聖女候補
神殿の奥深くにある聖女の泉。
その周囲には、まだ昼間の騒めきが残っていた。
「……もう一度、確認します」
神官の一人が、泉を見つめながら静かに口を開いた。
「本当に、泉が光ったのですね?」
「はい。この目ではっきりと見ました」
答えたのは、先ほど第3学年の生徒たちを案内していた神官だった。
彼は泉の前から動かず、何度も水面を見つめている。
先ほどまで、泉は確かに淡い光を帯びていた。
けれど今は、何事もなかったかのように静かな水面が広がっている。
「誰かが触れたわけでは?」
「いいえ。少女は泉を覗き込んだだけです」
「では、その少女が近づいた時にだけ?」
「……一度目は、そうでした」
神官は言葉を濁した。
二度目に少女へ泉を覗き込んでもらった時には、何も起こらなかったのだ。
だからこそ、簡単には結論を出せない。
「少女の名前は?」
「フィオナです」
「家名は?」
「ありません。青葉舎の生徒です」
その言葉に、別の神官が顔を上げた。
「平民ですか」
「はい」
しばしの沈黙が落ちる。
聖女という存在に、身分は関係ない。
それは神殿に仕える者なら誰もが知っていることだった。
「……古い記録を調べましょう」
「聖女の泉について、ですか?」
「そうです。過去に同じような現象がなかったか確認してください」
神官の一人が、神殿の奥にある書庫へと向かった。
しばらくして、分厚い古文書を抱えて戻ってくる。
長い年月の間に何度も読み返されたのだろう。
表紙には古い文字で、こう記されていた。
聖女の泉・記録。
慎重にページをめくっていく。
そこには、これまで泉で確認された様々な現象が記録されていた。
泉の水位や水質の変化、祭事の際に見られた光。
そしてーー聖女が現れる前に起きた、いくつかの異変。
「……ありました」
ページを指でなぞりながら、神官が呟く。
「過去にも、泉が淡く光った記録があります」
「その時は?」
「その後、聖女が選ばれています」
周囲の空気が変わった。
「では、今回も……」
「まだ分かりません」
すぐに別の神官が言葉を遮った。
「記録には、泉が光ったすべての事例で聖女が現れたとは書かれていません」
「……そうでしたか」
「それに今回は、二度目には光らなかった」
神官たちは再び泉を見る。
「少女が原因なのか」
「それとも、別の何かがきっかけだったのか」
「現時点では判断できません」
しばらく考えた後、最も年長の神官が口を開いた。
「ならば、断定する必要はありません」
「では……?」
「記録を残し、王宮へ報告しましょう」
誰も反対しなかった。
神殿だけで判断するには、あまりにも重要な出来事だった。
もし本当に聖女の兆しであるならば、国にとっても大きな意味を持つ。
逆に、ただの偶然だったとしても、後から見落としたことが分かれば問題になる。
「少女について、分かっていることをまとめてください」
「はい」
「名前、年齢、所属、家族についても可能な限り」
「承知しました」
神官たちは手分けして情報を集め始めた。
やがて、一枚の紙に少女の情報がまとめられていく。
名前 フィオナ
年齢 12歳
所属 王立学園・青葉舎
身分 平民
家族 父、母、本人
自宅 商業区 自宅兼店舗
(リーフ・パティスリー)
特筆すべき家柄についての記録はない、ごく普通の少女だ。少なくとも、今のところは。
「……これだけですか?」
「はい。特別な家系というわけでもないようです」
「そうですか」
神官は紙を見つめた。
そこに書かれている名前を、もう一度確認する。
フィオナ
今日、聖女の泉の前に立っていた少女。
本人は、自分が泉を光らせたなどとは思ってもいないだろう。
ただ、不思議そうに水面を見つめていただけだった。
そんな少女の姿を思い出しながら、神官は筆を取る。
報告書の最後に、慎重に言葉を綴った。
『聖女の泉において、淡い発光現象を確認』
『発光時、泉の前には王立学園青葉舎所属の少女、フィオナがいた』
『少女と泉の間に何らかの関係がある可能性は否定できない』
『ただし、再確認時には発光せず、現時点で聖女であると断定することはできない』
そこまで書いて、筆を止める。
最後に一文を加えた。
『今後の調査が必要と判断し、王宮へ報告する』
乾いたインクを確認すると、報告書を丁寧に折りたたむ。そして神殿の紋章が刻まれた封蝋を押した。
「これを王宮へ届けてください」
「承知しました」
報告書を受け取った神官が、深く頭を下げ、そのまま神殿を出ていく。
扉が閉まった後も、残された神官たちはしばらく泉を見つめていた。
淡い光はもうどこにもないが、確かに一度だけ泉は光った。それが何を意味するのかはまだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
今日、この国の未来を変えるかもしれない一枚の報告書が、神殿を出た。
向かう先はーー王宮。
そして、その報告書に記された少女の名を知る少年が、そこにはいる。
王太子、セドリック。
この小さな報告が、やがて三人の運命を大きく動かしていく。




