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値札のない朝  作者: 久遠 睦


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第四章 休憩室にて

月曜日の朝、雪子はパートに行く前に、駅前のクリーニング屋に健司の夏物のスーツを三着出した。

カウンターの女性が一着ずつ広げてポケットを確かめていく。毎年見ている手つきなのに、内ポケットに指が入るたび、雪子の背中が強張った。

「何も入ってませんね。仕上がりは木曜日です」

渡された控えを財布にしまいながら、雪子は自分が何を恐れていたのかを考えた。もう何も入っていないことは、自分がいちばんよく知っている。入っていたものは、今、バッグの中の手帳に挟まっている。

その朝、健司はグレーの合い物のスーツを着て出かけていった。玄関で靴べらも使わずに踵を押し込みながら、「今日は普通に帰る」と言った。雪子は「わかった」と答えた。土曜日の夜から、そういう短いやり取りしかしていない。もともとそれ以上のことは話していなかったのだから、健司は何の変化にも気づいていないはずだった。

変わったのは、雪子のほうだった。

それから数日、雪子は自分がずっと健司を見ていることに気づいた。

朝、トーストを齧る健司の指先。スマホの画面を親指で上へ弾く速さ。誰かからの通知が来たとき、ほんの一瞬だけ口元がゆるむこと。それとも、ゆるんだように見えただけなのか。二十年間、同じ食卓で同じ朝を過ごしてきたのに、雪子はこの人がスマホを見るときの顔を、ちゃんと見たことがなかった。

火曜日の朝、健司がふいに顔を上げた。

「なんだよ」

「え?」

「さっきから、こっち見てるだろ」

「見てないよ。時計見てたの。今日、早番だから」

雪子は壁の時計を指さし、自分のトーストの皿を持って立ち上がった。健司は「ふうん」と言って、また画面に目を落とした。流しの前で、雪子は皿を持つ手が冷たく汗ばんでいるのを感じた。嘘をついたのは自分のほうだった。そのことが、ひどく理不尽に思えた。

その夜、十一時を過ぎて、雪子は食卓で手帳を開いていた。健司はもう寝室にいた。十月のページの名刺を指で押さえ、九月までの「健×」をもう一度数え直していると、廊下で足音がした。

雪子は手帳の上に手のひらを重ねた。

華だった。パジャマ代わりの中学のジャージを着て、台所に水を飲みに来たらしい。

「まだ起きてたの」

「家計簿。今月、ちょっと計算が合わなくて」

「ふうん」

華は浄水器の水をコップに注ぎ、立ったまま飲んだ。それから、雪子の手の下の黒い手帳に目をやった。

「お母さん、最近ずっとそれ持ってるね。お風呂の前も、テーブルに置いてた」

「シフトが変わったから。書き直してるの」

「そっか」

華はコップを流しに置き、廊下へ戻りかけて、足を止めた。振り返らないまま言った。

「あんまり、夜ふかししないでね」

ドアが閉まった。雪子は手帳の上から手をどけられないまま、娘の部屋のほうを見ていた。あの子は、何をどこまで見ているのだろう。

水曜日の朝、健司はネクタイを締めながら言った。

「今日、遅くなる。飯はいらない」

「残業?」

聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。健司は鏡越しに雪子を見て、眉を上げた。

「ああ。月末の締めの準備」

「そう」

まだ十月も半ばにならない、と雪子は思った。思っただけで、言わなかった。

健司が出かけたあと、雪子はバッグから手帳を取り出し、十月のページを開いた。名刺が、そこにあった。その日の升目の隅に、いつもの「健×」を書き込もうとして、ペン先が止まった。名刺の金の文字のすぐ横に、自分の字で健司の不在を書き足すことが、ひどくいやだった。

それでも、書いた。書かなければ、この夜もまた、何もなかった夜になる。

夜、華がバイトから帰ってくるまでのあいだ、雪子は台所の椅子に座って、もう一度あの店のホームページを開いた。土曜日には押さなかった「アクセス」の文字を押す。地図が出た。沿線でいちばん大きな駅の、東口から歩いて三分。雑居ビルの五階。

健司の会社は、同じ路線の、反対方向にある。仕事を終えてあの店に行くには、一度この街の駅を通り過ぎて、さらに四つ先まで乗らなければならない。帰りは、終電近くの電車でまた戻ってくる。

接待で取引先に連れて行かれた、という考えが、また一つ遠のいた。雪子は地図の上の小さな赤い印を、画面が暗くなるまで見つめていた。

その夜、健司が帰ってきたのは十一時四十分だった。雪子はベッドで横になったまま、目を閉じて寝たふりをしていた。廊下の足音、洗面所の水の音、寝室のドアが開く気配。健司が隣のベッドに腰を下ろし、上着を脱ぐ衣擦れの音がした。

雪子は、息を吸った。

煙草と、酒の匂いがした。それだけだった。甘い香りは、なかった。

ほっとした自分に気づいて、雪子は闇の中で唇を噛んだ。夫の上着の匂いを嗅いで、香水が混じっていないかを確かめている。そんなことをする女になるなんて、一週間前の自分は考えもしなかった。

翌朝、雪子は手帳の水曜日の升目に、もう一つ書き足した。「23:40」。帰ってきた時刻だった。書いてから、その四つの数字をしばらく見つめた。こんなものを書きためて、何になるのだろう。誰に見せるわけでもないのに。それでも、ペンを置くことはできなかった。

木曜日の午後、雪子はパート先で、十年間一度もしたことのない間違いをした。

夕方五時は、値引きの時間だった。惣菜部門では、昼前に作った商品のうち、夕方まで残ったものに順に値引きシールを貼っていく。何時に作ったものに何割を貼るかは、作業場の壁に貼り出された表で決まっている。雪子は十年、その表を見なくても間違えたことがなかった。

その日、雪子はシールの束を手に、平台の端から順に貼っていった。唐揚げ、コロッケ、きんぴら、ひじきの煮物。手は覚えている。パックの角に、まっすぐ。二割引、三割引、半額。

天ぷらの盛り合わせの前で、雪子は半額のシールを六枚続けて貼った。

貼り終えて、次の平台に移ろうとしたとき、後ろから腕をつかまれた。

「ちょっと、雪子さん」

佐々木さんだった。六十を過ぎてもよく通る声を、このときばかりは低く抑えていた。

「それ、三時に揚げたやつよ」

雪子は振り返った。佐々木さんの指さす先で、まだ蓋の内側に湯気の曇りが残る天ぷらのパックに、赤い半額のシールが並んでいた。昼前に揚げた盛り合わせは、その隣の段に、値札のまま残っている。

「あ……」

声が出なかった。佐々木さんはもう手を伸ばし、爪の先でシールの端を起こして、一枚ずつ剥がしはじめていた。雪子も慌てて手を伸ばした。四枚目を剥がそうとしたとき、買い物かごを提げた年配の女性が、横から五枚目のパックを取っていった。

「あら、ごめんなさいね。それ、そのお値段で結構ですよ。どうぞどうぞ」

佐々木さんは女性に笑いかけ、女性は嬉しそうに会釈してレジのほうへ歩いていった。

揚げたての天ぷらに、半額のシール。まだ少しも値打ちが減っていないものに、自分の手で値下げの札を貼っていた。雪子は剥がしたシールを手の中で丸めながら、自分の指先を見つめた。

そこへ、売り場の奥から田中がやってきた。

「天ぷら、半額出てた? さっきレジから、三時の盛り合わせに半額ついてたって連絡があったんだけど」

雪子が口を開くより先に、佐々木さんが言った。

「ごめんなさい主任、あたし。老眼鏡、ロッカーに置いてきちゃって。表、見間違えたの」

「ああ、そうでしたか」

田中は平台に目をやり、残っているパックを確かめてうなずいた。

「お客さんに渡った分はそのままでいいですから。佐々木さん、眼鏡、首から下げとくやつにしましょうよ」

「いやよ、おばあちゃんみたいじゃない」

「おばあちゃんでしょう、お孫さん三人もいて」

佐々木さんが田中の腕をはたき、近くにいた学生アルバイトの女の子が笑った。田中は笑いながら雪子のほうに目を向け、ほんの一瞬、何かを確かめるような顔をした。それから、何も言わずに売り場の奥へ戻っていった。

作業場に戻ってから、雪子は佐々木さんに頭を下げた。

「すみません。私のせいで」

「いいのよ」

佐々木さんはエプロンの紐を結び直しながら、手をひらひらと振った。

「あたしが間違えるのは、みんな慣れっこだもの。雪子さんが間違えたら、みんなびっくりするでしょ。主任なんか、天変地異だと思うわよ」

それから佐々木さんは、フライヤーの前に立つ前に、もう一度だけ雪子の顔を見た。

「何かあったんなら、無理しないのよ。顔に書いてあるわよ、ここ一週間」

雪子は答えられなかった。佐々木さんはそれ以上は聞かず、鶏肉の入ったバットを持ち上げて、揚げ場のほうへ歩いていった。

夕方のピークの前に、雪子は従業員用のトイレに入った。手を洗いながら、鏡の中の自分を見た。

顔に書いてある、と佐々木さんは言った。何が書いてあるのだろう。白い衛生帽の縁から、先月短くした髪の毛先がのぞいている。目の下が、青黒く沈んでいた。口元は、自分で思っていたよりずっと固く結ばれていた。

この顔で、一週間、売り場に立っていたのだ。家では誰にも何も言われなかった顔を、職場の人たちは見ていた。

雪子は冷たい水で頬を叩き、ペーパータオルで拭いてから、口角を指で押し上げてみた。鏡の中の女は、うまく笑えていなかった。

帰りに、雪子は駅前のクリーニング屋に寄った。月曜日に出した三着が、透明なビニールのカバーをかけられて仕上がっていた。

自転車の前かごに収まらず、片手でハンガーを持ち上げ、もう片方の手でハンドルを握って帰った。ビニールが風を受けてばたばたと鳴った。信号待ちのあいだ、雪子はカバー越しに濃紺のスーツを見た。襟の裏の汗の跡は、きれいに消えていた。

家に着くと、寝室のクローゼットの奥にスーツを吊るした。来年の夏まで、健司がこれに袖を通すことはない。内ポケットには、もう何も入っていない。雪子は、ビニールの上から胸のあたりに手を当て、指先の下に何の硬さもないことを確かめてから、扉を閉めた。

その夜の夕食のとき、雪子は一度だけ、言いかけた。

健司は珍しく七時に帰ってきて、華はパン屋のバイトでいなかった。二人きりの食卓で、健司は白身魚のフライを食べながらテレビの野球中継を見ていた。

「ねえ」

雪子の声に、健司は顔を半分だけこちらに向けた。

「ん?」

あの名刺のことだけど。そう続けるつもりだった。手帳はバッグの中で、バッグは椅子の背にかけてある。手を伸ばせば取り出せる。

健司の目は、もうテレビに戻りかけていた。九回の裏、ツーアウトだった。

「……明日、資源ゴミの日だから。ベランダの段ボール、出しといて」

「ああ、わかった」

健司はテレビに向き直り、声を上げた。逆転のホームランだったらしい。

雪子は食器を下げながら、自分の指先が冷たくなっているのを感じた。言えなかったのではない、と思った。言わなかったのだ。この人に向かって名刺を出したとき、何が起きるのかがわからない。怒鳴られるのか、笑われるのか、謝られるのか。どれが起きても、そのあとの家の形が想像できなかった。

ベランダの段ボールは、翌朝になっても出されていなかった。雪子は自分で紐をかけ、集積所まで運んだ。

金曜日の朝は、風が冷たかった。

自転車で川沿いの道を走りながら、雪子は、このことを話せる相手が誰かいるだろうかと考えた。

母の顔が浮かんだ。電車で一時間の実家に、父と二人で暮らしている。電話をすれば、母はきっと聞いてくれる。けれど聞いたあとで、母は黙っていられない人だった。健司さんに私から言うわ、と言い出すかもしれない。父は何も言わずに、何日も眠れなくなるだろう。

印刷会社にいたころの同僚とは、年賀状のやり取りが残っているだけだった。華の小学校のころのママ友たちとは、子どもが別々の中学に進んでから自然に会わなくなった。佐々木さんは優しいが、佐々木さんに話せば、その日のうちに青果とレジのパートにまで広がる気がした。

いない、と思った。二十年かけて、雪子は誰にも家の中のことを話さない暮らしを作りあげていた。

店の通用口に自転車を停め、鍵をかけた。指がかじかんでいた。

その日、雪子の休憩は一時からだった。

休憩室は、バックヤードの奥、精肉の作業場と事務所に挟まれた細長い部屋だ。窓はない。長机が二つとパイプ椅子が十脚ほど、壁際に電子レンジと給湯ポット、古い小型のテレビ。壁にはシフト表と、「手洗い三十秒」と書かれた衛生管理の貼り紙と、去年の暑気払いの集合写真が画鋲で留めてある。どこにいても、揚げ油と消毒用アルコールの匂いがかすかにした。

その日は、佐々木さんたちのグループが先に休憩に入っていて、長机の一つを囲んで賑やかに話していた。佐々木さんの孫の運動会の話、青果のパートの女性の家の犬の話、レジの若い子の彼氏の話。笑い声が弾むたびに、テレビのワイドショーの音がかき消される。

雪子は、もう一つの長机の端に座った。弁当の包みを開ける。ゆうべの残りの白身魚のフライと、卵焼きと、ほうれん草のおひたし。毎朝、華の分と一緒に詰めてくるものだ。

膝の上には、通勤用のバッグを載せていた。いつもならロッカーに入れておくのに、この一週間、雪子はバッグを手元から離せなくなっていた。中には手帳があり、手帳の中には名刺がある。ロッカーに鍵はかかる。誰かが開けるはずもない。わかっていても、手の届かない場所に置いておくことができなかった。

「雪子さん、あたしたち先に戻るわね」

佐々木さんが立ち上がりながら声をかけてきた。

「はい。いってらっしゃい」

佐々木さんは出がけに雪子の弁当をのぞき込み、「あら、おいしそう」と言って、それから雪子の顔を一瞬だけ見た。昨日のことは何も言わなかった。ほかの二人と一緒に、賑やかなまま出ていった。

休憩室には、雪子と、テレビの音だけが残った。

卵焼きを一切れ口に入れる。甘さが、よくわからなかった。この一週間、何を食べても同じような味がした。

ドアが開いた。

「お疲れさまです」

田中だった。白い作業着の上着を脱いで腕にかけ、もう片方の手に、湯気の立つ紙コップを二つ持っている。給湯ポットの前で淹れてきたらしい。ドリップバッグのコーヒーを、田中はいつも自分のロッカーに常備していた。ほかの社員が自販機の缶コーヒーを買うなかで、それは珍しいことだった。

「雪子さん、隣いいかな」

「どうぞ」

田中は椅子を一つ空けて雪子の並びに座り、紙コップの一つを雪子の弁当箱の横に置いた。

「よかったら。一個多く淹れちゃったから」

「え、いいんですか」

「いいよ。どうせ二杯は飲めないし」

一つ多く淹れた、というのが本当かどうか、雪子にはわからなかった。紙コップを両手で包むと、熱が手のひらに沁みた。

田中はコンビニのおにぎりの包装を剥がしながら、仕事の話を始めた。

「来週の月曜から、おでん始めるでしょう。鍋の場所、去年と同じでいいかな。レジ側だと、どうしても湯気がお客さんにかかるって言われてさ」

「去年、ガラスケースが曇って、中が見えないって言われましたよね」

「そうそう。それで今年は、揚げ物の島の向こうに移そうかと思って」

「それだと、私たちが揚げ場から鍋を見られないです。補充が遅れます。大根が煮崩れても、誰も気づかないかもしれない」

「あ、そうか」

田中は胸ポケットからメモ帳を出し、何かを書きつけた。

「じゃあ、やっぱり去年の場所で、ケースの角度を変えるか。店長に相談してみる。それと、再来週の日曜の運動会のオードブル、予約が今十二件入ってるんだ。去年より多い。盛り付け、雪子さんにまとめてもらってもいいかな」

「はい、大丈夫です」

「助かる。雪子さんが盛ると、チラシの写真のとおりに仕上がるって、店長がいつも言ってるんだよ」

田中はおにぎりを一口齧り、テレビのほうに目をやった。それから、何でもないことのように言った。

「昨日の天ぷら、佐々木さんじゃないよね」

雪子は紙コップを持つ手を止めた。

「佐々木さん、半額のシール、いつもパックの右の上に斜めに貼るんだ。昨日のは、左下の角にまっすぐ貼ってあった。雪子さんの貼り方だよ」

雪子は、田中の顔を見た。自分がシールをどこにどう貼っているかなど、考えたこともなかった。十年同じ作業をしてきて、誰かにそれを言われたのは初めてだった。見られていたのだ、と思うと、胸の奥がざわついた。叱られるより、そのほうがずっと落ち着かなかった。

「……すみません」

「いや、謝ってほしいんじゃないんだ。あんなの、どうってことない。お客さん、得したって喜んでたし。佐々木さんにも、あとで缶コーヒーでもおごっとくよ」

田中は笑った。それから一拍置いて、声の調子を落とした。

「ただ、雪子さんがシール間違えるの、主任になってから、初めて見たから。元気ないね。何かあった?」

雪子は、なんでもないです、と言おうとした。口を開くと、違う言葉が出た。

「……ちょっと、夫と」

そこで言葉が詰まった。

家の中のことを、職場で話したことはなかった。佐々木さんたちが夫の愚痴を言い合っているときも、雪子は笑って聞いているだけだった。うちは別に、と言えば、それで済んだ。そもそも、男の人に家庭のことを話すなど、考えたこともない。

田中は、続きを促さなかった。おにぎりを机に置き、コーヒーを一口飲んで、テレビのほうに顔を向けたまま言った。

「言いたくなかったら、いいよ。コーヒー、冷めないうちにどうぞ」

雪子は紙コップに口をつけた。きちんと淹れたコーヒーの香りが、作業着に染みついた揚げ油の匂いを押しのけて、鼻の奥に届いた。誰かに飲み物を淹れてもらったのは、いつ以来だろう。家では、お茶もコーヒーも、淹れるのはいつも雪子だった。健司のぶんも、華のぶんも。

テレビに向いたままの田中の横顔が、雪子のほうを見ていないことが、なぜか話しやすくさせた。

「喧嘩したとか、そういうことじゃないんです」

雪子は紙コップの縁を見つめながら言った。

「喧嘩なら、まだいいのかもしれない。喧嘩するほど、話すことがないんです」

「うん」

「先月、美容院で髪を切ったんです。いつもより短く。美容師さんに、ずいぶん印象変わりますねって言われるくらい。でも、夫は気づきませんでした。一週間たっても、二週間たっても」

「うん」

「それくらいのことで、って思うんです。二十年も一緒にいれば、そんなものだろうって。私だって、夫が床屋に行ったのに気づかないこと、あるかもしれない」

雪子は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「朝ごはんのとき、夫はずっとスマホを見てるんです。晩ごはんのときはテレビ。私が何か言うと、ん、って返事はするんです。でも、顔はこっちを向かない。この前、気がついたんです。最後に夫に名前を呼ばれたのがいつだったか、思い出せないって。おい、とか、お母さん、とか。雪子って、呼ばれた覚えがないんです。もう何年も」

田中は黙っていた。テレビから流れていたワイドショーが、天気予報に変わった。来週は朝晩ぐっと冷え込むでしょう、とアナウンサーが言った。

「こんなこと言うの、恥ずかしいんですけど」

雪子の声が低くなった。

「女として、見られてないんだなって。家政婦とか、同居人とか、そういうふうに思われてるんだろうなって。それが、寂しいんです。寂しいって思う自分が、いい歳して何を言ってるんだろうって、また恥ずかしくなるんですけど」

言い終えてから、雪子は膝の上のバッグに手を置いていた。布の上から、手帳の硬さが指に触れた。

本当に言いたいことは、そこにあった。夫のスーツの内ポケットから、何が出てきたのか。その裏に、どんな字で何が書いてあったのか。この三か月の「残業」が十五回あったこと。水曜日の升目に書き足した「23:40」という数字。

けれど、それを口にしたら、もう戻れない気がした。名刺のことを人に話した瞬間、それは雪子の胸の中だけの疑いではなくなる。誰かが知っている事実になる。そして、知られたら、自分は夫に名刺を出してもいない妻だということも、一緒に知られてしまう。

雪子はバッグから手を離し、コーヒーを一口飲んだ。ぬるくなりかけて、苦かった。

「そうか」

田中は、それだけ言った。

ひどい旦那さんだね、とは言わなかった。そんな男とは別れたほうがいい、とも言わなかった。雪子は、そう言われるのを半ば覚悟していた。佐々木さんたちなら、きっとそう言う。言われたら、たぶん自分は夫をかばっただろう。そういう人じゃないんです、仕事が忙しいだけなんです、と。

「旦那さんにも、旦那さんの事情はあるのかもしれないね」

田中は、手の中の紙コップを回しながら言った。

「会社で何かあるのかもしれないし、本人もうまく言えない何かを抱えてるのかもしれない。それは、僕にはわからない」

「……はい」

雪子は、土曜日の夕方の健司の声を思い出していた。二課の若いのが、と言ったときの、苦いものの混じった声。あの人にも、あの人の悔しさがある。それは雪子にもわかっていた。わかっているからこそ、腹が立つのかもしれなかった。

「でも、それで雪子さんが寂しいのが、帳消しになるわけじゃないよね。旦那さんに事情があっても、雪子さんが寂しいのは、本当のことだから」

雪子は顔を上げた。

田中は、まだテレビのほうを見ていた。けれど、その目はテレビの画面を見ていなかった。

「恥ずかしいことじゃないと思うよ。見てもらいたいって思うのは」

雪子は、何も言えなくなった。喉の奥が熱くなり、慌てて卵焼きを口に入れた。噛んでいるうちに、さっきまでわからなかった甘さが、ようやく舌に戻ってきた。華が小さいころから、うちの卵焼きは砂糖を多めに入れている。健司が甘いのを好きだったからだ。そのことを、健司はもう覚えていないだろう。

しばらく、二人とも黙っていた。廊下の向こうで、誰かが台車を押していく音がした。精肉の作業場から、骨を断つ機械の短い唸りが聞こえた。

「田中さんは」

言ってから、雪子は自分の口が勝手に動いたことに驚いた。

「田中さんのお宅は、どうなんですか」

聞いてはいけないことを聞いたような気がした。田中は、家庭の話をしない人だった。職場の誰もがそう思っている。佐々木さんがよく、「主任はガードが固いのよ。奥さんの写真の一枚も見せてくれないんだから」と冗談めかして言う。娘さんが一人いるらしい、中学生らしい、ということくらいしか、雪子も知らなかった。

田中の手が止まった。

紙コップを机に置き、右手の指で、左手の薬指の付け根をなぞった。

惣菜の作業場では、指輪をつけることは許されていない。だから職場の田中の指には、いつも何もない。その何もない場所を、田中は何かを確かめるようになぞっていた。本人は、自分がそうしていることに気づいていないようだった。

「うちは……」

田中はそう言いかけて、口を閉じた。テレビの天気予報が終わり、洗剤のコマーシャルが流れはじめた。明るい音楽と、子どもの笑い声。

やがて田中は、紙コップを持ち直して、短く息を吐いた。

「そういうの、辛いよね。男も女も、四十を過ぎると色々あるみたいだ」

田中はそのあと、何も付け足さなかった。紙コップの縁を指で押し、熱くもないコーヒーを一口飲んだ。

雪子は田中の左手を見た。薬指の付け根をなぞっていた指が、いつのまにか止まっていた。

「すみません。立ち入ったことを聞きました」

「いいんだよ」と田中は言った。ただ、その先は話さなかった。

田中は、壁の時計を一度見上げた。休憩の終わりまで、まだ十五分あった。彼はコーヒーを飲み干し、空になった紙コップを両手で包んだまま、言葉を探すように、机の木目に目を落とした。


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