✣ 36話 漆黒は淑女の兄の逆鱗に触れる
「……あの冷徹傲慢男め」
グチグチと薄い唇が動く。
カーディアスの眉がつり上がった。紙面を持つ指先を震源地とし、そのロイヤルペーパーは乾いた音を鳴らす。
ジョアンナの丁寧すぎる手当てが終わり、この室へと戻ってきたが、カーディアスの格好は部屋を出る前と変わってはいなかった。鋭い目つきでロイヤルペーパーを睨みつけてる。
兄様、私が戻ってきたの、
──気付いて、ない?
ぱちっと灰褐色の双眸と視線が合った。
お前のせいだと私は眼光を強くするが、セリオスは眉ひとつ動かさない。
なんてヤツ!!
もう、知らないッ。
ぷいっと髪を揺らし、食事が用意された席へ着こうとすると、あの気に食わない灰褐色の騎士がこちらへとやって来るのを目の端で捉えた。
彼は私の背後に回り、慣れたように椅子の背に指を添える。微かに香る新緑の匂いが鼻を掠めた。
「…………」
そっと優しく座面がスカートに触れる。決して足には当てず、セリオスは私が座るのを待っていた。
長い髪が肩から落ちる。
ドレススカートがふわっと空気を含む。
私は顔も見せずに、小さく口を動かした。
「……ありがとう」
それ以上は言わない。
腹が立っていても親切にされたら、
お礼言わなきゃいけないタチなんです。
「……いえ」
セリオスの声は静かに消えていった。
ちょっとした空気の揺れに白金の髪が光る。
「ん?……あ、エスか」
機嫌が悪いカーディアスがこちらに気がついた。手にしているロイヤルペーパーを無造作さに扱う。
「ちゃんと、手当てして貰えたか?」
ちょっとした擦り傷なのに、ジョアンナが包帯をグルグルと巻いた手へと視線が向く。
無理をして微笑むカーディアスの顔が、怖い。
私は勢い良く頭を縦に振った。
グシャグチャ。
カーディアスの手により、ロイヤルペーパーは音をあげ、見るも無惨な形へと変わる。
「……エスティア。これはどういうことか説明してもらえると、兄は物凄く嬉しいのだが」
細くなる目は穏やかさなど微塵も感じられない。
せ、説明?!
あ、あの時のことを!?
目が泳ぎ、汗が湧く。
膝の上で重ねた手が嫌な汗で気持ち悪い。
「この兄に教えてくれ。あの男に何をされたんだ?」
ゆっくりと距離を詰めるカーディアス。室に反響する足音が大きい。
私は無意識に仰け反ると背もたれへと当たる。
「いや、むしろ……あれはエスではないと言ってくれ!」
縋るようにカーディアスは願いを込める。真っ直ぐ私を見つめる澄んだ翠緑玉。その瞳に嘘がつけるわけがない。しかし、説明などしたくもないわけで、私は注がれる視線から逃げた。
「……エス?」
弱々しく零れた。私は胸が張り裂けそうになる。
なんで、そんな……
捨てられた子犬みたいに、
瞳をうるうるさせるのよぉ。
「これは……お前なのか……?」
その事実に衝撃が強すぎたのか、カーディアスはよろけた。
「王太子殿下?!」
慌ててセリオスが手を伸ばす。
それをカーディアスは掌を出し、セリオスを制した。
「……だ、大丈夫だ」
「お兄様……」
私も気付けば席を立ち、胸まで伸びた手を軽く握り、カーディアスの顔色を覗く。
「……心配するな。ただ足が、」
言葉が途切れた。カーディアスの視線は私を通り越し、何かを捉えた。その顔は険しさを増していく。
廊下から届いてくる一定の音律。
姿も見えない相手にカーディアスは隠そうともせずに敵意を剥き出しにし始める。
足音が止んだ。
その相手はこちらには声も掛けずに、ドアノブに手を掛け、静まり返った室にドアノブの音が大きく奏でられた。
ゆっくりとドアが開く。
乾いた靴音がハッキリと耳に入る。
あの匂いと共に。
カーディアスが握るロイヤルペーパーがグシャと音を立て、小刻みに震えている。
「───また僕を、除け者扱い?」
空気が凍てつく。
テーブルに載せられたお料理の湯気が一気に失せた。
カーディアスの眉根に深く皺が寄り、周りの空気を吸いあげ、目を見開く。
そして、
「────俺の妹に、何してくれたんだ!!?この死神ガァァァァ!!!」
また、カーディアスの咆哮が穿たれた。
ウグッ。
今、この世でいちばん会いたくない人が目の前におるんですけど………。
心は正直で、身が勝手に後退る。
真正面からカーディアスの心の叫びを浴びた死神ことレジスさんは、全くビクともしていない。
あの絶叫を前に涼しい顔をしていられるのは、この漆黒ぐらいだと私は思います。
はい。絶対に。
そんなことを考えていたら、当たり前だというように漆黒の瞳が私を捉えた。
口角を上げ、耳を蕩けさせる声が投げられる。
「────王女さま、ご機嫌いかがでしょうか?」
妖艶な笑みを称えて。
ウギッ?!
咄嗟に私の肘が上がり、身構えてしまう。
やめてぇ!!??
そんな瞳で私を見ないでぇ!!
「オイッ!勝手に俺の妹に声を掛けるのは許さんっ!!」
カーディアスが横から抗議するが、レジスの耳には一切届いていない。いや、レジスは固まっていた。
「オイ?!レジス、聞いているのか!?」
レジスの瞳が大きくなる。そのまま、レジスは前へと長い足を進め、私の前へと立った。
な、何っ?!
レジスの目は私の手へと落とされる。その顔は蒼白で、周りの空気がひりつく。
「王女さま……これは、どうされたの──」
レジスの手が私へと伸びる。
───バザッ。
既視感のあるマント。
ヒリついた空気が更に強くなる。
「エスティア!」
更にもう一枚の壁が私の前に立った。
「邪魔、なんだけど」
冷たく嫌悪のある声が室に反響する。
晴れていた空に雲がかかったように暗い。
「──王女様にこれ以上、近寄らないでください公爵」
セリオスも負け時に、声が低い。
「君に言われたくないんだけど。セリオス……前に言ったよね?」
剣の込められた声。
帯刀していないのに、そこにはない存在しない剣が見えた。
セリオスの指先が、柄へと触れる。
ふたりの周りに漂う殺気に私は戸惑いを隠せない。
私に向けられた物ではないと知りながらも息をするのもままならない。
怯えた私を気遣ったのか、たまたまなのかカーディアスは私の肩を抱く。殺気を隠さないふたりから遮るようにしてくれた。
「……お前ら、殺り合うつもりなら外でやれ」
ふたりの気配を切り崩す声が刺す。
カーディアスのひと声で殺気が霧散した。
「……申し、訳ございません」
セリオスは伸ばした腕を無理矢理下ろすと、カーディアスへと向き直り顔を伏せた。
「…………」
ふたりはお互いに目を合わせることなく、その場で立ち尽くす。ギクシャクした空気を残したまま。
「───で、これを贖罪しに来たのか?レジス」
カーディアスは自分の手にしているロイヤルペーパーを一瞥した後、目の前にいるレジスへと視線を突き刺した。
「…………」
「オイ。答えろ」
「……王女さま」
カーディアスの威圧もレジスは意味を成さないようで、ふたりの人壁など見えていないレジスは真っ直ぐに私を見つめてくる。
だから、見ないでって!!
そんな私の心の声が相手に伝わるわけはなく……
「怪我を、なされたのですか?」
小刻みに震える睫毛が必死さを物語る。
だ、だからなんで私が怪我なんかで、
みんな過激に反応するのよぉ!?
「どうして?誰に……ですか?!」
あ、デジャブ?
違う人で似たような光景を、少し前にも見たのですけど───!?
「───レジスには関係ないだろう!!この話は王家の問題だ!今はこの件を先に釈明しろッ!」
カーディアスは声を荒らげ、剣のようにロイヤルペーパーをレジスへと向けた。
「……関係、ない?」
「ああ。お前はエスティアのなんだ?」
「…………フッ」
レジスの漆黒の髪から同じ色の瞳が除く。つり上がった唇から短く息が漏れた。
不敵に微笑む顔が……悪役のように見えた。
ちょっと?!
ヒーローどこへ行ったの?!
「な、何がおかしい……」
そのレジスの微笑みにカーディアスは珍しく怯んだ。
「いや、別に」
そう短く告げると、レジスは目元を更に緩める。
「何でも、ありませんよ」
ゾクッ。
私の背筋が伸び、胸が騒ぐ。
何を考えているのか分からない漆黒の瞳に歪んだ光が差したように見えた。
「お前……何を目論んで……」
カーディアスのその言葉にも、レジスは口を閉ざすが微笑みはそのままだった。
嫌な予感しかしませんよ!
私の身体に力が入る。
そのせいか、私から場違いな音が鳴った。
ぐぅぅぅぅ〜。
気の抜ける音。
私の体温が熱を上げる。
へ、ここで鳴るの?!
「──ぷっ」
セリオスが口元を手で隠す。
ア、ア、アイツめッ!!
間の抜けた腹ペコ虫のお陰か、この室の空気が和らいでいくのを感じつつも、私の恥は更新された。
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