第80話 王太子の来訪
その知らせは、突然のことだった。
「フォレスト国から、正式な視察の申し込みが届いている」
アレクシス殿下が、深刻な表情で告げた。
「視察……ですか?」
「コーヒー事業について、両国間の交易を見据えた視察団を派遣したい、とのことだ」
謁見室には、いつもより緊張した空気が漂っていた。
「それ自体は、おかしな話ではない」
殿下は、書状を私に差し出した。
「問題は、この視察団の代表者だ」
私は、書状に目を落とした。
その名前を見た瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「アイゼン……王太子殿下」
「ああ」
アレクシス殿下が、静かに頷いた。
「エリカがこの国にいることが知られたようだ」
その言葉に頭が真っ白になった。
「なんで、半年も経った今頃……」
殿下は、別の書状を取り出した。
「ブラッド・スタール男爵家は、以前からフォレスト国王家に監視されていたらしい」
「監視……?」
私は、思わず聞き返した。
「ブラッド男爵家を、ですか?」
「ああ。お前が、フォレスト国を出てから半年。フォレスト国側は、密かに、お前の行方を追っていたようだ」
殿下は、文官から渡された別の資料に目を通した。
「ブラッド男爵家との繋がりを辿り、お前がリップル王国にいることを突き止めたらしい」
(私がブラッド達を頼ったから、居場所が分かったなんて……)
私は、言葉を失った。
「アイゼン王太子は、いずれお前と接触する機会を、待っていたのだろう」
アレクシス殿下の言葉に、私は、胸がざわつくのを感じた。
(待っていた……)
この視察は、ただの偶然の再会ではない――最初から、計算されたということだ。
「我が国は視察そのものは、断れない」
アレクシス殿下が、淡々と続けた。
「両国の友好関係上、フォレスト国の正式な使者を、無下に扱うわけにはいかない」
「はい……」
「アイゼン王太子は、視察団の代表として、近くこの国を訪れる」
その言葉に、私は、自分の手が、わずかに震えていることに気づいた。
「エリカ」
殿下が、私の様子に気づき、静かに尋ねた。
「お前は、どうしたい?」
私は、暫く答えられなかった。
(どうしたい、なんて……)
フォレスト国を離れてから、半年。
あの日の別れを、まだ、はっきりと整理できていなかった。
楽しい記憶も、辛い記憶も、すべてが混ざり合って、心の奥に残っている。
「……正直に言っても、いいですか?」
「ああ」
「会いたく、ありません」
声が、自分でも驚くほど、小さく震えていた。
「まだ、心の整理が……できていないんです」
アレクシス殿下は、暫く黙って、私を見つめていた。
「分かった」
「殿下……」
「お前の気持ちを、無視するつもりはない」
殿下は、静かに言った。
「視察団自体は、受け入れる。だが、お前を、無理に表に出す必要はない」
「それは……」
「視察の間、お前は、王宮に滞在しろ」
「王宮……?」
「ああ。コーヒー事業の国家戦略担当として、王宮で資料整理を行っている――そういう体で、しばらく身を隠すといい」
その提案に、私は、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとう、ございます……」
「礼を言われることではない」
アレクシス殿下は、表情を変えずに言った。
「お前には、まだ、たくさんやってもらわねばならないことがある。今、無理をさせて、潰れてもらっては困る」
その言葉は、素っ気なかったが、確かな気遣いが込められていた。
◇
その日の夕方、私は、アルベール男爵領を訪れていた。
王宮に滞在する前に、マリーナに事情を伝えておきたかった。
「しばらく、王宮に滞在することになりました」
「王宮に……ですか?」
マリーナは、少し驚いた表情を見せた。
「フォレスト国からの視察団が来るので、その間だけ」
「視察団……」
私は、詳しい事情までは、話さなかった。
アイゼン王太子のことは、まだ、自分の中でも、うまく言葉にできていない。
「分かりました。アルベール領のことは、ご心配なく」
マリーナは、いつも通り、穏やかに微笑んでいた。
エリカを見送った帰り際、イクシード辺境伯邸から聞こえてきた殿下の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「建前上は王太子妃教育とでもしよう」
(殿下が、エリカ様を王太子妃に……)
マリーナは胸の奥が、小さく締め付けられる。その理由を、マリーナはまだ言葉にできなかった。
その瞳に、一瞬、戸惑いと――何か、別の感情がよぎったことを誰も気がつかなかった。
◇
その日の夜、イクシード辺境伯に戻ると王宮へ移動する準備をしていた。
お祖父様から、アレクシス殿下が表向きの理由として王太子妃教育を用意したと聞かされた。
(王太子から逃げたのに、王太子妃教育を名目に身を隠すなんて……)
馬車が動き出す。
窓の外に、小さくなっていくイクシード辺境伯領の灯りを見ながら、私は、小さく息を吐いた。
(これで、大丈夫……。アイゼン王太子と、顔を合わせずに済む。)
その安堵は、確かにあった。
けれど――。
(本当に、それでいいの?)
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
逃げているだけではないか。
いつまでも、向き合わずにいられるわけではないことを、心のどこかで、分かっていた。
王宮の灯りが、夜の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がってくる。
その先に、どんな未来が待っているのか――この時の私には、まだ、知る由もなかった。
◇
そして、その頃、フォレスト国では――。
アイゼン王太子もまた、視察という名目の裏に、ただ一つの目的を、静かに抱いていた。
(エリカ。やっと、見つけた)
その想いが、リップル王国へと向かう馬車の中で、静かに燃え始めていた。
第80話をお読みいただき、ありがとうございました!
コーヒー事業編が一区切りし、ここから物語は再び恋愛パートへ。
フォレスト国からの視察団、そして半年ぶりに動き出すアイゼン達との物語をお楽しみいただけたら嬉しいです。
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