それぞれの一日
9歳になった夏。
リリアーナの朝は、以前より少しだけ早くなった。
「リリアーナ様、本日の授業は午前中が歴史と領地経営、午後からは礼儀作法でございます」
「分かったわ」
朝食を終え、窓から差し込む光を浴びながら、リリアーナは机に向かっていた。
目の前には、王国の地図が広げられている。
「アシュフォード領で作られている主な作物は?」
「小麦と葡萄です」
「では、その土地を治める貴族が考えるべきことは?」
「収穫量だけではありません。働く人たちの生活や、他の領地との交易についても考える必要があります」
答えると、家庭教師が満足そうに頷いた。
「よくできました」
褒められて、リリアーナは小さく笑う。
以前なら、ただ覚えるだけだった。
けれど最近は、勉強する内容が少しずつ変わってきている。
ただ知識を身につけるのではなく、知ったことをどう使うのか。
そんなことまで考えるようになった。
授業が終わり、リリアーナは庭へ出た。
「ネロ!」
呼ぶと、植え込みの陰から黒い影が現れる。
ネロはすっかり大きくなり、今では立派な成猫になりつつあった。
「今日も元気ね」
抱き上げようとすると、ネロはするりと腕から抜けて走っていく。
「もう!」
追いかけながら、リリアーナは笑った。
*
今年、セドリックは10歳になった。
この春には社交界にもデビューし、王太子として人前に立つ機会も少しずつ増えている。
王宮では、セドリックが今日も机に向かっていた。
「殿下、こちらの問題をもう一度お願いします」
「また?」
セドリックは机に突っ伏した。
「また、です」
向かいに座る教師は容赦がない。
王太子であるセドリックには、歴史や政治だけではなく、外交、経済、領地についての知識まで求められていた。
「……分かった」
渋々顔を上げ、もう一度問題に向き合う。
しばらくして休憩時間になると、セドリックは大きく伸びをした。
「ねえ、アルベルト」
「はい」
「王様になるには、こんなに勉強しないといけないの?」
「当然です」
「即答なんだ……」
セドリックは苦笑する。
アルベルトはそんな主君を見て、少しだけ表情を和らげた。
「ですが、すべてを一人で覚える必要はありません」
「そうなの?」
「はい。殿下には、これから多くの人が仕えることになります。大切なのは、すべてを知ることではなく、正しい判断をするための知識を身につけることです」
セドリックはしばらく黙って考えた。
「……じゃあ、分からないことを分からないままにしないことが大事?」
「その通りです」
「そっか」
セドリックはもう一度、机の上の教材を見た。
「じゃあ、もう少し頑張る」
「それがよろしいかと」
アルベルトが微笑む。
セドリックは小さく息を吐いて、再び椅子に座った。
*
商業区にある焼き菓子店リーフ・パティスリーでは、フィオナが忙しそうに動き回っていた。
「フィオナ、これを店先に並べてくれる?」
「はーい!」
焼きたてのクッキーを籠に並べる。
甘い香りが店いっぱいに広がっていた。
「いい匂いね」
店に入ってきた女性が、籠の中を覗き込む。
「このクッキー、お嬢ちゃんが作ったの?」
「えっ?」
フィオナは慌てて首を振った。
「ち、違います!お母さんが作ったんです!」
その様子を見て、母親が笑う。
「でも、いつかフィオナが作ったお菓子も並べられるといいわね」
「私が?」
「そうよ。そろそろ9歳になるし、簡単な物から覚えていきましょう」
フィオナは籠の中のクッキーを見つめた。
「うん!作ってみたい」
いつか自分も、この店を手伝うだけではなく、自分のお菓子を作れるようになる。
そんな未来を想像すると、胸が少しだけ弾んだ。
*
その日の夕方。
カフェ・ミモザ
奥の個室では、三人が顔を合わせていた。
「今日は何してた?」
セドリックが尋ねる。
「私は勉強。歴史と領地について教えてもらったわ」
「僕も似たようなものだよ。王太子って大変なんだ」
「私はお店のお手伝い!」
フィオナが胸を張る。
「今度、お母さんからクッキーの作り方教わるんです」
「フィオナが作ったクッキー?ぜひ食べたいわ!」
「僕も食べてみたいな」
「え?食べてくれるんですか!?
セドリック様とリア様に美味しいって言ってもらえるよう、いっぱい練習します!」
フィオナの元気な声が個室に響くーー。
去年と同じように笑っているが、少しだけ違う。
三人は成長するとともに、少しずつ自分の世界を持ち始めていた。
それぞれの毎日の中で、自分にできることを少しずつ増やしていく。
そして三人は、今日も他愛のない話をしながら笑っていた。




