第一章 唐揚げの匂いと無関心
従業員通用口でタイムカードを差し込むと、八時二十六分と印字された。雪子はその数字を確かめてからロッカー室に入り、白衣に袖を通した。髪を一つにまとめてネットに押し込み、上から帽子をかぶる。マスクをつけ、肘の手前まで二度洗い、アルコールを擦り込む。十年続けてきた順番は、考えなくても指が覚えている。
スーパー「たちばな」駅前店の惣菜部門のバックヤードに入ると、換気扇はもう回っていた。ステンレスの作業台、大型のフライヤーが二台、スチームコンベクションオーブン、壁際に並んだ業務用の冷蔵庫。九月も下旬だというのに、ここには季節が届かない。フライヤーに火が入れば、室温はすぐに三十度を超える。
「おはよう、雪子さん。今日こそ一番乗りかと思ったのに、二番だったわ」
佐々木さんが、ボウルに山盛りのキャベツを抱えて振り返った。六十を三つか四つ過ぎているはずだが、朝いちばん声が大きいのはいつもこの人だ。
「おはようございます。早いですね」
「孫が熱出したって娘から電話があってね、五時に叩き起こされたのよ。そしたら結局、保育園休ませるから来なくていいって。起こされ損」
佐々木さんは笑いながら、キャベツをスライサーに放り込んだ。雪子はホワイトボードの前に立ち、今日の製造計画を確かめた。唐揚げ百二十パック、コロッケ八十、メンチカツ四十、ポテトサラダ三十、幕の内弁当六十、のり弁四十、焼き鳥は盛り合わせで二十五。数字の横に、角ばった字で「水曜・ポイント五倍」と書き添えてある。いつもより客が二割は増える日だった。
雪子は冷蔵庫から鶏もも肉のバットを引き出した。前日の夕方に下味をつけて寝かせておいた肉だ。醤油、すりおろした生姜とにんにく、酒。配合は本部の手順書どおりだが、揉み込む手間を惜しむかどうかで、揚がりの色は違ってくる。一切れをつまんで指の腹で押し、漬かり具合を確かめる。
「雪子さん、それ、もう揚げ始めて大丈夫そう?」
声をかけてきたのは田中だった。白衣の胸ポケットにボールペンを二本差し、片手にクリップボードを持っている。惣菜部門の主任で、雪子と同じ四十五歳だと聞いたことがある。
この部門では、雪子は雪子さんと呼ばれている。昔、坂口という姓のパートが二人いた時期があり、佐々木さんが下の名前で呼び分けたのが、いつのまにか社員にまで広まったのだ。もう一人の坂口さんが辞めて五年経つが、呼び名だけが残った。
「大丈夫です。昨日の四時過ぎに漬けたので、ちょうどいいと思います」
「よかった。今日五倍だから、開店から唐揚げを切らしたくないんだ。九時半に二十、十一時前にもう三十。いけそう?」
「いけます」
「助かる」
田中は軽く頭を下げ、ホワイトボードの数字を一つ書き換えると、冷蔵庫の温度記録表を確かめに行った。年下のアルバイトにも年上のパートにも同じ調子で話す人で、誰かが急に休めば自分が白衣を着てフライヤーの前に立つ。主任になって三年、部門の売上が落ちたという話は聞いたことがない。
雪子は粉を合わせた。片栗粉と小麦粉を手順書の比率で混ぜ、肉に薄くまぶしていく。まぶしすぎると衣が厚くなり、冷めたときに硬くなる。十年前、入ったばかりの頃にそれを教えてくれたのは佐々木さんだった。
粉をまぶす手を動かしながら、雪子は今朝の台所を思い出していた。六時に起きて、自分と華の弁当を詰め、味噌汁を温めた。六時半過ぎに起きてきた健司は、食卓に座るなりスマホを開き、画面を指で弾きながら味噌汁を啜った。
「今日も遅くなる」
「晩ご飯は?」
「いらない。たぶん」
たぶん、の分だけ、雪子は夕食を多めに作ることになる。それを言っても仕方がないので、言わなかった。健司はネクタイを締めながら玄関へ向かい、靴べらを使わずに革靴に踵を押し込んだ。その癖で、彼の靴の踵はいつもすぐに潰れる。
七時過ぎに起きてきた華は、制服のリボンを結びながら、食卓のパンを一枚だけ取った。
「お弁当、持ってって」
「うん」
「今日、バイトは?」
「ない」
それだけ言って、華は弁当の包みを鞄に押し込み、玄関を出ていった。ドアの閉まる音のあと、台所には換気扇の音だけが残った。雪子は二人分の食器を洗い、洗濯物を干し、自転車の鍵を手に取った。毎朝、ほとんど同じ順番で、ほとんど同じ言葉しか交わさない。それを寂しいと思う前に、時計を見て家を出るのが雪子の朝だった。
フライヤーの温度計が百七十度を指したところで、最初の籠を沈めた。油が一斉に泡立ち、ごうごうという音がバックヤードを満たす。三分半で一度引き上げ、油を切って休ませ、百八十五度でもう一度。二度揚げにすると、外側だけが乾いた音を立てるようになる。
揚がった唐揚げを網の上に広げると、生姜と醤油の焦げた匂いが立ちのぼった。雪子はトングで一つずつパックに詰めていく。六個入りで三百九十八円。大きさの揃わない肉を、どれも同じ重さに見えるように組み合わせるのが、この仕事の地味な腕の見せどころだった。
「ポテサラ、今日ちょっと塩きつかったかしら」
佐々木さんが小皿を差し出した。雪子はマスクを顎までずらして、端を舐めた。
「大丈夫だと思います。胡瓜の水気がまだ出てないから、昼にはちょうどよくなりますよ」
「そう? 雪子さんがそう言うなら安心だわ」
開店の音楽が売り場から流れてきた。雪子は唐揚げのパックを番重に並べ、カートを押して売り場へ出た。惣菜の平台はまだ半分が空いている。手前に唐揚げ、その奥にコロッケ、ポテトサラダは冷蔵ケースの目の高さの段。並べ終えて一歩下がり、全体を眺める。照明の下で揚げ物の衣がつやつやと光っていた。
バックヤードに戻ると、田中が佐々木さんの横で弁当の容器を数えていた。
「佐々木さん、幕の内、今日は煮物を南瓜にしてもらっていい? 里芋の入荷が遅れてて」
「はいはい。南瓜なら朝に炊いたのがあるわよ」
「さすが」
田中は伝票の束をめくり、眉を寄せた。
「あと、パン粉。今朝の納品、一箱足りないみたいなんだ。センターに電話したら、午後の便になるって」
「メンチの分、足りますか」
佐々木さんが手を止めた。雪子は乾物の棚の下段を覗き込み、開封済みの袋の残りを手で量った。
「メンチ四十なら、いまある分でぎりぎりです。コロッケは昨日のうちにパン粉までつけてあるので、そっちは大丈夫。ただ、午後の仕込みの分が足りなくなるので、明日のコロッケは便が来てからにします」
「じゃあ、明日の朝の段取り、一つずらそう。便が三時までに来なかったら、隣の店から一袋借りてくる」
「お願いします」
田中はクリップボードに書き込み、ペンの尻で額を掻いた。
「雪子さんがいると、棚を見る前に答えが出てくるから助かる」
雪子は返事に困って、軽く頭を下げた。
田中が売り場へ出ていくと、佐々木さんは容器に仕切りをはめながら、声を落とした。
「田中さんってさ、ほんとに家の話しない人よね」
「そうですか?」
「そうよ。あたし、あの人がここに来たときからいるけど、奥さんの名前も知らないもの。娘さんがいるのだって、あたしがしつこく聞いてやっと。中学生だって。それっきり」
「仕事とは分けてるんじゃないですか」
「ポテサラ、今日ちょっと塩きつかったかしら」
佐々木さんが、味見用に取り分けた小皿を差し出した。雪子は作業から離れ、手袋を外して手を洗った。清潔なスプーンで一口だけ確かめる。
十一時を回ると、売り場の空気が変わった。昼の弁当を買いに来る会社員、ベビーカーを押した母親、自転車の籠に買い物袋を二つ提げた年配の女性。平台の唐揚げが目に見えて減っていく。雪子はバックヤードと売り場を何度も往復した。
「すみません、このコロッケ、一個だけってできますか」
平台の前で、杖をついた男性が声をかけてきた。週に二、三度見かける顔だった。
「パックのものは三個入りなんですけど、あちらのバラ売りのコーナーでしたら一個からお取りいただけます。いま揚げたてを補充しますね」
「悪いね。一人だと三つは食べきれなくてさ」
雪子はバックヤードから揚げたてのコロッケを運び、バラ売りのケースに並べた。男性はトングで一つだけ取り、紙の袋に入れて、ありがとうと言った。
十二時前には、幕の内弁当が残り八つになった。雪子は佐々木さんと並んで、追加の弁当を盛りつけた。白飯をはかりに載せて二百グラム、その上に胡麻を振り、仕切りの中に焼き鮭、卵焼き、南瓜の煮物、唐揚げ一つ、漬物。蓋を閉め、ラベルを貼る。二人で黙々と手を動かすと、二十個が十分足らずで揃った。
「雪子さん、のり弁あと何個?」
売り場から戻ってきた田中が訊いた。
「さっき見たときは十二でした。白身フライはあと二十個分揚げてあります」
「じゃあ十二時半に十、追加でお願い。それで今日は締めよう」
田中はクリップボードに何かを書きつけ、また売り場へ出ていった。
昼のピークが落ち着きかけた頃、店長が売り場を回ってきた。五十過ぎの痩せた人で、ワイシャツの上に店のジャンパーを羽織り、どの部門の前でも必ず一度立ち止まる。惣菜の平台の前で足を止め、腕を組んでしばらく眺めていた。
「坂口さん、この並べ方、誰の案?」
店長は部門の外の人なので、雪子を姓で呼ぶ。
「唐揚げを手前にしたのは、田中主任の指示です。ポテトサラダの段は、前から私がこうしてます。目の高さにあると、ついでに手に取ってもらえるので」
「ふうん。たしかに、ポテサラの数字、駅前店は他所より出てるんだよな」
店長は胸ポケットから手帳を出して何かを書きつけた。
「坂口さん、ここ何年だっけ」
「この春で十年です」
「十年か。長いね」
それだけ言って、店長は青果の売り場の方へ歩いていった。雪子はその背中を見送り、乱れてもいないコロッケの列を、もう一度指で揃えた。
一時半、雪子は休憩に入った。休憩室には長机が二つと、電子レンジ、古いテレビが一台ある。雪子は家から持ってきた弁当箱を開けた。昨夜の残りの筑前煮と、朝に焼いた卵焼き、ご飯に梅干し。毎朝、自分と華の分を作る。華は高校の購買でパンを買うこともあるが、それでも雪子は作るのをやめなかった。
スマホを確かめると、通知は何もなかった。家族三人のメッセージのグループを開く。最後のやり取りは三日前、雪子の「牛乳買ってきて」に、健司が「了解」と返したものだった。その牛乳を、健司は結局買ってこなかった。
向かいの椅子に、佐々木さんが自分の湯呑みを持って座った。
「雪子さんのお弁当、いつも茶色くていいわね。おいしそう」
「昨日の残りですよ」
「残りがあるのがえらいのよ。うちなんか二人きりだから、作っても作らなくても同じ。亭主は文句言わないけど、褒めもしないし」
佐々木さんは湯呑みの茶を啜った。
「でも最近、あの人、あたしが髪染めたら気づいたのよ。三十五年で初めて。びっくりして、熱でもあるのかと思った」
「よかったじゃないですか」
「よくないわよ。気味が悪いわよ」
佐々木さんは顔をしかめてみせたが、目元は笑っていた。雪子も笑って、筑前煮の人参を口に運んだ。
「華ちゃん、元気? もう高二でしょ」
「ええ。元気だと思います」
「思います、って」
「最近、あんまり話してくれないんですよ。駅前のパン屋さんでバイトしてて、学校とバイトで、家にいる時間が短くて」
「進路は? うちの孫の上の子、来年受験だって大騒ぎよ。塾だ模試だって」
雪子は箸を止めた。この夏、学校から進路希望調査の紙が届いたはずだった。提出したのかどうかも、雪子は知らない。訊こうとして、訊きそびれたまま九月が終わろうとしている。
「まだ、はっきりとは聞いてなくて」
「そういう年頃よ。うちの娘もそうだった。親に言うのは全部決めてからなのよ、あの子たちは」
佐々木さんはそう言って、湯呑みを両手で包んだ。雪子は頷きながら、今夜こそ訊いてみようと思った。
先週の土曜、雪子は駅の向こうの美容院で髪を切った。肩にかかっていた毛先を顎の線まで揃え、前髪を軽くしてもらった。担当の若い美容師が、すごく若返りましたよと言ってくれた。その言葉に、帰り道ずっと首筋が涼しかったのを覚えている。
家では、誰も何も言わなかった。華は一度だけこちらを見たような気がしたが、それきりだった。健司は、たぶん見てもいない。
雪子は弁当箱の蓋を閉め、残りの茶を飲み干した。
午後は翌日の仕込みに充てられる。じゃがいもを洗って皮ごと蒸し、熱いうちに皮を剥いてコロッケのたねを作る。鶏もも肉を切り分け、下味の調味液に漬ける。合間に、昼の分の調理器具を洗い、作業台を拭き上げる。
二時五十分、通用口の方から台車の音がした。田中がパン粉の段ボールを二箱積んで、バックヤードに入ってきた。
「来た。午後の便、間に合った」
「二箱ですか」
「一箱じゃまた足りなくなる気がして、明日の分も前倒しで頼んだ。置き場所、どこがいい?」
「乾物の棚の下、左側が空いてます。古い方を手前に出しておきますね」
雪子は棚の下段にしゃがみ、開封済みの袋を手前に寄せた。田中が段ボールを奥に押し込む。二人の肩が一瞬触れそうになり、田中が先に身を引いた。
「ごめん、狭いね、ここ」
「いえ」
田中は台車を押して出ていった。雪子は段ボールのテープを剥がし、袋に日付を書き込んだ。
三時過ぎ、田中がフライヤーの油の状態を見に来た。試験紙を油に浸し、色の変わり方を確かめる。
「今日はもう一回濾せばいけるかな。明日の朝いちばんで交換しよう」
「わかりました。濾し器、出しておきます」
「ありがとう」
田中は試験紙をごみ箱に捨ててから、雪子の手元に目をやった。
「その手首、どうかした?」
雪子は自分でも気づかないうちに、左の手首を右手でさすっていた。
「ちょっと張ってるだけです。じゃがいもを潰してたので」
「無理しないで。来週から、揚げ場と盛りつけ、交代制にしようかと思ってたんだ。佐々木さんと雪子さんに偏ってるから」
「私は平気ですよ」
「平気って言う人ほど、ある日突然来られなくなるんだよ。こっちが困る」
田中はそう言って笑い、売り場の方へ戻っていった。雪子は手首から手を離した。気遣われたのだと気づいたのは、彼の背中が見えなくなってからだった。
四時少し前、通用口から大学生の三浦さんが入ってきた。大学二年で、平日の夕方から閉店までのシフトに入っている。茶色に染めた髪を、ロッカー室で手早くネットにまとめてくる。
「おはようございます。雪子さん、聞いてくださいよ。今日のゼミで、発表の順番、私だけ二回目だったんですよ。くじ引きなのに」
「くじなら仕方ないじゃない」
「仕方ないんですけど、納得いかないんです」
三浦さんは頬を膨らませながら、手を洗い始めた。入ったばかりの頃は盛りつけの手が遅く、佐々木さんにずいぶん叱られていたが、半年経った今では、弁当一つを一分足らずで仕上げる。
「三浦さん、今日、焼き鳥の盛り合わせ、教えた通りにやってみて。タレを先に、塩はあと。混ざるとお客さんが嫌がるから」
「はい。あ、ねぎまは上ですよね」
「そう。一番きれいなのを一番上に」
三浦さんは串を並べながら、ふと手を止めて雪子を見た。
「雪子さんって、旦那さんとどこで知り合ったんですか」
「どうしたの、急に」
「ゼミの先輩が、社会人の人と付き合い始めたんですよ。で、みんなで、大人ってどこで出会うんだろうって話になって」
「仕事よ。昔、印刷会社で事務をしてて、そこに取引先の営業の人が来てたの」
「えっ、職場恋愛ですか。素敵」
「素敵なんて、そんなものじゃないわよ」
脇でキャベツの残りを片付けていた佐々木さんが、口を挟んだ。
「三浦さん、雪子さんの旦那さん、営業の課長さんなのよ。いい人捕まえたのよ、この人」
「佐々木さん」
雪子がたしなめると、佐々木さんは肩をすくめてボウルを洗い場に運んでいった。三浦さんは焼き鳥のパックに蓋をしながら、いいなあ、と小さく言った。雪子は何と返せばいいかわからず、タレの小袋を数えるふりをした。
四時を過ぎると、店内はふたたび人で埋まり始めた。仕事帰りの会社員、学校帰りの子どもを連れた母親、部活帰りの高校生。夕食の一品を探す人々が、惣菜の平台の前で足を止める。雪子は空いた棚に揚げたての唐揚げを補充し、コロッケの列を整え、ポテトサラダの残りを数えた。
「ただいまより、精肉売り場にてタイムセールを行います!」
精肉担当の社員の声が、店内放送に負けない大きさで響いた。その声につられるように、人の流れが奥の売り場へ動いていく。
五時になると、田中がバックヤードから値引き用のシールの束を持ってきた。
「雪子さん、これお願い。五時台は二割まで。三割は六時を過ぎてから。半額は三浦さんに、閉店前に頼むから」
「わかりました」
雪子はシールの束を受け取った。赤い地に白抜きの文字で「2割引」と刷られている。
値引きのシールを貼るのは、ただの作業だ。消費期限の近い順に並べ直し、パックの左下の角、商品名と値段にかからない位置に一枚ずつまっすぐ貼っていく。貼る端から、それを待っていた客の手が伸びてくる。佐々木さんは陰でその人たちを「五時の常連さん」と呼んでいる。悪気はない。雪子自身、休みの日にはよその店で同じことをする。
二割引、三割引、そして半額。シールを一枚貼るたびに、同じ唐揚げの値段が下がっていく。中身は朝と何も変わっていないのに、時間が経ったというだけで、価値は目減りしていく。
その様は、まるで自分自身のようだ、と時々思う。
二十年前、雪子は健司にとって、ほかの誰とも取り替えのきかない人間だったはずだ。小さな印刷会社の事務所で、校正刷りを受け取りに来た営業の彼が、帰り際に雪子の名札の字をわざわざ読んで、村瀬さんって言うんですね、と言った。あの頃の自分は、確かに誰かに見られていた。
今では「いて当たり前」の存在だ。値引きシールを貼られることもなく、ただ静かに棚の隅に置かれている。安くなったから手に取ってもらえる、というわけでもない。最初から、誰の目にも留まらない場所にある。
雪子は、指先についたシールの糊を親指でこすり落とした。そんな感傷を打ち消すように、次のパックに手を伸ばす。
「すみません、この唐揚げ、まだ割引にならないんですか」
背後から声をかけられ、雪子は振り返った。スーツ姿の若い男性が、六個入りのパックを手に持って立っていた。
「申し訳ありません。そちらは今朝揚げたもので、まだ定価なんです。あちらの、昼に揚げたものでしたら二割引になっております」
「雪子さん、さっきの盛り合わせ、塩とタレの位置を逆にした方が見やすいですか」
三浦が一つ完成品を持ち上げた。雪子は受け取り、ラベルが見える向きに置き直した。
「お客さんが最初に見るのはこっちだから。試してみて、売り場で見にくかったら直そう」
「わかりました。自分で一回並べてみます」
雪子は頷き、三浦の手にパックを戻した。自分が全部仕上げる方が速い。それでも、三浦が売り場へ持っていく背中を見送った。
「ああ、どっちでもいいや。じゃあ、こっちで」
男性は定価のパックを棚に戻し、二割引の方を籠に入れた。雪子は戻されたパックを元の位置に揃え直した。
五時半を過ぎた頃、平台の向こうで小さな悲鳴が上がった。四つか五つくらいの男の子が、手に持っていたコロッケのパックを床に落としたのだった。蓋が外れ、コロッケが二つ、床を転がっていた。母親らしい女性が、もう片方の手に買い物籠を提げたまま、慌ててしゃがみ込んだ。
「すみません、すみません。弁償します」
「大丈夫ですよ。お怪我はないですか」
雪子は床の上のコロッケをパックごと拾い上げ、エプロンのポケットからペーパーを出して床を拭いた。男の子は泣き出しそうな顔で、母親のスカートの裾を握っていた。
「新しいのをお持ちしますね。こちらは大丈夫ですから」
「でも」
「落ちたのは、こっちで処分しますので。お気になさらず」
雪子は棚から同じパックを取り、母親の籠に入れた。それから男の子の目の高さにしゃがんで、言った。
「熱くなかった?」
男の子は首を横に振った。
「よかった。お母さんと一緒に、おいしく食べてね」
母親は何度も頭を下げて、レジの方へ歩いていった。男の子は途中で一度振り返り、雪子に向かって小さく手を振った。雪子も手を振り返した。華にもあんな頃があった。スーパーの床に座り込んで、お菓子を買ってくれるまで動かないと泣いた日のことを、雪子はふいに思い出した。今の華は、欲しいものを口に出すことすらしない。
六時過ぎ、三浦さんと交代で最後の補充を済ませた。三割引のシールを残りのパックに貼り終えると、雪子は三浦さんを平台の端に呼んだ。
値引きシールを貼るのは、ただの作業だ。消費期限と製造時刻を確かめ、決められた値引き開始時刻に合わせ、対象商品だけを選ぶ。商品名と消費期限、バーコードを隠さない位置に一枚ずつまっすぐ貼っていく。貼る端から、それを待っていた客の手が伸びてくる。佐々木さんは陰でその人たちを「五時の常連さん」と呼んでいる。悪気はない。雪子自身、休みの日にはよその店で同じことをする。
二割引、三割引、そして半額。値札が貼り替わるたび、同じ唐揚げを手に取る客の顔ぶれが変わる。中身が変わらなくても、買う人にとっての意味は変わるのだ。
雪子は、自分の手元を見た。
二十年前、健司は雪子の名札を声に出して読んだ。印刷会社の事務所で、校正刷りを受け取りに来た彼が「村瀬さんって言うんですね」と笑ったとき、雪子は思わず顔を上げた。
今では、その名を家で呼ばれることはほとんどない。けれど売り場で客に呼び止められれば、雪子は顔を上げる。今日も一個だけコロッケを買った男性が、帰り際に「ありがとう」と言ってくれた。
雪子は指先についたシールの糊を親指でこすり落とし、次のパックの消費期限を確かめた。
「ほんと。焼き鳥も、今日のはきれいだった」
三浦さんは照れたように笑い、平台の方へ戻っていった。雪子は残ったシールの束を田中に返した。
「お疲れさま。今日、唐揚げ一回も切らさなかったね」
「九時半の分、もう少し多くてもよかったかもしれません。十一時前にちょっと薄くなりました」
「そっか。じゃあ来週の五倍の日は、九時半を二十五にしよう。メモしとく」
田中はクリップボードに書きつけた。
「明日も朝から?」
「はい、明日も八時半からです」
「油、交換するから、ちょっと早めに火入れよう。よろしく」
「わかりました。お先に失礼します」
ロッカー室で帽子とネットを外すと、まとめていた髪がほどけて首筋に落ちた。顎の線まで切ったはずの毛先が、思ったより早く伸びている。雪子は指で髪を梳いた。指の間から、揚げ油の匂いが立った。白衣を脱いでも、手を洗っても、この匂いだけは髪の奥に残る。家に帰ってシャンプーを二回すれば消えるが、翌朝にはまた同じ匂いをまとって帰ってくる。
ロッカーの扉の内側には、華が小学生のときに描いた似顔絵の縮小コピーが貼ってある。おかあさん、と大きく書かれた字の下に、エプロン姿の女の人が両手を広げて笑っている。貼った当時はセロハンテープだったのを、三年前に剥がれかけたので両面テープに貼り直した。
雪子はスマホを取り出し、華にメッセージを打った。
『今からかえるね。今日ハンバーグにするけど、バイトないよね?』
送信を押して、鞄にしまった。
通用口を出ると、外はもう薄暗かった。九月の終わりの夕方は、半月前に比べて目に見えて短い。駐輪場の屋根の下で自転車の鍵を外し、籠に鞄を入れる。帰りに買い足すつもりだった玉ねぎと合い挽き肉は、退勤前に売り場で買って、もう袋の中にある。
駅前のロータリーを回り、商店街の通りに入る。シャッターを半分下ろした八百屋、灯りのついた薬局、ガラス越しに棚の空いたパン屋が見えた。華がアルバイトをしている店だ。今日は休みのはずで、レジに立っているのは見覚えのない若い女の人だった。
信号で止まって、鞄の中のスマホを取り出す。メッセージには「既読」の文字が付いていた。返事はない。
雪子はしばらく画面を見ていたが、信号が青に変わったので、スマホを籠の鞄に戻した。
読んだのなら、うん、の一文字でいい。そう打ち返そうかと思って、やめた。前に一度、返事くらいしてと送ったら、その日の夕食のあいだじゅう華は黙りこくっていた。既読がつくなら、少なくとも読んではいる。今日はバイトもない。それがわかれば十分だと、雪子は自分に言い聞かせた。ハンバーグのたねに、今日はナツメグを入れよう。華が小さい頃に、お店の味だと喜んだ配合で。
ペダルを踏み込むと、向かい風が頬に当たった。踏切を越え、線路沿いの道をまっすぐ走る。どこかの家から、魚を焼く匂いが流れてきた。カレーの匂いもする。雪子の髪からは、まだ唐揚げの匂いがしていた。
十分ほどで、マンションの前に着いた。駐輪場に自転車を入れ、チェーンをかける。顔を上げて建物を見上げると、自分の家の窓のうち、華の部屋の窓にだけ明かりがついていた。




