇口の水を止めずに、次の皿を洗った。
風呂から上がった健司はスマホを手に取り、画面を一瞥して、そのままパジャマのポケットに入れた。表情は変わらなかった。
「先に寝る。疲れた」
「おやすみなさい」
十時過ぎに、雪子も寝室に入った。
健司はもう、窓側のベッドで背中を向けて眠っていた。規則正しい寝息が聞こえる。三百球打って、ビールを二本飲んで、何の心配もなく眠っている。
雪子は自分のベッドに腰を下ろし、ナイトテーブルの読書灯をいちばん暗くしてつけた。
通勤用のバッグを膝に引き寄せ、内ポケットから手帳を取り出した。ゴムバンドを外すと、十月のページが自然に開いた。名刺がそこにあった。黒地に金の文字が、読書灯の小さな光を受けて鈍く光った。
裏返す。ピンクのハートが、薄暗がりの中でも濃く見えた。
隣のベッドで、健司が寝返りを打った。雪子は息を止めた。健司はうなるような声を一つ漏らし、またすぐに寝息に戻った。
雪子は、手帳を七月のページまで戻した。「健×」の小さな文字を、もう一度一つずつ数えた。十五。三か月で十五回。そのうちのいくつが本当の残業で、いくつがこの店だったのか、雪子にはわからない。わからないことが、十五回、この部屋の中に積もっていた。
悲しいのかと、雪子は自分に問うた。
悲しい、とは違った。涙は出なかった。胸が痛むというより、体の真ん中が冷えていくような感覚だった。パート先の冷凍庫で、霜を素手で掻き出したあとのような、指先から順に感覚が遠ざかっていく冷たさ。
自分が何年も、見てほしいと思いながら言えずにいたものを、この人は外で、お金を払って手に入れていた。七千円と、三千円と、三割と。家族のために稼いだはずのお金で。雪子が値引きシールを貼り続けてきたその横で。
それが怒りなのだと、雪子はやっと気づいた。熱くはなかった。冷たいまま、腹の底に溜まっていく怒りだった。
健司のベッドの上の背中は、ゆるやかに上下していた。
雪子は名刺を手帳に戻し、表紙を閉じ、ゴムバンドをかけた。それから手帳を両手で握りしめた。革の表紙の、擦れて白くなった角が、手のひらに食い込んだ。指先が白くなるまで、握りつづけた。
読書灯を消すと、カーテンの隙間から、駐車場の街灯の光が細く差し込んでいた。雪子は手帳を枕の下に入れ、目を開けたまま、隣の寝息を数えた。




