第35話 王子発見と外交裁定 ~タキシードにレイズ ~
誰もすぐには動かなかった。
アデライト王女が弟を抱きしめたまま、肩を震わせている。リップル王国側の使節団は、ただその光景を見守るしかなかった。
レインと呼ばれた少年――セザール第二王子は、されるがままに腕の中に収まっている。混乱もなく、ただ状況を受け入れているように見えた。
「……状況を整理しよう。」
低い声で口を開いたのはアイゼン王太子だった。
感情を切り離した声音に切り替わっている。先ほどまでの空気とは別の層に移ったような冷たさがあった。
「リップル王国第二王子セザール・リップル。失踪扱いとされていた人物が、本日この場で確認された。」
両国の貴族が息を呑む。
だが、それ以上の動揺は許されないとでも言うように、王太子の視線が場を制した。
「本件は即時に外交案件へ移行する。ここは会談室だ。まずは当事者の安全確保を優先する。」
リップル王国側の騎士達が静かに動き始める。アデライト王女の周囲に控えが配置され、使節団の動線が整理されていく。淡々とやり取りが進む。
そこには怒声も激情もない。ただ、外交上の事実だけが整理されていく。
その一方で、かつてレインの姉だったエリカはその場から半ば引き離されるようにして、廊下へと導かれていた。
会談室の扉が閉じられた瞬間、空気の質が変わった。先ほどまでそこにあった動揺や涙の痕跡は、すでに整理されつつある。
残っているのは、事実だけだった。
「……第二王子セザール・リップル。」
アイゼン王太子の声は低く、一定の速度で発せられていた。
「リップル王国側、確認を。」
使節団の中で、数名が即座に姿勢を正す。
外交の場において、感情より優先されるのは手続きだった。
「間違いありません。我が国第二王子セザール殿下に相違ありません。」
短い返答だった。
それ以上の説明は、今ここでは不要とされている。
「失踪からの経緯、及び発見地点の詳細は後日正式文書で提出をして下さい。」
「承知いたしました。」
淡々とやり取りが進む。誰も声を荒げない。
そこにあるのは確認と裁定だけだった。
その横で、イクシード辺境伯は腕を組んだまま沈黙していた。視線は一点に固定されている。
先ほどまでの激情は消えているが、代わりに別の重さが残っていた。
「イクシード辺境伯殿、貴殿の意見は?」
辺境伯は、低く答えた。
「今回の件は……我が国の王家の問題だ。」
それだけだった。それ以上は踏み込まないという意思でもあり、踏み込めない線引きでもあった。
「では次。」
アイゼン王太子は、紙面のように次の議題へ移った。
「第二王子の身柄についてだ。」
一瞬、場が静まる。
その言葉だけは、外交文書ではなく“現在進行形”だった。
「リップル王国側での保護を基本とするか、フォレスト国での一時保護を挟むか」
即座に複数の視線が交差する。
政治判断の領域に入った瞬間だった。
「王都内での保護を提案します。」
別の貴族が声を上げる。
「移送はリスクが高い。現状、家庭から引き離された状態であり、精神的安定も確認されていない。」
「異議あり!王国間の象徴的問題となる以上、即時帰還が望ましい。」
議論は整然としている。だがその整然さは、感情を削ぎ落とした結果でもあった。
アイゼン王太子は、全てを一度だけ見渡した。そして結論を出す前に、わずかに間を置く。
「……本人の意思確認を優先とする。」
その一言で、空気が変わった。
政治ではなく、判断の基準が変わる。
「第二王子セザール殿の意思が最優先事項となる。」
異論は出なかった。出すことができなかった、という方が正しい。動揺を隠せても、そこにあった涙の痕跡は記憶から消せない。
◇
「……確認する。」
低く、感情を切り離した声だった。
「リップル王国第二王子セザール・リップルは、フォレスト国において長期間保護されていた。これについて、両国間で政治的問題は既に整理済みである。」
視線が一度、イクシード辺境伯に向く。
辺境伯は短く鼻を鳴らした。
「保護、か。……結果だけ見ればそうですね。」
否定はしない。だが肯定でもない。その曖昧さを、アイゼン王太子は切り捨てない。
「保護責任はフォレスト王国にある。ルフェラン侯爵家はその実務を担った。」
静かに続ける。
「だが現状、その功績に対する扱いは未確定のままだ。」
空気が少しだけ変わる。政治の領域へ移ると同時に、個人の感情は一段後ろへ退く。
エリカの父エイデン・ルフェラン侯爵が小さく息を吐いた。
「……つまり、ここからは報酬交渉ですね。」
「そうなる。」
アイゼン王太子は即答し、視線を向ける。
「ルフェラン侯爵家当主の判断を確認したい。」
エイデン・ルフェラン侯爵は、娘が出ていった扉を見る。
(エリカ…。)
心の中で短い呼びかけ。娘の涙の余韻が揺れる。ここはもう、娘の願いを叶えられる感情の場ではない。感情を優先しても、エイデン・ルフェラン侯爵にそのような大きな権限はない。
(殿下が着ているタキシードに本当に意味はないのか?そう思っているのは娘だけで、殿下は違うかもしれない。)
エイデン・ルフェラン侯爵は賭けに出た。
「保護の功績に対する褒賞は、すべてルフェラン家からアイゼン・フォレスト王太子殿下に譲渡します。」
一瞬、空気が止まる。アイゼン王太子が軽く目を細めた。
「いいのか?侯爵。」
「はい。」
今この場でエイデン・ルフェラン侯爵が選べるものは、それしかなかった。
アイゼン王太子が頷く。
「承認しよう。」
淡々とした裁定だった。
「では、報酬の内容を整理する。」
静かな声が続く。
「第一、リップル王国第二王子セザール・リップルとの面会権を、ルフェラン家に付与する!」
エイデン・ルフェラン侯爵は複雑な表情を浮かべる。殿下が娘が一番望む答えを出してくれたのは喜ばしい。だが、同時にあのタキシードの色の意味が確定した。
アイゼン王太子は続ける。
「第二、フォレスト王国とリップル王国の共同管理により、イクシード辺境伯領およびシャーウッド辺境伯領を通過する関所を設置する。」
ざわり、と空気が動く。
ただの保護問題では終わらない規模だった。
航路だけに依存しない物流路を整備する。
それは同時に、今回のような悲劇を二度と起こさないための布石でもあった。
「第三、通行に伴う関税収益は、両国の医療および福祉財源へ充当することを条件とする。」
言い切った瞬間、室内の視線が一斉に変わった。
利益ではなく制度として。対立ではなく、両国関係を維持するための形として。
それは今回の悲劇を、二度と繰り返さないための裁定でもあった。
エイデン・ルフェラン侯爵が小さく笑う。
「……随分と綺麗にまとめられますね。」
「外交とはそういうものだ。」
アイゼン王太子は一切崩さない。
だが、その視線の奥に、わずかな重さがある。それは政治家としての判断だけではないものだった。
「さて、それでは……セザール・リップル第二王子。」
アイゼン王太子が静かに問う。
「貴殿は、今後どうしたい?」
セザールは、アデライトの腕の中から小さく顔を上げた。
「ずっと……ねえしゃまに会う。」
アイゼン王太子は、静かに笑った。
その視線だけで、エイデン・ルフェラン侯爵は十分だった。一度だけ、目を伏せた。そして、小さく息を吐く。
(……エリカ、とんでもない男に惚れられたものだ。)




