動き始めた歯車
その日の午後
王宮に、一通の報告書が届けられた。
王立学園の校外授業中に起きた事故について。
生徒が斜面から落下した際、フィオナが淡い光を発生させ、その落下の勢いを弱めたこと。
そして、その力によって生徒が大きな怪我を免れたこと。
報告書に目を通した国王は、しばらく何も言わなかった。
「……聖女の泉が光ったという報告の直後に、これか」
「はい」
側に控えていた者が答える。
「発現した力については、複数の生徒と教師が確認しております」
「本人は?」
「突然のことで、自分が何をしたのか理解していないようです。ただ、友人を助けたいという強い思いがあったと」
国王は報告書を閉じた。
「聖女の力は、本人の意思だけで発現するとは限らない。危機に際して、無意識に力を引き出すこともある」
「では……」
「まだ正式な認定はできん」
そう言いながらも、国王の表情は険しい。
聖女の泉が光った。そして今度は、その泉に選ばれた少女自身が力を発現させた。
偶然と片付けるには、重なりすぎている。
「神殿へも伝えよ」
「すでに報告は届いております」
「そうか」
国王は少し考え、それから静かに続けた。
「……それとは別に、アシュフォード公爵家にも伝えるように」
「承知いたしました」
側近が頭を下げる。
「神殿にいる者を、アシュフォード家に向かわせろ」
「例の者を?」
「そうだ」
国王は短く答えた。
その言葉に、側近はそれ以上何も尋ねなかった。
*
同じ頃。
神殿でも、フィオナの力の発現について報告が行われていた。
「……やはり、そういうことなのか」
報告を受けた神官は、深く息を吐いた。
「泉が光っただけなら、まだ判断はできなかった。しかし本人から力が発現したとなれば……」
「聖女である可能性は?」
「極めて高い」
神官は静かに答えた。
けれど、すぐに喜ぶような様子はなかった。
聖女が現れることは、神殿にとって大きな意味を持つ。
同時に、それは一人の少女の人生が大きく変わることでもある。
「王宮からの指示は?」
「すでに届いています」
「……そうか」
神官は一枚の書状を取り出した。
そこには短い指示だけが記されていた。
ーーアシュフォード公爵家へ報告せよ。
「分かった」
神官は書状をしまうと、一人の男を呼んだ。
「頼めるか」
「はい」
呼ばれた男は、神官服の裾を整えた。
表向きは神殿に仕える一人の神官。けれど、その男には別の役目がある。
王宮から密かに情報を受け取り、必要な報告を届ける者。
その存在を知る者は、神殿の中でも限られていた。
「アシュフォード公爵家へ向かえ」
「承知しました」
「今回の件を伝えるだけでいい。余計なことは話すな」
「はい」
男は一礼し、神殿を後にした。
*
数時間後。
アシュフォード公爵家の応接間。
リリアーナは両親とともに、突然の来客を迎えていた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、一人の神官だった。
けれど、その姿を見た瞬間、リリアーナはわずかに眉を寄せた。
普通の神官とは、どこか雰囲気が違う。神殿の人間でありながら、神殿だけに仕えているようには見えなかった。
「王宮より参りました」
男は一礼した。
「本日、王立学園で起きた件について、ご報告するよう命を受けております」
父が静かに頷く。
「聞かせてください」
「青葉舎第3学年の校外授業中、生徒が斜面から落下する事故がありました」
リリアーナの胸がざわついた。
青葉舎。
その言葉を聞いただけで、一人の少女の顔が浮かぶ。
「……フィオナ?」
思わず口にすると、神官はリリアーナへ視線を向けた。
「はい」
やはり。
リリアーナは息を呑んだ。
「フィオナ嬢は、落下した生徒を助けようとした際、淡い光を発生させました」
「……光?」
母が小さく呟く。
「その力によって落下の勢いが弱まり、生徒は大きな怪我を負わずに済んだとのことです」
父が尋ねる。
「フィオナさん自身は無事なのか?」
「はい。身体に異常はありません」
リリアーナは胸を撫で下ろした。
まずは、それだけでよかった。
けれどーー。
「フィオナさん本人に、力を使った自覚は?」
「力を使ったという自覚はないようです。ただ、友人を助けたいという一心だったと」
「王宮では、この件をどうお考えなのですか?」
神官は一瞬だけ間を置いた。
「正式な認定には、まだ時間が必要です。しかし……」
静かに言葉を続ける。
「聖女の泉が光ったこと。そして今回、フィオナ嬢自身から力が発現したこと。その二つを合わせれば、聖女である可能性は極めて高いと考えられています」
部屋が静まり返った。
リリアーナは膝の上で手を握る。
聖女。
その言葉が、とうとう現実のものとして目の前に現れた。
フィオナは何も知らない。
きっと今も、自分の身に何が起きたのか分からず、不安になっているだろう。
それなのに。
世界はもう、彼女を「フィオナ」だけでは見なくなっていく。
「……これから、フィオナはどうなるのでしょう」
リリアーナの声は、自分でも分かるほど小さかった。
神官は答える。
「それは、まだ決まっておりません」
「……そう」
少しだけ、息が楽になる。
まだ決まっていない。
ならば、今はまだフィオナはフィオナだ。
けれど同時に、別の思いも胸の中に生まれていた。
ーーもう一度、あの老人に会わなければ。
なぜ、あの人は知っていたのだろう。
なぜ、聖女が現れたら来いと言ったのだろう。
まるで今日という日が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
「リリアーナ」
父の声で、我に返る。
「……はい」
私は顔を上げた。
今すぐ領地へ戻るわけにはいかない。
冬休みになったら、もう一度あの老人を訪ねよう。
あの人なら、何かを知っている。
そんな確信だけが、胸の奥に残っていた。




