✣ 幕間 ノルド
月の蒼白い光に照らされた無機質な回廊をひとり歩く。冷たい光を浴びる度、自分の心も次第に凍てつき始める。
一瞬、あの女の顔が思い浮かぶ。
ふっと温い吐息が漏れ、心に僅かな火が灯る。
一日がこんなに速く思えたのはいつぶりだろうか。
足を留め、あの女がいる方角へと視線を送る。
「馬鹿な顔して寝てるんだろうな」
不覚にも笑みが溢れた。
そんなことを考えていると、誰かがこちらへと向かう足音が回廊に響き渡った。
ひと癖ある足音は、顔を見なくても誰だか分かる。
「はぁ、はぁ……、今日は、なんでこんなに……遅いんですか……はぁ、もぉ。困りますよ……」
肩で息をしながら両膝を杖にし、上半身を垂らす男───ハリス・グライン。
「悪いな、ハリス。面白いモノを見つけてな」
「はっ!まさか……女人ですか?!そんな事、あの方に知れたら──フグッ」
両眉をぶち上げながら、口答えするハリスの口をつまみ上げた。まるでヒナ鳥のように腕をバタつかせるハリスを冷たい目で見据える。
「変なこと言うな。誰が聞いてるか分かったもんじゃない」
ハッと目を丸くしたハリスの首が飛ぶのではと心配するほど左右に振る。
「だ、誰もいませんよね……?」
「壁に耳あり……って話聞いたことあるか?」
えっ!と更に目を大きくし、みるみる顔を白くしたハリスは腰にある剣を抜こうと手をかけた。剣がカチャカチャと音を立てる。
「へ、変なこと、言わないで、く、下さいよぉ!!」
歯をガタガタ言わせながら、鞘から顔を出した刀剣が月光に照らされ光を返す。
「全く……お前ってやつは」
息を吐くと、目の前の男の肩を数度叩いてやった。
ハリスの身体がらビクッと揺れ、回廊の先へと目を向けた。
風が吹く。
身を縮まるほどの冷たい風が髪を横へと流す。
嗅ぎ慣れない匂いが鼻につく。
ハリスの目が鋭く変わる。
音もなく近付く人物に敵意を剥き出した。
「───ハリス」
覇気を込めた低い声で、名を呼んだ。剣を抜きかけない我が騎士を引き留めた。
前傾姿勢になっていたハリスの緊張が和らいでいく。柄に込めた指をひとつずつ外した。
歩みが止まった。軍服に着いた煌びやかな装飾が主張するように音を発する。
「これは、珍しいな。卿とここで顔を合わせるとはな」
眉に力が入った。
闘気を隠そうとしないハリスを隠すように前に出た。
俺へと礼を尽く男は、ゆっくりと面を上げた。
「ご機嫌麗しゅうございます。……第一王子殿下」
こちらを見ているようで、全く関心のない瞳。その瞳がやけに冷め切っている。発した声でさえも。
齢十四、五でフィガロ公爵家を継ぎ、カーディアスと共に戦地を駆け巡り、血を浴び尽くした漆黒の氷薔薇。
「───いや、死神だな」
そう小さく呟く。聞こえているにも関わらず、漆黒の君は眉ひとつ動かさない。
では、と頭を下げた。
顎先で返事をし、背を向ける。
男の足が調子を崩した。
鼻にまとわりつく、心底嫌いなムスクの香り。
───ガシッ。
漆黒の髪を大きく乱し、激しく揺れ動いた瞳が俺を射抜いた。
咄嗟のことで反応が遅れたハリスは柄から剣を引き抜く。切っ先をフィガロ卿へと向けようとするのを、手で制した。
「納めろ、ハリス」
「し、しかし、殿下!?」
無言の圧力。
有無を言わせない気迫。
───カチャリ。
後ろから声にならない音が耳へと届いた。
跡が残りそうな程に腕にしがみつく男を妙に冷めた目で見下ろす。
「なぜ、……貴方が」
消え入りそうな声が上がった。
眉尻を下げ、傍から見たら俺に縋っているように見えるだろう。
「どうした?───フィガロ卿とあろうお方が、俺に頼みごとか?」
片眉が跳ねた。
「……なぜ、貴方から、────あの御方の香りがするのですか?!」
鬼気迫る叫びが、回廊に反響した。
フィガロ卿は眉根を寄せ、俺を睨め上げる。
───お前をそこまでにさせるのか?
思わず、片唇が吊り上がった。
掴み上げる指を容赦無く、払い除ける。
汚れを落とすかのように袖を撫で落とす。
「卿の話は全く分からないな。何が言いたい?」
軽く頭を傾け、態度を改めることなく視線を送り続けるフィガロ卿を睨み返す。
短く息を漏らすと、踵を返した。
殺気の込めた視線は背を刺し続ける。
それを無視し、俺は足を前へと出した。
「────アーノルド・リタ・ルベストリア」
名を呼ぶ声がした。
俺は振り返ることはない。
ただ前へと歩みを止めなかった。




