第二章 静寂の家
「ただいま」
雪子の声は、静まり返った玄関に吸い込まれた。返事はない。三和土には、華のローファーが片方だけ横倒しになって脱ぎ捨ててあった。雪子はそれを揃えて隅に寄せ、自分のスニーカーをその隣に並べた。華の部屋のドアの隙間から、明かりが細く廊下に漏れている。夫の健司は、今朝言っていたとおり、今日も残業だろう。
リビングの電気をつけると、きれいに片付いた空間が広がった。ソファのクッションは二つとも角を立てて置かれ、ローテーブルの上にはテレビのリモコンが一つあるきりだ。今朝、出かける前に掃除機をかけ、床を拭いておいた。この「普通」の家庭を保つために、雪子は毎日の掃除を欠かさない。誰に頼まれたわけでもない。それはまるで、見えない綻びを繕うための儀式のようだった。
台所に立ち、エプロンをつけて、買ってきた玉ねぎを刻む。フライパンで飴色になるまで炒めてから、バットに広げて冷ます。そのあいだにパン粉を牛乳に浸し、合い挽き肉をボウルに移して塩をふる。手でこねると、職場で一日じゅう嗅いでいた油の匂いが、自分の髪からまた立ちのぼった。
ナツメグの小瓶は、戸棚の奥にあった。蓋を開けると、甘く尖った香りがした。最後に使ったのがいつだったか思い出せない。華が小学生の頃は、月に一度はハンバーグを作った。お店の味だと言って、華は付け合わせの人参まで残さず食べた。
たねを四つに分けて丸め、両手のあいだで打ちつけて空気を抜く。二つは今夜の分、一つは明日の弁当に回し、残る一つが健司の分だ。いらない、たぶん、と彼は言った。その「たぶん」のために、雪子は毎晩、一人分を余計に作る。
フライパンに並べ、焼き色がついたところで裏返し、蓋をして弱火にする。付け合わせのブロッコリーを茹で、味噌汁を温め直してから、雪子は廊下に出て華の部屋のドアをノックした。
「ご飯、もうすぐできるよ」
ドアの向こうから「うん」と短い返事が聞こえた。最近、娘との会話はこんなふうに断片的だ。バイトや友達との予定で忙しいらしく、家にいる時間も短い。それでも、関係は良好なはずだ。そう雪子は自分に言い聞かせて、台所へ戻った。
食卓には、雪子と華の二人分の皿が並んだ。健司の席には何も置かない。いつからかそうなった。
十分ほどして、華が部屋から出てきた。高校のジャージの上に、パーカーを羽織っている。片方の耳にだけイヤホンを差したまま椅子に座り、いただきます、と口の中で言った。
「イヤホン」
雪子が言うと、華は無言でそれを外し、パーカーのポケットに入れた。箸を取り、ハンバーグの端を割る。肉汁が皿の上に広がった。
「ナツメグ、入れたんだけど」
「ふうん」
華は二口目を食べてから、顔を上げずに言った。
「前と同じ味だね」
それが褒め言葉なのかどうか、雪子にはわからなかった。けれど、華の箸は止まらなかった。
「バイト、今週は何回入ってるの」
「三回。木金土」
「土曜も?」
「土曜は朝から。店長が新しいクロワッサン作るって言ってて、試食係」
「いいじゃない。おいしいの?」
「まだ食べてないからわかんない」
華は味噌汁の椀を持ち上げ、一口飲んで置いた。
「閉店のとき、売れ残ったやつ、持って帰っていい日と駄目な日があるんだよね。店長の気分で」
「気分なの?」
「気分。駄目な日は全部捨てる。もったいないって言ったら、うちは値引きしない店だからって」
華はブロッコリーを箸でつまみ、マヨネーズを少しつけた。
「お母さんのとこは、値引きするでしょ。半額とか」
「するわよ。今日も貼ってきた」
「どっちがいいんだろうね。捨てるのと、安くするのと」
雪子は答えに詰まった。華はその問いの答えを待っているふうでもなく、またハンバーグを口に運んだ。
この子は時々、こういうことを言う。ぼんやりしているように見えて、大人が通り過ぎてしまうものの前で、立ち止まっている。雪子はそれを口に出して褒めたことがなかった。褒めると、華は二度と同じ話をしなくなる気がした。
「そういえば、進路希望の紙、夏に出したんでしょう」
華の箸が、一瞬止まった。
「出したよ」
「何て書いたの」
「とりあえず、大学」
「とりあえずって。どこの大学とか、学部とか」
「まだ決めてない。二年の紙は、だいたいでいいって先生が言ってた」
「三者面談、十一月だったわよね。そのときまでに、少しは考えておいたら」
「考えてるよ」
華はそれ以上は言わず、ご飯を口に入れた。考えてる、の中身を、雪子はもう一歩だけ聞きたかった。けれど、その一歩を踏み込むと、華の口がまた閉じてしまうこともわかっていた。佐々木さんの言葉を思い出す。親に言うのは全部決めてから。
雪子は自分の皿に目を落とした。
「お金のことなら、心配しなくていいからね」
「別に、心配してない」
華はそう言ってから、雪子の左手に目をやった。
「手首、どうしたの」
「え?」
「さっきから、そこばっかり触ってる」
雪子は自分の手を見下ろした。箸を持っていない方の手が、いつのまにか左の手首を包んでいた。
「ちょっと張ってるだけ。じゃがいも、たくさん潰したから」
「湿布、洗面所の棚にあったよ。前にお父さんが使ってたやつ」
お父さん、という言葉が食卓に落ちて、短い沈黙ができた。華はそれを埋めるように、味噌汁を飲んだ。
「お父さん、今日も遅いの?」
「うん、残業だって」
「ふうん」
華は大人が簡単に答えを出せないことを、ときどき真顔で訊く。雪子は「どっちがいいか、簡単には決められないね」とだけ返した。華は小さく頷き、また箸を動かした。
華は最後の一切れを食べ終え、箸を置いた。
「ごちそうさま。おいしかった」
おいしかった、と言われたのは、いつ以来だろう。雪子が顔を上げたときには、華はもう自分の食器を流しに運び、パーカーのポケットからイヤホンを取り出していた。
「お風呂、先に入る?」
「あとでいい。課題あるから」
華の部屋のドアが閉まり、また静寂が訪れた。
雪子は一人、食卓の片付けをした。健司の分のハンバーグを皿に移し、ブロッコリーを添えて、ラップをかける。冷蔵庫の二段目、いつもの場所に入れる。明日の朝までそのままなら、自分の弁当のおかずになる。半分以上は、そうなる。
シンクに溜まった食器を洗いながら、雪子は結婚してからの二十年間を思った。
二十五歳だった。印刷会社の事務所で、取引先の機械部品メーカーの営業として、健司は校正刷りを受け取りに来ていた。製品カタログの色校を何度もやり直させる、細かい人だった。ある日、帰り際に彼は雪子の名札の字をわざわざ声に出して読み、村瀬さんって言うんですね、と言った。三度目に来たとき、駅前の喫茶店に誘われた。
付き合っていた頃の健司はよく喋った。仕事の愚痴も、上司の口癖の物真似も、子どもの頃に飼っていた犬の話も。雪子は聞き役で、それが心地よかった。この人の話をずっと聞いていられたらいい、と思った。
結婚して三年目に華が生まれた。最初の数年は、賃貸の古いアパートの六畳間に布団を三組並べて寝た。夜泣きの華を真ん中に挟んで、二人で交代に起きた。健司は寝ぼけ眼で哺乳瓶を振りながら、俺、営業より子守りの方が向いてるかもな、と笑った。あの部屋は狭くて、寒くて、壁が薄かった。それでも、三人の寝息がすぐそばにあった。
健司が変わったのは、いつだったのだろう。食器を拭きながら、雪子は考えた。はっきりとした境目があったわけではない。ただ、課長になった年のことは覚えている。辞令が出た夜、健司は珍しくケーキを買って帰ってきて、華と三人で食べた。それからしばらくして、夕食の席で会社の話をしなくなった。訊けば、別に、と言う。重ねて訊けば、お前にはわからない、と言う。そのうち、雪子の方から訊かなくなった。
食器を拭き終え、雪子は浴室へ向かいかけて、廊下の途中で足を止めた。
華の部屋のドアの向こうから、笑い声が聞こえた。電話をしているらしい。
「うそ、それ絶対わざとじゃん。……うん、うん。明日見せて。……えー、やだ、それ言わないでよ」
食卓では一度も聞かなかった声だった。高くて、よく弾んで、言葉と言葉のあいだに息継ぎの笑いが挟まる。雪子はドアの前に立ったまま、ノックしようとしていた手を下ろした。進路のことを、もう一度だけ訊いてみるつもりだった。けれど、あの声を途中で断ち切って、母親の声に入れ替えることはできなかった。
華がこんなふうに笑うのを、最後に見たのはいつだったろう。見てはいないのだ、と雪子は思い直した。聞いているだけだ。ドア一枚を隔てて。
雪子は足音を立てないように廊下を戻り、浴室へ向かった。
シャンプーを二回して、ようやく髪から揚げ油の匂いが消えた。湯船に浸かり、肩まで沈める。鏡が湯気で曇っている。手のひらで拭うと、顎の線で切り揃えた髪の自分が映った。
先週の土曜、美容院から帰った雪子は、玄関で鏡を見てから、リビングのソファで新聞を読んでいた健司の前を二度通った。一度目は洗濯物を取り込むふりをして、二度目は麦茶を注ぎに。健司は新聞から顔を上げなかった。夕食のときも、翌日の朝も、何も言わなかった。
言ってほしかったわけではない、と雪子は思う。似合う、と言われたかったのでもない。切ったね、の一言でよかった。それだけで、自分がこの家の中で目に見える形をしているのだと、確かめられる気がした。
湯船の湯が冷めはじめていた。雪子は立ち上がり、浴室を出た。
十時を過ぎて、華が風呂に入った。
雪子はリビングのソファに座り、テレビをつけずにいた。浴室からドライヤーの音が聞こえ、しばらくして、パジャマ姿の華が台所に入ってきた。冷蔵庫を開けて麦茶を出し、コップに注いでから、洗面所の方へ引き返していく。戻ってきた華の手には、湿布の箱があった。
「これ」
華は箱をローテーブルに置いた。
「ありがとう」
「期限、去年で切れてるけど。たぶん効く」
雪子は箱から一枚を取り出し、透明なフィルムを剥がそうとした。右手だけでは、端がうまくめくれない。華はそれを黙って見ていたが、やがて隣に腰を下ろし、雪子の手から湿布を取り上げた。
「手、出して」
雪子が左手を差し出すと、華はフィルムを剥がし、手首の内側に湿布を貼った。指先で四隅を押さえ、皺を伸ばす。ひやりとした冷たさが肌に広がった。
娘の指が自分の手首に触れていた。華に触れられるのは、いつ以来だろうと雪子は思った。中学に上がった頃から、華は人前で手をつなぐのを嫌がるようになり、それから家の中でも、肩が触れればさりげなく身をずらすようになった。
シンクに溜まった食器を洗っていると、蛇口の水が左手首に当たった。冷たさに手を引いた拍子に、以前の健司の笑い声を思い出した。
「湿布だから」
華は剥がしたフィルムを丸めて、ごみ箱に放った。それから立ち上がりかけて、雪子の方を見下ろした。
「首、寒くない?」
「え?」
「なんでもない。おやすみ」
華はコップを持って、自分の部屋へ戻っていった。雪子は手首の湿布に触れ、それから自分の首筋に手をやった。顎の線で切り揃えた髪の毛先が、指に触れた。華が何を言おうとしたのか、確かめようとしたときには、もう華の部屋のドアは閉まっていた。
髪のことを言ったのかもしれない。秋口の夜に襟足を出しているのが、ただ寒そうに見えただけかもしれない。どちらとも取れる言い方を、華はわざと選んだのだろうか。雪子は湿布の上から手首を握った。冷たさの下で、脈が打っているのがわかった。
雪子はリビングでアイロン台を広げ、健司のワイシャツを五枚並べた。襟、カフス、前立て、背中、袖の順にかけていく。襟の内側には、ファンデーションの跡ではなく、汗の黄ばみがあるだけだった。そのことに安堵した自分に気づいて、雪子は霧吹きを握る手を止めた。何を確かめていたのだろう。考えるのをやめて、アイロンを滑らせた。
テレビをつけると、ニュース番組が明日の天気を伝えていた。晴れ、最高気温二十六度。来週からは朝晩が冷え込むでしょう。そろそろ衣替えをしなければ、と雪子は思った。健司の夏物のスーツをしまって、合い物を出す。来月の初めの週末にでも。
アイロンをしまってから、雪子は冷蔵庫の扉に磁石で留めてあるプリントの束をめくった。学校からのお知らせ、町内会の回覧、歯医者の予約票。その中に、二年生の三者面談の案内があった。十一月の第二週から第三週、希望日を三つまで書いて提出、とある。締め切りは今週の金曜日だった。
華は何も言っていなかった。プリントを冷蔵庫に貼ったのは雪子自身だ。九月の初めに、華の鞄の底から皺だらけで出てきたのを伸ばして留めた。そのときは、まだ先のことだと思っていた。
雪子は自分のシフト表を出して見比べ、休みの日の欄に丸をつけた。第一希望、第二希望、第三希望。保護者氏名の欄に、坂口雪子と書く。続柄、母。健司の名前を書く欄はなかった。書く欄があったとしても、たぶん自分の名前を書いただろう。雪子はプリントを二つに折り、華の通学用の鞄が置いてある廊下の棚に、目につくように立てかけた。
切ったね、の一言でよかった。雪子は曇った鏡をもう一度拭いたが、浴室の戸の外からは物音がしなかった。
雪子はメッセージアプリを開き、健司とのやり取りを遡った。『今日遅くなる』『了解』『明日も遅い』『了解』『ゴミ出しお願い』『わかった』。三か月分を遡っても、画面のほとんどは同じ形をした言葉で埋まっていた。最後に健司の方から何かを訊いてきたのは、春に華の修学旅行の費用を振り込んだかどうか、だった。
十一時十五分、鍵の回る音がした。
「おかえりなさい」
雪子は玄関まで出た。健司は靴を脱ぎながら、ああ、と言った。上り框に片手をついて、潰れた踵を引き抜く。顔が赤い。酒の匂いがした。ビールではない、もっと甘い、洋酒のような匂い。その奥に、かすかに別の香りが混じっている気がした。花のような、それとも果物のような、甘い香りだった。
接待の店のお手洗いの芳香剤だろう。それとも、帰りの電車で隣に立った誰かの香水か。雪子はそう思い、思った端からそれを打ち消した。打ち消したことすら、すぐに忘れることにした。
「ご飯、ハンバーグがあるけど」
「食べてきた」
「お風呂は、沸かし直す?」
「シャワーでいい」
健司はリビングに入り、ネクタイを緩めながら、上着をダイニングの椅子の背に放った。冷蔵庫を開けて、麦茶のポットを取り出し、コップに注いで一息に飲む。ラップをかけたハンバーグの皿に、目をやったかどうかはわからなかった。
「今日、遅かったのね」
「部長に捕まってさ」
健司はコップを流しに置き、椅子に腰を下ろした。
「若いのが一件、でかい新規取ってきたんだよ。二十九だぞ。で、部長がそいつ連れて飲みに行くって言うから、課長の俺が行かないわけにいかないだろ」
「大変だったのね」
「大変っていうかさ」
健司は何か言いかけて、口をつぐんだ。テーブルの木目を指でなぞり、それから首を回して骨を鳴らした。
「あいつの企画書、俺が去年出したやつとほとんど同じなんだよ。そのときは部長、見もしなかったくせに」
華は髪のことに気づいていたのかもしれない。雪子は答えを確かめようとして立ち上がりかけたが、すでにドアは閉まっていた。湿布の端を指で押さえ、座り直した。
「お前に言っても、しょうがないけどな」
健司はズボンのポケットからスマホを取り出し、画面に目を落とした。指で何かを打ち、口の端がわずかに上がった。それから画面を消して、テーブルの上に伏せた。
雪子は、彼の向かいの椅子に腰を下ろした。
「華のことなんだけど」
「うん」
「進路、まだ決めてないって。とりあえず大学、とは書いたみたい」
「大学は行かせるんだろ」
健司は当然のことのように言った。
「今どき大学くらい出とかないと。俺だって出てるんだし。どこでもいいから、とにかく四年制に入れとけよ」
「どこでもいいってことはないでしょう。あの子が何をしたいかによるし」
「したいことなんか、入ってから見つければいいんだよ。俺もそうだった」
「十一月に三者面談があるの。あなたも、もし時間があれば」
「平日だろ。無理だよ。お前が行ってくれ」
健司はそう言って、伏せたスマホを手に取った。画面を点けて時刻を確かめ、また消す。雪子は、華が食卓で言った「考えてるよ」を思い出した。その中身を、この人は知りたいと思うことがあるのだろうか。訊きかけて、やめた。訊いたところで、お前が聞いとけ、と返ってくるのはわかっていた。
健司は椅子を引いて立ち上がった。雪子も立ち上がり、彼の後ろに立った。リビングの照明の真下だった。今なら、と思った。ここに立っていれば、振り向いた彼の目に、自分の顔が正面から映る。
健司は振り向いた。雪子の顔を見た。そして、その横を通り過ぎた。
「ねえ」
健司が廊下の手前で足を止めた。
「なに」
髪、切ったの。先週。
喉元まで来た言葉を、雪子は飲み込んだ。言えば、彼は「ああ、そう」と言うだろう。あるいは「へえ」とだけ。それを聞いてしまったら、自分は明日もまた、照明の真下に立つことを試すのだろうか。
「明日、燃えないゴミの日だから。ベランダの空き瓶、出しておいてくれる?」
「わかってる」
健司は浴室へ消えた。シャワーの音が聞こえはじめた。
さっき健司が口にした若い部下の話を、雪子は頭の中で繰り返した。お前に言っても、しょうがない。そう言いながら、彼は話した。話したかったのだろうか。それとも、ほかに聞かせる相手がいなかったのか。その考えは、どこにも辿り着かないまま、シャワーの水音の中に紛れていった。
雪子はダイニングの椅子の背から、彼の上着を取り上げた。夏物の、薄いグレーのスーツだった。肩のところに皺が寄り、裾には電車の座席の毛羽がついている。寝室のクローゼットからハンガーを持ってきて掛け、洋服ブラシで肩から裾へ撫でおろした。ポケットの膨らみには手を触れなかった。結婚して二十年、衣替えのとき以外に、健司の上着のポケットを探ったことは一度もない。それが妻としての礼儀だと思ってきた。
来月、衣替えのときに、このスーツもクリーニングに出そう。雪子はハンガーをクローゼットに戻しながら、そう決めた。
台所に戻り、炊飯器に明朝の米を仕掛けた。タイマーを五時四十分に合わせる。それからリビングの棚から、黒い革の手帳を取ってきた。印刷会社にいた頃から毎年同じ型の中身を買い足している、手のひらに収まる手帳だ。今日の日付の欄に、雪子はボールペンで書き込んだ。
『健×』
献立の数を合わせるために始めた習慣だった。誰が家で食べ、誰が食べないか。月末に見返して、食費の見当をつける。九月の欄を眺めると、同じ「健×」がいくつも並んでいた。木曜、金曜、また木曜。先週も、その前の週も。雪子はその並びをしばらく見ていたが、何を数えようとしているのか自分でもわからなくなって、手帳を閉じた。
浴室のドアが開き、髪をタオルで拭きながら健司が出てきた。スウェットの上下に着替えている。リビングの棚の上の充電器を引き抜き、スマホにつないだまま、コードごと手に巻きつけた。
「明日も、遅くなるかもしれない」
「晩ご飯は?」
「わからん。いらないと思っといて」
「わかった」
健司は寝室へ向かいかけて、振り返った。
「目覚まし、六時半でいいよな」
「いつもと同じでしょう」
「ああ」
それが、この夜、二人が交わした最後の言葉だった。
寝室には、ツインベッドが二台並んでいる。そのあいだに、腰の高さのナイトテーブルが一つ。窓側が健司、ドア側が雪子のベッドだ。十四年前、このマンションに越してきたときに買った。
華が三歳になる年だった。駅から自転車で十分、3LDKの分譲マンション。モデルルームを見て回った帰り道、健司は華を肩車しながら、三十五年ローンだぞ、俺もいよいよ一国一城の主だな、と何度も言った。契約書に判を押す日、彼は前の晩から新しいワイシャツにアイロンをかけてくれと言い、雪子は夜中までかけて、襟を二度やり直した。あの頃の健司は、家族の話をするときに、声が一つ高くなった。
それまでの布団の暮らしから、ベッドにしようと言い出したのは健司だった。家具屋の売り場で、ダブルとツインを見比べながら、彼は笑って言った。お前、寝相悪いからさ。寝返りのたびに起こされたら、俺の仕事に響く。雪子も笑った。そうね、あなたのいびきもうるさいし、と言い返した。冗談だった。二人とも、冗談のつもりだった。
いつからだろう、夫と肌を合わせなくなったのは。もう何年も経つ。
最初は、子育てと仕事の疲れだった。華がまだ小さかった頃は、毎日が戦争のようだった。夜、ベッドに入る頃にはお互い疲れ果てていて、そんな余裕はなかった。週に一度が月に一度になり、月に一度が、華の誕生日や結婚記念日のような、何かの日の後だけになった。そのうち、何かの日も過ぎていくだけになった。
一度だけ、自分から健司のベッドに入ったことがある。四年あまり前、華が中学に上がった春だった。暗がりの中で掛け布団の端を持ち上げると、健司は背中を向けたまま言った。疲れてるんだ。明日、早いから。それきり、寝息しか聞こえなくなった。雪子は自分のベッドに戻り、天井を見て朝を待った。
それ以来、雪子はナイトテーブルの向こうへ手を伸ばしていない。
どちらからともなく求めなくなった、ということにしてきた。夫を異性としてではなく、家族としてしか見られなくなったのは、自分も同じなのかもしれない。四十を過ぎれば男の人はそういうものだと、どこかで聞いた気もする。だからこれも、夫婦が年月を重ねれば行き着く形なのだと、雪子は無理やり自分を納得させてきた。
昔のようなときめきは、もうない。今さら求められても、きっと戸惑うだろう。それでも、寂しいと感じる瞬間はある。新しい髪型にしても、少しお洒落な服を着てみても、夫は何も気づかない。その無関心は、自分にはもう女としての魅力がないのだと突きつけられているようで、胸の奥に冷たい風が吹き抜ける。
雪子はドア側のベッドに入り、明かりを消した。
洗面所でドライヤーの音がしばらく続き、やがて廊下を歩く足音がした。寝室のドアが開き、健司が窓側のベッドに入った。マットレスがきしむ。彼はスマホを手に取ったらしく、掛け布団の中から青白い光が漏れて、天井をぼんやりと照らした。指が画面を弾く、かすかな音がする。五分、十分。やがて光が消え、スマホがナイトテーブルの上に置かれる音がした。画面を下にして置いたのだと、音でわかった。
健司は壁の方を向いた。間もなく、規則正しい寝息が聞こえてきた。
眠ろうとして目を閉じると、明日の段取りが勝手に頭の中に並びはじめた。五時四十分に炊飯器が鳴る。弁当を二つ詰める。どちらにもハンバーグを半分ずつ入れる。華の三者面談のプリントが鞄に入ったかどうか、出がけに確かめる。八時半にタイムカードを押し、朝いちばんにフライヤーの油を替える。パン粉は棚の下の左側。九時半に唐揚げを二十。
そこまで並べてから、雪子は目を開けた。明日の自分は、今日の自分とほとんど同じ順番で動く。十年前もそうだったし、たぶん十年後も変わらない。そのことを、これまで不満に思ったことはなかった。決まった順番があるから、手を止めずにいられた。手を止めなければ、考えずにいられた。
雪子は暗い天井を見上げていた。廊下の向こうで、華の部屋のドアが閉まる音がした。冷蔵庫が低く唸っている。その中に、ラップをかけたハンバーグが一皿、手つかずのまま入っている。
この静かな家は、平和なのではない。ただ、誰も何も言わないだけだ。言わないことで、この危うい均衡を保っている。
ナイトテーブルの上で、伏せられた健司のスマホの縁から、小さな光が一度だけ滲んで、消えた。雪子は寝返りを打ち、ドアの方を向いて目を閉じた。




