閉ざされた記憶
家の扉を開けた老人は、以前と変わらぬ穏やかな表情でリリアーナを迎えた。
案内された部屋には、使い込まれた家具が置かれ、壁際には古い書物がいくつも並んでいた。窓から差し込む冬の光が、静かな室内を淡く照らしている。
「お久しぶりです。以前、ここを訪れたときに言われたことが、ずっと気になっていました」
「聖女が現れたら、もう一度ここへ来なさい、と伝えたからな。フィオナという子が聖女として認められたと聞いておる」
「ええ。新年の祝賀会で任命式を行うそうです」
その言葉に、老人の目がわずかに細められた。
「ならば、もう話してもよい頃だろう」
「影守について、ですか?」
「ああ。まずは、お嬢様がどこまで知っているか聞かせてほしい」
老人に促され、リリアーナは向かいの椅子に腰を下ろした。
「お嬢様は、影守とは何のために存在するものだと教えられたかな」
「聖女を守り、必要とあらば止めるため。そう聞いています」
「間違いではない。だが、それだけではない」
老人は一度言葉を切り、リリアーナの表情を確かめるように見つめた。
「本来の影守は、聖女の力を管理するために生まれたのではない。聖女の隣に立ち、その力を見守り、力がもたらすものを共に受け止めるために存在していた」
「共に、受け止める……?」
「お嬢様は聖女という存在については、どこまで知っているかな」
「人々を救い、奇跡を起こす力を持つ存在だと教えられています。それから、聖女は自らの力だけで奇跡を起こすのではなく、世界の力を借りているとも」
「ほう。そこまで知っているのか」
老人はわずかに目を細めた。
「では、その力を使いすぎた場合に何が起こるのか、聞いているかい」
「確か……世界のどこかで異変が起こる、と聞いたことがあります」
「その通り」
老人はゆっくりとうなずいた。
「聖女は世界に満ちる力を借りて奇跡を起こす。しかし、その力は無限ではない。必要以上に力を引き出せば、世界の均衡が崩れ、遠く離れた土地でさえ異変が生じることがある」
「遠く離れた土地で……?」
「ああ。聖女は世界の力を借りて奇跡を起こす。だが、その力を使うのは聖女自身だ。どれほど強い力であっても、使うたびに何も失わずにいられるわけではない」
老人の声は静かだった。
「力を使いすぎれば、世界の均衡が崩れる。大地が枯れ、季節の巡りが乱れ、ときには人々の暮らしを脅かす災いとなって現れる。そして、その影響を受けるのは世界だけではない。聖女自身もまた、力に呑まれてしまうことがある」
リリアーナは、フィオナの姿を思い浮かべた。
「だから、影守が必要だったのだ」
老人は続けた。
「聖女が力に呑まれぬように。己の役目に押し潰されぬように。そして、誰にも理解されない孤独の中に取り残されぬように。
隣に立ち、時には手を取り、時には過ちを指摘する。それが本来の影守だった」
「今とは、ずいぶん違うのですね」
「長い年月の中で、役目は少しずつ歪められていった。聖女を支えることよりも、その力を管理することが重んじられるようになったのだ。やがて、隣に立つ者は監視する者へと変わり、必要ならば止めるという役目だけが残った」
老人の目が、古い書物の並ぶ壁際へと向けられる。
「守るという言葉は、いつの間にか別の意味を持つようになってしまった」
リリアーナは膝の上で指を重ねた。
影守は聖女を縛る存在ではない。
本当は、聖女が一人にならないためにいたのだ。
その言葉は、胸の奥に静かに染み込んでいった。
「私は……フィオナを守りたいのです」
口にすると、思っていたよりも迷いのない声が出た。
「聖女だからではありません。彼女が特別な力を持っているからでもない。ただ、友人だからです。あの子がこれから何を背負うことになっても、一人にはしたくありません」
老人は何も言わず、リリアーナの言葉を聞いていた。
「影守になることが、彼女の隣に立つための道なら、私はその役目を知りたい。今まで伝えられてきたことだけではなく、本当の意味を」
しばらくして、老人は小さく息を吐いた。
「影守は聖女を守るために存在します。しかし、聖女だけを見ていてはならない」
「……どういう意味でしょうか」
問いかけても、老人はすぐには答えなかった。
ただ、古い書物に視線を向けたまま、静かに告げる。
「それを知るには、もう少し昔の話をせねばならん」
リリアーナは姿勢を正した。
まだ知らなければならないことがある。
影守の役目も、聖女の力も、そして自分がこれから立とうとしている場所についても。
老人の言葉の続きを、彼女は待った。




