第2話∶夜会のその後
ドレスの裾を翻し、エリオスの手を引いて夜会を抜け出した私は、そのまま夜の市街地へと連れ立って走り抜けた。
「はぁ、はぁ……! 逃げ切った……かな!?」
大通りから一本入った裏路地で足を止め、息を整える。
月明かりの下で我に返った私は、ハッと自分の手元に目を落とした。
(……あ、あれ? 私、エリオスの手を自分からめちゃくちゃ力強く握りしめてた……!?)
王太子たちの「吐息がかかる距離」にはあんなに殺意を覚えたのに、自分から握りしめていた男の人の手の温もりに気づいた瞬間、猛烈な恥ずかしさが押し寄せてきた。
さっきまでの勢いはどこへやら、私は急に気まずくなって、パッと弾かれたように手を離してしまった。
「あ、ごごごめんなさい! 勢いで握っちゃってて……!」
顔に火がついたように熱くなるのを感じながら、慌てて数歩後ずさる。
すると、急に手を離されたエリオスは、前髪の隙間から眉をひそめ、少し不機嫌そうにムッとした顔をした。
「……別に、嫌ならいいけど」
「嫌とかじゃなくてですね!? その、乙女の嗜みというか自覚というか……!」
わたわたと手を振って弁明しようとする私。
その時、路地の先から賑やかな笛や太鼓の音、そして美味しそうな香辛料と甘いお菓子の匂いが風に乗って漂ってきた。
路地を抜けると、そこには鮮やかなランタンの光で彩られた市場が広がっていた。
「わぁ……! 今日はお祭りなのね! 街の人たちがみんな楽しそう……夜会よりずっと素敵だわ!」
きらきらと輝く屋台の明かりに目を輝かせ、気まずさを誤魔化すようにテンション高く声を上げる。
そんな私の様子を、エリオスは呆れ半分、諦め半分といった様子で「ハァ……」と小さく溜め息を吐いた。
「お前、本当に切り替え早いな。……で、その格好で一人で歩く気か? ただでさえ目立つのに」
「えっ」
「……ほら」
エリオスはそう言うと、ごく自然な動作で、先ほど私が振り払ってしまった右手を再び優しく握り直した。大きな手が、私の小さな手をすっぽりと包み込む。
「……行くぞ。はぐれたら面倒だ」
「っ……!」
突然の行動にドギマギして心臓が跳ね上がる。
けれど、引き止めようとしてチラリと彼のお顔を見上げて——私は思わず目を見開いた。
前髪の隙間から見えるエリオスの横顔。その耳先が、ランタンの赤い光のせいだけではない鮮やかな赤色に染まっていたのだ。
(……なんだ、エリオス様も緊張してるんじゃん)
口では冷たいことを言いながら、本当は照れている塩顔ヒーロー。
そのギャップがなんだか愛おしくて、可笑しくて、胸の奥がキュンと甘く痛む。
「……ふふっ」
「……何笑ってんだよ」
「なんでもありませーん! 行きましょう、エリオス様!」
私は握り返された手にキュッと力を込め、笑いながら彼の隣を並んで歩き出した。
◇
お祭りは本当に楽しかった。
屋台で見つけた、職人がその場で作ってくれるハート型の飴細工。リリアは「買って買って」と呆れ顔のエリオスにおねだりして買ってもらい、二人で半分こしてかじりついた。甘いイチゴの風味が口いっぱいに広がる。
広場では大道芸人の見事なジャグリングに拍手を送り、街角のバイオリニストが奏でる陽気で少し切ない調べに耳を傾けた。
前世のOL時代には味わえなかった、温かくて自由で、大好きな人と過ごす特別な時間。
気付けばランタンの明かりもポツポツと消え始め、夜の静けさが街を包み込んでいた。
「楽しかったなぁ……。あ、エリオス様、送ってくれてありがとうございます」
私の仮住まいである聖女用の邸宅へ続く静かな一本道。
カツン、カツンと二人の足音が夜の静寂に響く。
「明日は、アイツら……あのバカ王太子殿下達、絶対大騒ぎだろうな」
エリオスが前髪をかき上げながら、心底ウザそうに呟いた。
「間違いなく学園中で『リリアが消えた!』って捜索隊が出ますね。まあ、言いたいことは全部言ったのでスッキリしましたけど!」
「はぁ……本当にお前は後先を考えない。……またアイツらがしつこく近づいてきたら、すぐに俺のところへ来い。影魔法でどこへでも隠してやるから」
呆れつつも、どこまでも過保護で頼もしい言葉。
その優しさが嬉しくて、私は前世の軽ノリを少し混ぜて、冗談めかしくニッと笑ってみせた。
「ふふ、ホント頼もしいですね! ……そんなこと言われたら、私、惚れちゃいますよ? 笑」
「…………」
「……え?」
返ってきたのは、軽いツッコミ……ではなく。
ピタリと足を止めたエリオスの、重く、濃密な沈黙だった。
街灯の明かりが届かない木陰の下。エリオスの黒い瞳が、じっと私を見つめている。
冗談のつもりが一気に空気が変わってしまい、私は生唾を飲み込んだ。
「え、エリオス様……?」
恐ろしいほどの美貌を持つ私を、一度だって「記号」として見ず、ただの「リリア」として接してくれた人。
その彼が今、今まで見たこともないような、男らしい真剣な目をしている。
「……冗談で言うな」
「っ……」
低く掠れた声が聞こえたかと思うと、ぐいっと強い力で腕を引かれた。
視界が揺れ、気付けば私はエリオスの胸の中にすっぽりと抱きしめられていた。
香辛料と、甘い飴と、彼固有の涼やかな夜の匂いが鼻腔をくすぐる。
耳元に触れるエリオスの熱い吐息に、前世を含めても体験したことのない熱量が全身を駆け巡った。
「俺は……とっくに惚れてるけど?」
「っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
(嘘でしょ!? 冗談のつもりだったのに、本気のやつ来たーーー!?)
耳元で囁かれた低く甘い声に、一瞬で脳みそが沸騰した。顔が真っ赤どころの騒ぎではない。体内温度が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れてしまう。
あまりの衝撃にカチコチに固まっていると、エリオスはそっと体を離し、私の顔を覗き込んできた。
前髪の隙間から覗く黒い瞳には、溢れんばかりの愛おしさと、少しの独占欲が揺れている。
「……断るなら、今のうちだぞ。俺、闇魔法使いだし、性格もひねくれてるし……王太子たちみたいに甘い言葉も言えない」
「そんな……っ、そんなの、最初から関係ないです……!」
消えそうな声で答えるのが精一杯だった。
男の欲望を煮詰めたようなこの美貌を持った私を、「ただのお節介な聖女」として笑ってくれたのは、世界中でこの人だけだ。
「……私、エリオス様がいい。エリオス様じゃなきゃ、嫌です……」
搾り出すように伝えると、エリオスは目を見張り——それから、今まで見たこともないような、柔らかく優しい笑みを浮かべた。
「……後悔しても知らねぇからな」
顔がゆっくりと近づいてくる。
さくらんぼ色の唇が重なる直前、ふと胸の奥から温かい感情が溢れ出してきた。
(……ああ。この世界に転生できて、この人に出会えて、本当によかった)
重なり合った唇から伝わる温もりに身を委ねながら、私はそっと目を閉じた。




