春の社交界デビュー
春が訪れた。
冬の冷たい風がやわらぎ、王都の街には淡い色の花が咲き始めている。
リリアーナが10歳になる年だ。
この国の貴族の子どもたちは、10歳になる年に、初めて正式に社交界へ出ることになっていた。
その門出を祝うため、毎年春になると王都で開かれるのがーー「芽吹きの会」だった。
大人たちの社交会とは違い、主役は10歳になる子どもたち。
同じ年頃の令嬢や令息が集まり、互いに言葉を交わしながら、少しずつ社交の作法を学んでいく。
その日、リリアーナは朝から母のエレノアとともに準備をしていた。
「リア。あなたは今日から、公爵令嬢として社交界に立つことになります」
「はい、お母様」
「これまで教えてきたことを思い出しなさい。挨拶の仕方、相手との距離、言葉遣い。何より、自分がどのような立場にいるのかを忘れないこと」
リリアーナは静かに頷いた。
今まで何度も聞いてきた言葉だった。
けれど今日は、いつもと違って聞こえる。
「それから……」
エレノアは少しだけ表情を和らげた。
「楽しんできなさい」
「……はい!」
その言葉に、リリアーナの顔がぱっと明るくなる。
会場に到着すると、色とりどりのドレスを着た子どもたちが集まっていた。
緊張した顔をしている者もいれば、楽しそうに笑っている者もいる。
リリアーナも少しだけ緊張していた。
いつものカフェとは違う。
ここでは誰もが、アシュフォード公爵令嬢としてのリリアーナを見ている。
そう思った瞬間、背筋が自然と伸びた。
「あの……もしかして、アシュフォード公爵家のリリアーナ様ですか?」
声をかけてきたのは、淡い桃色のドレスを着た少女だった。
「ええ。そうですが……」
「初めまして。ローゼン伯爵家のエミリア・ローゼンと申します」
「初めまして。アシュフォード公爵家のリリアーナ・アシュフォードです」
「リリアーナ様は銀色の髪って聞いていたから、すぐに分かりました」
エミリアがにこりと笑う。
「リリアーナ様、よかったら一緒にお話ししませんか?」
あまりに自然に誘われ、リリアーナは少し驚いた。
「……ええ、ぜひ」
そこへ、もう一人の少女が近づいてきた。
「エミリア、先に行かないでよ」
「クラリス!」
クラリスと呼ばれた少女は、リリアーナに向き合い、何回も練習したであろう挨拶を口にした。
「ベルフォート子爵家のクラリス・ベルフォートと申します。お目にかかれて光栄です」
「アシュフォード公爵家のリリアーナ・アシュフォードです。お目にかかれて嬉しく思います」
エミリアとは対照的に、落ち着いた雰囲気の少女だった。
「エミリアが失礼なことをしていませんか?」
「もう、クラリスったら!」
二人のやり取りに、リリアーナは思わず笑った。
少し緊張していた心が、ふっと軽くなる。
それから三人は、好きな花や最近読んだ本の話をした。
気づけばリリアーナは、自然に笑っていた。
こんなふうに同じ年頃の貴族令嬢と話すのは初めてだった。
フィオナと話すときとは、また違う楽しさがある。
そう思ったときだった。
会場の奥から、王太子セドリックが姿を現した。
リリアーナは一瞬だけ目を向ける。
けれど、すぐに表情を整えた。
セドリックが近くを通りかかると、リリアーナはエミリアとクラリスとともに、その場で丁寧に礼をする。
「ごきげんよう、セドリック殿下」
「ごきげんよう。リリアーナ嬢」
セドリックも王太子らしい穏やかな笑みを浮かべる。
「リリアーナ嬢、芽吹きの会を楽しんでいるようですね」
「はい。エミリア様とクラリス様とお話ししておりました」
「それはよかった」
ほんの短いやり取り。
セドリックはそれ以上何も言わず、別の貴族たちのもとへ向かっていった。
リリアーナも、その背中を追うことはしなかった。
ここは、二人が友達として過ごす場所ではない。
王太子と公爵令嬢として振る舞う場所なのだ。
「リリアーナ様、殿下とお知り合いだったのですか?」
セドリックの姿が遠ざかると、エミリアが小さな声で尋ねた。
「ええ。以前、少しお話しする機会があったの」
「そうだったんですね」
エミリアは納得したように頷いた。
「王太子殿下とお話しするのって、やっぱり緊張しますか?」
「最初は少し。でも、今日はちゃんとご挨拶できてよかったわ」
リリアーナが答えると、クラリスがくすりと笑った。
「エミリアは、さっきから殿下の方ばかり見ていたものね」
「だって、王太子殿下よ?気になるでしょう?」
「私は緊張して、あまり見られなかったわ」
「クラリスは真面目すぎるのよ」
「だって、今日が初めての社交界デビューだし、誰に話しかければいいのか分からないんだもの」
二人のやり取りを聞いて、リリアーナは思わず笑った。
「私も同じよ。こういう場所は初めてだから、少し緊張しているわ」
「リリアーナ様も?」
「ええ」
「なんだか安心しました」
クラリスがほっとしたように笑う。
「せっかくの芽吹きの会ですもの。もっといろいろ見て回りましょう?」
「賛成!」
リリアーナの提案にエミリアが嬉しそうに手を挙げる。
こうしてリリアーナは、エミリアとクラリスと肩を並べて歩き始めた。
初めての社交界。
けれど、思っていたよりずっと楽しい一日になった。
会が終わり、公爵邸へ戻る馬車の中。
「芽吹きの会はどうでしたか?」
向かいに座るエレノアが尋ねる。
「楽しかったわ。それにね、お友達もできたの」
エミリアとクラリス。
二人との会話を思い出すと、自然と頬が緩んだ。
「お母様、私、今日少し分かった気がするわ」
「何がです?」
「お母様がいつも言っていたこと。公爵令嬢として振る舞うって、こういうことなのね」
エレノアは娘を見つめた。
「ええ。今日が、その最初の日ですよ」
窓の外では、春の花が風に揺れている。
この日、リリアーナは初めて、自分が生まれた場所にある「立場」というものを、少しだけ実感した。




