黒猫
何か黒いものが私の目の前を横切った。
「あれ?」
私は思わず足を止めた。
もう一度目を凝らすと、黒い猫だった。
人混みの端を縫うように歩いている。
けれど、どこか様子がおかしい。
前足を地面につけず、三本の足だけで歩いている。
「ケガをしているんだわ」
私が呟いた瞬間、猫がこちらを振り向いた。
金色の瞳と目が合った。
左前足だけが白く、その毛には赤いものが滲んでいる。
「待って」
私は思わず一歩踏み出した。
猫は耳を伏せた。
「怖くないわ」
もう一歩。
猫の身体が低くなる。
「大丈夫だよ。ケガを見せて」
私が手を伸ばした瞬間――
猫は身を翻した。
「……あっ!」
猫は人の足元をすり抜け、細い路地へと駆け込んでいく。
「待って!」
私はその後を追った。
「お嬢様!」
後ろからアデルの声が聞こえたけれど、今はそれどころではない。
猫は速かった。
入り組んだ街並みをどんどん進む。
けれど、ケガをしているせいか、ときどき前足を庇うように立ち止まる。
私は距離を詰めようとする。
「もう少し……」
あと少し。
そう思ったところで、猫が振り返った。
「……!」
鋭い目。
小さな身体を精一杯大きく見せるように背中を丸めている。
「そんなに怒らなくてもいいでしょう?」
思わずそう言うと、猫は低く唸った。
「私はあなたを助けたいだけなのに」
もちろん、猫に言葉が通じるはずもない。
猫は再び逃げようとした。
「待って!」
そのときだった。
「無理に追いかけると、もっと逃げるぞ」
背後から声がした。
私はぴたりと足を止めた。
振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
年は私とそう変わらないように見える。
深く被った帽子の隙間から、さらりと金色の髪が覗いていた。
簡素な服装をしているけれど、どこか育ちの良さを感じさせる少年だった。
私は少し警戒しながら尋ねた。
「……あなた、誰?」
少年は私の質問には答えず、逃げようとしている猫へ目を向けた。
「その猫、ケガしてるんだろ?」
「そうよ。だから手当てしたいの。」
「だったら、追いかけない方がいい」
「でも、このままじゃ――」
「分かってる」
少年が猫を見ながら言った。
「だから、待とう」
「待つ?」
「うん」
少年は路地の壁際にしゃがみ込んだ。
猫をじっと見つめる。
「猫は追いかけられると逃げる。でも、追いかけてこないと分かれば、そのうち出てくる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
思わず聞き返すと、少年は少し困ったように笑った。
「猫のことなら、少しだけ詳しいんだ」
私は少年と黒猫を交互に見た。




