今はまだ
その日の夜。
リリアーナは自室のベッドに腰掛け、膝の上に乗せたネロの背中をゆっくり撫でていた。
「ねえ、ネロ」
黒い毛並みに顔を近づける。
「私ね、今日……すごいことを聞いたの」
ネロは小さく尻尾を揺らした。
「フィオナが、聖女かもしれないんだって」
言葉にすると、夕食後に両親から聞かされた話が、改めて現実味を帯びてくる。
聖女。
そしてーー影守。
「私、影守になるかもしれないんだって」
ネロは何も答えない。
ただ、いつものようにリリアーナの膝の上で丸くなっている。
「……返事してよ」
リリアーナが苦笑すると、ネロが「にゃあ」と鳴いた。
「ふふ。そうだよね。ネロに聞いても分からないよね」
それでも、リリアーナは話し続けた。
「フィオナが聖女なら、私はその子を支える役目になるんだって」
両親から聞いた話を、一つずつ思い返す。
聖女の力。
世界の力。
そして、世界に生じる歪み。
影守がそれを見守り、必要ならば聖女の力を止めること。その「止める」という言葉の重さが、まだ胸に残っていた。
「……私にできるのかな」
ネロの頭を撫でる。
「フィオナを守ることなら、したい」
けれど、それは影守だからなのだろうか。
それともーー。
「フィオナが聖女だからじゃない」
もう一度、ネロを見る。
「フィオナだからだよ」
その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が少し軽くなった。
「私にとっては、ずっと友達だもの」
ネロは何も言わず、リリアーナの膝の上で目を細めた。
「……明日、フィオナに会えないのがちょっと寂しいな」
白銀舎と青葉舎。
同じ学園に通っていても、校舎が違う。
会おうと思えば会えるけれど、普段はそれぞれの友達と過ごしている。
「明日もいつも通りにしよう」
リリアーナはそう呟いて、ネロの背中をもう一度撫でた。
「……うん。それが一番だよね」
*
翌日。
昼休みになり、リリアーナが教室を出ると、廊下の先から見慣れた姿が近づいてきた。
「リリアーナ嬢」
「セドリック様?」
セドリックはリリアーナの前で足を止めた。
「少し時間ある?」
「はい。どうかしましたか?」
「話したいことがあるんだ。談話室を取ってある」
「談話室?」
「ここでは話しにくいから。行こう」
そう言って、セドリックは歩き出した。
談話室の部屋の扉を開けると、アルベルトがお茶の準備をしていた。
「セドリック様。どうかしましたか?急に呼び出して」
リリアーナが向かいの椅子に腰を下ろすと、セドリックは少し考えるように黙った。
「……昨日、アシュフォード公爵夫妻が王宮に呼ばれただろう?」
その言葉に、リリアーナの表情がわずかに固まる。
「父上から聞いた。何かあったのか?」
リリアーナは膝の上で手を握った。
昨日、両親から聞いたばかりの秘密。
影守。
アシュフォード家に代々伝わる役目。
それを、まだセドリックに話してはいけない。
「……ごめんなさい」
リリアーナはゆっくり口を開いた。
「今はまだ…言えないの」
セドリックが少し目を見開く。
「そうか、分かった。今は話せないんだな」
「はい」
「無理に聞くつもりはないよ。リアが話したくなったら、いつでも聞くから」
「ありがとうございます。私もまだ自分の中でも整理できてなくて……」
本当は話してしまいたい。
昔から一緒にいるセドリックなら、きっと分かってくれる。けれど、今はまだその時ではない。
「僕からも話しておきたいことがある」
セドリックは少しだけ視線を落とした。
「フィオナのことだ」
リリアーナは息を止めた。
「……フィオナ?」
セドリックが頷く。
「一昨日、父上から聞いた。神殿から報告があったらしい」
そして、静かに言葉を続けた。
「先日の合同授業で、聖女の泉が光ったそうだ」
「……やっぱり」
思わず声が漏れる。
「リア?」
「ううん……」
リリアーナは首を振った。
「そのことなら、私も知ってます」
「知ってる?」
「私も合同授業でその場にいました。それに、両親からも聞きました」
「やはりリアもその場にいたんだな」
セドリックは小さく呟いた。
「神殿では、フィオナ嬢を聖女候補として記録したそうです」
アルベルトが説明を続ける。
「ただ、泉が光ったことだけでは、正式な聖女とは断定できません」
「そっか……」
リリアーナは胸を撫で下ろした。
フィオナは何も知らない。
今までと同じように、学校で笑っているはずだ。
そのことを思うと、少しだけ複雑な気持ちになった。
「フィオナには、まだ何も伝えられていない」
セドリックが言った。
「父上から、こちらから本人に尋ねたり、神殿のことを探ったりしないように言われている」
「……私も」
リリアーナは頷いた。
「両親から、フィオナにはまだ何も言わないようにって」
二人の間に、再び沈黙が落ちた。
「ねえ、セドリック様」
「ん?」
「もしフィオナが本当に聖女だったら……どうなるの?」
セドリックはしばらく考えた。
「……まだ、分からない。何も決まっていないから」
その答えを聞いて、リリアーナは小さく頷いた。
まだ決まっていない。
聖女も、影守も。
それでも、自分たちの知らないところで、何かが動き始めている。
「リア」
セドリックが静かに呼んだ。
「昨日、何を聞いたのかは聞かない。でも、一つだけ確認してもいい?」
「……はい」
セドリックはリリアーナをまっすぐ見つめた。
「リアは、どうしたい?」
その問いに、リリアーナは少し考えた。
自分に役割がある。昨日までは、そんなことを考えたこともなかった。
フィオナにも役割があるかもしれない。
それなら、その役割を果たすのが当たり前なのだと思っていた。
けれど。
「……私は」
リリアーナはゆっくり顔を上げた。
「フィオナを守りたい」
胸の奥に浮かんだのは、泉の前で驚いていたフィオナの顔だった。
「フィオナが、私の友達だから」
セドリックは少しだけ優しく笑った。
「……そうか」
しばらくして、リリアーナが立ち上がった。
「じゃあ、私そろそろ戻ります」
「ああ。呼び出して悪かった」
リリアーナは小さく笑って、談話室を後にした。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、セドリックはしばらくその扉を見つめていた。
「……アルベルト」
「はい」
「アシュフォード家が抱えていることは……聖女のことよりも、重要性が高いのかな?」
アルベルトは少し考えてから答えた。
「殿下がそう感じるほど、リリアーナ様の様子が気になりましたか」
「うん」
セドリックは視線を落とす。
「リアは、僕に話せないと言った」
その声には、責めるような響きはなかった。
ただ、心配していることが伝わる。
「僕は、リアが何かを抱えているなら力になりたい。でも、話せないことを無理に聞くわけにもいかない」
「そうですね」
「それでも……」
セドリックは小さく息を吐いた。
「リアが一人で抱え込んでいるんじゃないかって、それだけが心配なんだ」
アルベルトは黙ってセドリックを見つめた。
「フィオナのこともそうだけど……リアまで何かに巻き込まれているのなら、僕は何も知らないままでいたくない」
セドリックの瞳には、不安が滲んでいた。
今はリリアーナが話せるようになるのを、待つしかなかった。




