冬に訪ねる場所
冬休みが近づくにつれ、王立学園の空気も少しずつ浮き立ち始めていた。
聖女にまつわる噂は、今も時折耳にする。けれど、王宮や神殿から正式な発表がないためか、日を追うごとに話題にする生徒は減っていた。
フィオナが学園に姿を見せなくなったことを不思議に思う者はいても、それ以上のことを知る者はいない。
普段と変わらない日常。
けれど、リリアーナには、その日常が少しずつ遠ざかっていくように感じられていた。
「お嬢様、先ほどから何を考えていらっしゃるのですか?」
帰宅後、机に向かっていたリリアーナに、アデルが声をかけた。
「何でもないわ」
「そのお言葉を、今日は何度お聞きしたことか」
「……そんなに?」
「ええ。私が気づいていないとでも思われましたか?」
アデルは呆れたように息をついた。
リリアーナは、思わず苦笑する。
幼い頃からそばにいるアデルには、取り繕ったところで簡単に見抜かれてしまう。
「少し、考え事をしていただけよ」
「フィオナ様のことでしょうか」
不意に名前を出され、リリアーナは顔を上げた。
「どうしてそう思うの?」
「最近、お嬢様がぼんやりなさるときは、決まってそのお話の後ですから」
アデルは淡々と答えた。
「それに、フィオナ様が学園をお休みされていることも、気にかけていらっしゃるのでしょう?」
「……ええ。元気にしているといいのだけれど」
「お手紙をお送りになってはいかがですか?」
「そうね。……そうしようかしら」
そう答えたものの、リリアーナはすぐにはペンを取らなかった。
フィオナに何を書けばいいのだろう。
元気にしているかと尋ねるだけなら簡単だ。けれど、今の彼女がどんな状況に置かれ、何を思っているのか分からない以上、何気ない言葉さえ選ぶのが難しかった。
聖女になったからといって、特別扱いをしたくない。
以前と同じように接したい。
そう思っているのに、何をするにも考え込んでしまう。
「……難しいわね」
「何がでしょう?」
「ううん、何でもないわ」
「またですか」
アデルの声に、リリアーナは小さく笑った。
そのとき、足元から柔らかな鳴き声が聞こえた。
「ニャア」
「あら、ネロ」
椅子の脚に身体を擦りつけていた黒猫が、リリアーナを見上げている。
左前足だけが白い、小さな頃から変わらない姿。
リリアーナは椅子から降り、ネロを抱き上げた。
「あなたは悩みなんてなさそうね」
「ニャ」
「そうよね。ご飯を食べて、眠って、気が向いたら甘えて。羨ましいわ」
「お嬢様、ネロとご自分を比べるのはおやめください」
アデルが即座に口を挟む。
「分かっているわよ」
そう言いながら、リリアーナはネロの背中を撫でた。
ネロは何も答えず、腕の中で気持ちよさそうに目を細めている。
この子には、何度も助けられてきた。
言葉が通じなくても、胸の内を見透かすように寄り添ってくれる。
「ねえ、ネロ。わたし、ちゃんとできるかしら」
小さく呟く。
フィオナを守ることも。
セドリックの力になれることも。
そして、影守候補として、自分に何が求められているのかを知ることも。
まだ何一つ、確かな答えを持っていなかった。
ネロは、リリアーナの指先に額を押しつけた。
「……ありがとう」
その温もりに、少しだけ気持ちが和らいだ。
*
同じ頃、王宮ではセドリックが執務室の机に向かっていた。
目の前には書類の束が積まれている。
新年の祝賀会に向けた準備は、すでに始まっていた。聖女の任命式も同日に行われることが決まり、王宮内は普段以上に慌ただしい。
「殿下、こちらの書類にも目を通していただけますか」
「ああ、分かった」
アルベルトから差し出された書類を受け取り、セドリックは目を通す。
しばらくして署名を終えると、机の端に置いた。
「これで全てか?」
「はい。ありがとうございます」
アルベルトは書類を受け取ったが、その場を離れようとはしなかった。
「……何だ?」
「いえ。少々、気になることがございまして」
「お前がそう言うときは、大抵ろくな話ではないな」
「心外ですね。私は殿下を案じているだけです」
アルベルトは涼しい顔で答えた。
セドリックは嫌な予感を覚えながらも、続きを促す。
「それで?」
「聖女様とのご婚姻についてです」
セドリックの手が止まった。
「……その話か」
「ええ。国王陛下のお考えは、すでに承知しております」
アルベルトは、セドリックの側近として王宮の事情を把握していた。
聖女が現れた際には、王太子がその聖女を娶る。
古くから王家に伝わる慣例であり、国王もまた、それを当然の務めとしてセドリックに告げたのだ。
「殿下は、どうなさるおつもりですか?」
「どうするも何も、まだ何も決めていない」
「では、リリアーナ様は?」
あまりにもあっさりと名前を出され、セドリックは眉を寄せた。
「……リアがどうした」
「殿下がどなたを大切に思っていらっしゃるのか、私は存じておりますので」
「アルベルト」
「はい」
「余計なことを言うな」
「これは失礼いたしました」
アルベルトは、少しも悪びれた様子がなかった。
「ですが、殿下。聖女様とのご婚姻が決まれば、リリアーナ様との関係も、今までどおりというわけにはいかないでしょう」
「……分かっている」
その言葉は、思った以上に重く響いた。
セドリック自身、理解していないわけではない。
王太子としての責務を果たすなら、国王の命に従うべきなのだろう。
だが、それで本当にいいのか。
フィオナの意思も、自分の気持ちも置き去りにしたまま、周囲が決めた未来を受け入れることが正しいのか。
そして、リアは。
自分がフィオナと結婚することになれば、彼女はどんな顔をするだろう。
いつもどおり笑ってくれるのだろうか。
それとも、今までの関係さえ失われてしまうのだろうか。
「殿下は、リリアーナ様に何もお伝えになっていないのですか?」
「……言えるわけがないだろう」
「そうですか」
アルベルトは、それ以上問い詰めなかった。
ただ、いつもの穏やかな表情でセドリックを見つめていた。
「殿下が何を選ばれるにせよ、私はお支えいたします。ですが、ご自身のお気持ちまで、最初からなかったことになさらないでください」
セドリックは答えなかった。
机の上に置かれた書類に目を落とす。そこには、新年の祝賀会に関する予定が記されていた。
年が明ければ、フィオナは正式に聖女として人々の前に立つ。
その日を境に、何かが決定的に変わってしまうのかもしれない。
それでも、まだ時間は残されている。
セドリックは、そう自分に言い聞かせるように、再び書類を手に取った。
*
やがて、冬休みが訪れた。
リリアーナは帰省の支度を整え、アデルとともにアシュフォード領へ向かうことになった。
王都を離れる前に、フィオナへ手紙を書いた。
難しい言葉は使わなかった。
元気にしているかということ。新年の祝賀会で会えるのを楽しみにしているということ。そして、どんな立場になっても、自分にとって大切な友人であること。
セドリックにも、いつもどおりの別れの挨拶をした。
彼はいつものように穏やかに笑っていたが、その表情には、どこか言葉にできないものが残っているように見えた。
リリアーナもまた、何も尋ねなかった。
今はまだ、お互いに話せないことがある。
けれど、いつかは。
そう思いながら、リリアーナは王都を後にした。
*
アシュフォード領に到着した翌日、リリアーナは再び領地の外れへ向かった。
夏に訪れた、あの古い家。
あの老人なら、何かを知っているかもしれない。
アシュフォード家に残された記録にもない、影守の古い歴史を。
そして、聖女が現れた後に何が起こるのかを。
馬車を降り、見覚えのある道を歩いていく。
冬の空気は冷たく、木々の枝には葉がほとんど残っていなかった。
やがて、木立の向こうに小さな家が見えてきた。
リリアーナは一度足を止め、静かに息を整えた。
夏に別れたとき、老人は言った。
『聖女が現れたら、もう一度ここへ来なさい』
その言葉の意味を、今度こそ確かめたい。
リリアーナは扉の前に立ち、そっとノックした。
しばらくして、内側から足音が近づいてくる。
扉がゆっくりと開いた。
「……来たか」
老人は、まるで彼女が訪ねてくることを知っていたかのように、落ち着いた声で告げた。
リリアーナは、その顔をまっすぐに見つめた。
「はい。お聞きしたいことがあって参りました」
老人は彼女の言葉を聞くと、わずかに目を細めた。
「そうか。ならば、話をしよう」
冬の静けさの中、閉ざされていた過去へと続く扉が、今、再び開こうとしていた。




