✣ 35話 漆黒と赤薔薇
微かに耳へと届いた。
聞き覚えのある、声が。
視線を上げる。
この庭園から見える建物。そこにはあの方が過ごされている。そして、その声の主も。
「どうしました、フィガロ公爵?」
前に腰を据えているブレンハイム侯爵がモノクル越しに何事かと視線を投げてくる。
「……いや、なにも」
前髪が瞳にかかった。
彼の視線を遮るように僕は目を伏せ、テーブルに広げられた書類を一枚手に取る。羅列した文字を目で追いながら、当然のようにあの方のことを考える。
王女さまのご体調は、戻られたのだろうか。
書類を見ていたはずなのに、いつ間にやら文字を追うのを止めていた。手首がテーブルに項垂れる。
「公爵?」
今一度、声を掛けてきた。
ブレンハイム侯爵は片眉を上げる。
「どうされたのです?」
静かにそう問われた。
僕を見透かそうとするその瞳。だが、その瞳は無意味に終わる。
「…………」
「殿下はいつ、来られるのやら……」
ブレンハイム侯爵は空いている椅子へと視線を移すと、溜め息とともに肩が落ちた。
カーディアスに言われるがままに、この南庭園に誘われ今に至るが、本来この場にいるべき者は未だに顔どころか、姿も見えない。
「フィガロ公爵……ここは、やはり」
ブレンハイム侯爵はテーブルに手をつき、腰を浮かせた。ここにいても意味がないと決定づけたのだろう。
「ああ。そうですね」
僕は短く応えた。
席を立とうと、組んでいた足を戻す。すると、風が何かを運んできた。やけに濃い薔薇の香が鼻につく。
背後から人の気配。
主張するようにヒールでパヴェを叩く。
でも、僕は何も聞こえてはいないかのように席を立つ。
「───お父様」
宙に放たれた。
ブレンハイム侯爵の目が見開き、その顔が少し曇る。
「エレオ、ノーラ?」
言葉に詰まったブレンハイム侯爵へと赤いドレスが近寄った。黄金の髪が赤薔薇の匂いをまといながら。
「ごめんなさい、お父様。お仕事中に」
口ではそう言いつつも、心の内はそんなこと微塵も考えてはいないのは、この者を見れば分かる。
赤みがかった琥珀の瞳が僕を見上げた。
「フィガロ公爵様、ご機嫌よう」
ドレスの裾を指先で摘まみ、頭を少し前に倒す。
徹底的に鍛えられた仕草。散りばめられた優雅さの中に隠せぬ強い欲。凛とした声は己に自信しかないのが窺える。
「なぜ、……王宮に?」
腑に落ちない声が漏れでた。
ブレンハイム侯爵の開いた口が塞がる様子はない。
「今日は、街に出ると……」
予期せぬ娘の登場にブレンハイム侯爵は平静を保てていなかった。
「わたくしも、そのつもりでした。ですが、」
エレオノーラは口元に扇の先を当てる。
「直ちに確かめたいことが、出来まして」
僕に向けられた瞳が鋭く変わった。
「確かめたいこと、だと?……で、なぜここが分かっ──」
エレオノーラはブレンハイム侯爵の言葉を遮る。
「ライザット卿に聞きましたの。こちらにお父様と、───フィガロ公爵様がいらっしゃる、と」
僕の眉が僅かに跳ねた。
「そう、だったか……。誠に申し訳ございません、公爵。また娘が邪魔をしまして……」
一瞬、エレオノーラへと向けられた視線をブレンハイム侯爵は即座に僕へと注ぐ。
「申し訳ございません、公爵様」
軽く頭を下げる。揺れた髪から覗く目は真っ直ぐに僕を見つめたまま。
「いえ。では、ブレンハイム侯爵。今日はこの辺にして、残りは後日に致しましょう」
その視線など、どうでもいい。
僕にとっての意味は、あの方だけなのだから。
冷ややかな視線を返した。
「そ、そうですな。では、また王太子殿下がいる時に」
僕は彼らに背を向ける。だが、逃さないというように手が伸びた。
「あ、待ってレジス様!」
一歩前に出したヒールの音が高らかに鳴る。
「おい、エレオノーラ!!」
背後から聞こえた雑音が騒がしい。
足を止める意義も必要も僕は感じない。
行くべきところがある。
足先が向いている宮を前に胸が沸き立つ。
一定にしか脈打たない僕の心臓がここまで躍らすことができるのは、貴女しかいないんです。
そのことを、知っていますか?
落ち着くどころか、更に高まる鼓動。
足取りも軽くなる。
「───レジス様、少しお時間をわたくしに頂けませんか?」
遠くに聞こえる靄のかかる問いかけ。
あの者が発したひと言に僕の足が止まる。
「ロイヤルペーパーはお読みになって?」
バサッ。
空を斬るように扇が開かれた。
「あのくらいの些細な事故なんて、わたくしは気にしてませんわ」
背中を容赦なく突き刺す視線。
「あ、嘘です。……エレオノーラは少し、傷つきました」
衣擦れとともにヒールの音が近寄ってくる。
一歩、一歩ゆっくりと。
「 でも、わたくしの心は海のように深くて広いです。レジス様にも、お立場がおありですし、一度や二度の過ちは許しますわ」
言葉に棘を含ませ紡ぐ赤薔薇。
「わたくしは、寛大でございますから」
薔薇の香が執拗にまとわりつく。
さも当たり前のように隣に立ち、目元を緩ませた。
穏やかな表情に似つかわない瞳。
その奥に苛烈さを潜ませて。
僕へと伸びた指先。
赤薔薇の赤い唇が上がる。
指先に触れた寸前、拒絶するように僕は体勢を変えた。
感情などない瞳が、ただそこにあった赤薔薇を見下ろす。
「……なぜ、貴方に僕が許されなければならないのですか?」
低い冷え切った声に黄金の髪が揺れ、持っている扇が僅かにずれる。
「え……?」
強ばった顔を浮かべ、エレオノーラは無意識に半歩後ろへ下がっていく。
「ひとつ、僕からもお訊ねしても?」
「……あ、はい!もちろん、ですわ」
僕の前髪が風に流れた。
「エレオノーラ嬢……貴女は僕のなんですか?」
双眸が彼女を捉える。
「わ、わたくしは……レジス様の……」
喉元が動いた。
僕へと向いた琥珀色が揺れている。
「申し訳ないですが、僕の名を呼ぶ権利を渡したつもりはありませんよ」
扇が垂れ落ちた。
音を立てながらカタカタと震える扇。
「レジ……公爵様!」
優雅さの仮面がいつの間にか崩れている。
呼び止めようと必死の様子を横目に、僕は踵を返した。
「───僕のことはこれ以上、構わないでください」
これで最後だと、彼女の父親に対しての義理は果たした。僕はブレンハイム侯爵へと視線を投げる。
「侯爵。今日はこの辺で、では失礼」
何か言われたような気がしたが、もう終わったことだ。
庭園の出口で待っていた我が家の騎士と目が合った。
「公爵様」
顔を伏せ、自分が何も言わなくてもジェラートは手を差し出す。
あの女の匂いが染みたジャケットを脱ぐとジェラートが差し出した手に置く。
「汚れたから処分を頼む」
伏せた顔に短くそう告げる。
「ハッ」
「それと、これから行くところがあるから。ジェラートはこのまま戻っていい」
「承知しました」
それだけ話すとジェラートは礼を取り、僕とは逆を歩いていく。
さして遠くもない宮を見上げる。
「……王女さまも、ご覧になったかな」
思わず、口元が歪む。
邪魔者たちのガードが堅くなるなと思いながら、僕は王太子宮へと足先を向けた。
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