第81話 再会
アイゼン王太子の一行がリップル王国に到着したのは、視察の申し込みから十日後のことだった。
王宮の廊下を、私は足音を立てないように歩いていた。
(今日が、到着の日……)
できる限り、表には出ないようにしている。
資料整理という建前の仕事は、実際にも山積みになっていたから、ちょうど良かった。
「エリカ様」
振り返ると、アレクシス殿下の側近が立っていた。
「殿下よりお言葉です。『本日は東棟から出ないように』と」
「……はい、分かりました」
東棟は、王宮の中でも、公式の訪問客が通常立ち入らない区画だった。
(殿下は、本気で隠してくださるつもりなのね)
私は、静かに頷いた。
◇
ところが、その日の昼過ぎだった。
「失礼する」
廊下の角を曲がった瞬間、人影と鉢合わせた。
「――っ」
「……」
なぜかアイゼン王太子が、そこに立っていた。
供の者を連れず、たった一人で。
東棟の廊下に。
(なんで、ここに……!)
「探したよ」
アイゼン王太子は、それだけ言った。
その声は、静かだった。
穏やかでさえあった。
けれど、その目は正気を失っているように見えた――。
(怖い……)
私は、無意識に一歩、後ずさっていた。
フォレスト国にいた頃も、アイゼン王太子が感情的になる場面を、何度か見てきた。
けれど、今、目の前にいる人の目は、あの頃とは違った。
どこか、焦点が定まっていない。
それでいて、私だけを捉えている。
「アイゼン……王太子殿下」
私は、声を絞り出すように言った。
「こちらの区画は、訪問客の立ち入りが制限されて……」
「知っている」
「では――」
「分かっていて、一人で来た」
アイゼン王太子は、静かに一歩、近づいた。
「エリカ。お前が、ここにいることは調べがついていた」
(やっぱり……)
「……半年だ。半年間、ずっと探していた」
その声に、わずかな震えが混じった。
「毎日、報告を待っていた。交遊関係すべての動向を追いながら。使者を出すタイミングを、ずっと、計っていた」
私は、胸の奥に、奇妙な感覚が広がっていくのを感じた。
怖い、という気持ちと――それ以外の、うまく言葉にできない何か。
「エリカに、会いたかった」
アイゼン王太子は、もう一歩、近づく。
「ただ、それだけだ」
「アイゼン王太子殿下、今は、お話しできません」
私は、はっきりと言った。
「なぜだ?」
「私は、今、アレクシス殿下のもとで、コーヒー事業の仕事をしています」
「……で?」
「……」
「そのまま、この国に骨を埋めるつもりか?」
アイゼン王太子の声が、一段低くなった。
「お前は、アレクシス・リップルに嫁ぐ気か?」
「それは……」
(あの噂を、信じているのね……)
「フォレスト国から逃げて、私から逃げて――それで、お前は、満足なのか?」
その言葉に、胸が痛くなった。
(満足、なんて……)
「違う……責めるつもりじゃない。私は――」
その時、廊下の向こうから声が響いた。
「アイゼン王太子殿下」
アレクシス殿下が、静かに立っていた。
いつから、そこにいたのか。
表情は、穏やかだったが、その目は少しも笑っていなかった。
「こちらの区画に、ご用件でも?あいにく、こちらは部外者は立ち入り禁止区域です」
「……」
「視察団の皆様には、西棟の応接室をご用意しております。ご案内しましょうか?」
アイゼン王太子は、しばらく、アレクシス殿下を見ていた。
「……失礼した」
やがて、そう言って、廊下を引き返していく。
その背中が見えなくなってから、私は、ようやく、止めていた息を吐いた。
「大丈夫か?」
アレクシス殿下が、静かに尋ねた。
「……はい。ありがとうございます」
「東棟への経路に、人を増やす」
「……そこまで、してもらわなくても」
「何を言ってる。アイツの目を見たか?」
殿下は、きっぱりと言った。
「あの目は、まともじゃない」
その一言に、私は、黙って頷いた。
(まともじゃない、分かっている)
それでも、どうして――あの人が、あんな目をするのか、分かってしまうのが、苦しかった。
◇
その夜。
アレクシス殿下に呼ばれ、私は殿下の執務室を訪れた。
「一つ、提案がある」
殿下は、机の前に座ったまま言った。
「アイゼン殿下の目的は、明らかにコーヒーの視察ではない」
「……はい」
「このままでは、何度でも接触を試みてくるだろう」
「……」
私は、午後の廊下での出来事を思い出した。
あの目を。
あの声を。
「だから、私が、お前の傍についていることにする」
「殿下、が……?」
「コーヒー事業の国家戦略担当として、担当者と常に行動を共にする。それだけのことだ」
「しかし、それでは殿下のご負担が――」
「お前一人で、逃げ続けられると思うか?」
殿下は、静かに私を見た。
「私がそばにいれば、アイゼン殿下も、容易には手を出せない」
「……それは、つまり」
「建前上は、私がお前に特別な関心を持っているように見せる、ということだ」
私は、思わず目を瞬いた。
(それは……関係を偽装する、ということ?)
「エリカ」
殿下の声は、淡々としていた。
「私には、マリーナがいる。お前も、それは分かっているな」
「……はい」
「だから、これは、あくまで方便だ」
「分かりました」
私は、静かに頷いた。
(方便――。隣国まで来て迷惑かけて何やっているんだろう……)
胸の奥に、小さな不安が残った。
けれど今は、それより先のことを、考える余裕がなかった。
窓の外、王宮の庭園に、南国の夜風が吹いていた。
(アイゼン王太子は、明日も、この王宮にいる。そして、また、探しに来るかもしれない)
その事実が、静かに、しかし確かに、心に重くのしかかっていた。
あとがき
アイゼンとエリカ、半年ぶりの再会でした。
互いに想う気持ちはあっても、向き合う方向が違えば、すれ違いはさらに大きくなってしまいます。
次回は、視察団滞在中の王宮で、さらに波乱が待っています。
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