遠ざかる日常
フィオナの力が目覚めてから、数日が過ぎた。
王宮と神殿が動き始めた一方で、王立学園は驚くほど普段と変わらない日々を送っていた。
授業はいつもどおりに進み、生徒たちは休み時間になれば友人たちと談笑する。廊下に響く笑い声も、教師たちの注意する声も、以前と何ひとつ変わらない。
ただ、時折耳に入る話題だけは違っていた。
「ねえ、青葉舎のフィオナさんのこと、聞いた?」
「校外学習で不思議な光を出したんでしょう?」
「もしかして、聖女様なのかしら」
そんな噂が、学園のあちこちで囁かれている。
けれど、それ以上のことを知る者はいなかった。
王宮も神殿も、フィオナについて正式な発表をしていない。彼女が聖女として認定されたことも、任命式が予定されていることも、学園の生徒たちには知らされていなかった。
フィオナ自身も、今は王宮で過ごしていると聞いている。
彼女がどんな気持ちでいるのか。慣れない場所で、不安を抱えてはいないだろうか。
リリアーナは、授業中もふとした瞬間に友人のことを考えてしまうのだった。
そして、もう一人。
気がかりな人物がいた。
セドリックである。
数日前、国王に呼び出された彼は、あの日からどこか様子が違っていた。
もともと、セドリックは人前で感情を大きく表に出す人ではない。王太子としての立場もあり、いつだって落ち着いていて、簡単には本心を見せなかった。
それでも、リリアーナには分かる。
何かを抱えている。
けれど、それを尋ねることができずにいた。
自分もまた、影守候補としての話を彼にできずにいるからだ。
フィオナの力が目覚めたことをきっかけに、リリアーナの周囲でも、これまで知らなかったことが少しずつ明らかになり始めていた。
だが、影守については、まだ何も分かっていないに等しい。
両親から聞いたことも、老人から聞いた言葉も、セドリックに話すには曖昧なことばかりだった。
それに、彼もまた何かを隠しているのなら…自分だけが打ち明けることに、ためらいがなかったわけではない。
そんな思いを抱えたまま、リリアーナは数日を過ごしていた。
*
放課後、リリアーナは白銀舎の談話室でセドリックと向かい合っていた。
窓の外には、秋の空が広がっている。
以前なら、ここで二人きりになれば、自然と会話が弾んだものだった。
けれど今日は、どうにも言葉が続かない。
「……フィオナのことだけれど」
先に口を開いたのは、セドリックだった。
「王宮で保護されているそうだ。神殿とも連絡を取りながら、任命式までの対応を進めることになった」
「そうなのね。フィオナは、元気にしているのかしら」
「詳しいことまでは聞いていない。ただ、今のところ大きな問題はないそうだ」
その答えに、リリアーナはわずかに安堵した。
「それから、聖女の任命式は新年の祝賀会に合わせて行われることになった」
リリアーナは顔を上げた。
「新年の祝賀会で?」
「ああ。王宮としても、正式に聖女を披露する場を設ける必要があるからな」
「……そう」
リリアーナは、静かに頷いた。
その話なら、すでに神殿の影から聞いていた。
けれど、セドリックの口から改めて聞くと、フィオナの置かれた状況が、いっそう現実味を帯びて感じられた。
新年の祝賀会。
神殿に王侯貴族が集まる場で、フィオナは聖女として人々の前に立つことになる。
「フィオナは、どう思っているのかしら」
ぽつりとこぼした言葉に、セドリックは少しだけ目を伏せた。
「……分からない」
短い返事だった。
彼ーーセドリックにはリリアーナに言えないことがある。
聖女が現れたとき、王太子はその聖女と結婚する。
王家に伝わる慣例を、国王から告げられたこと。
フィオナとの婚姻を、自分の役目として命じられたこと。
そのどちらも、リリアーナには話せなかった。
彼女の前では、いつもどおりに振る舞いたい。
そう思うほど、言葉が喉につかえてしまう。
「リアは、どう思う?」
不意に尋ねられ、リリアーナは戸惑った。
「わたし?」
「フィオナが聖女として認められたことだ」
リリアーナは、すぐには答えられなかった。
フィオナが聖女になったことを、喜べばいいのだろうか。
彼女の力が誰かを救ったことは、確かに喜ばしい。けれど、その力によってフィオナの人生が大きく変わろうとしていることを思うと、素直に喜ぶことはできなかった。
「……フィオナが、フィオナのままでいられたらいいと思うわ」
ようやく口にしたのは、そんな言葉だった。
「聖女になっても、あの子は変わらないでしょう? だから、周りの人たちにも、あの子自身を見てほしいの」
セドリックは、しばらくリリアーナを見つめていた。
「そうだな。僕も、そう思う」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
二人の間に、沈黙が落ちた。
言いたいことはある。
聞きたいこともある。
それなのに、どちらも口にできない。
フィオナが聖女になったことをきっかけに、三人の関係が変わってしまうのではないか。
そんな不安を抱えているのは、リリアーナだけではないはずだった。
「……リア」
「なに?」
「いや……何でもない」
セドリックは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
リリアーナもまた、影守候補として自分が置かれている状況を話そうとして、結局、口を閉ざした。
彼に話せば、少しは気持ちが軽くなるのかもしれない。
けれど、今はまだ、何をどこまで伝えていいのか分からなかった。
二人とも、相手を大切に思っている。だからこそ、余計な心配をかけたくない。
ーー言えないことが増えていく。
互いに言えないことを抱えたまま、二人はいつもどおりに別れた。
*
帰り道、リリアーナは夕暮れの空を見上げた。
新年の祝賀会で、フィオナは聖女として正式に人々の前に立つ。
その後に影守の任命式が内密に行われる。
その日までに、何かが変わるのだろうか。
セドリックが抱えているものも、自分が知らない影守の秘密も、今はまだ見えない。
だからこそ、変わり始めた日常の中で、どうすれば今までの関係を守れるのかを考えなければならない。
リリアーナは、そっと胸元に手を添えた。
冬休みには、領地の老人を訪ねるつもりだった。
影守について、もっと知らなければならない。
それが、フィオナのためになるのか。それとも、自分自身のためなのか。
けれど、立ち止まっているわけにはいかない。
遠ざかっていく日常を、ただ見送るだけにはしたくなかった。




