第34話 ねえしゃまの意味
王宮へ到着した私は、馬車を降りた後、開催時間までは自由行動だった。アイゼン王太子はリップル王国使節団らしき人達と談話しており、私は自分の役割が来るまで会場で喉を潤すことにした。入場口の方へ視線を向けると見知った顔がいた。
「……なんで?」
視線の先。そこには、見慣れたルフェランファミリーの姿があった。
「ねえしゃまー!」
真っ先に駆け寄ってきたのはレインだ。今日はいつもより少しだけフォーマルな服装で、嬉しそうにこちらへ手を振っている。そして、その後ろには当然のようにお父様とお母様。……いや、当然ではない。
「え? なんでいるんですか?」
思わず素で聞いてしまった。
「ふふ、お祖父様が来るのよ。」
お母様が穏やかに笑う。
「お祖父様?」
「リップル王国使節団には、イクシード辺境伯――私の父が参加しているの。」
「私への外交官僚情報の叩き込みは何だったんですか?」
問いかけると、お父様は一瞬だけ視線を泳がせた。
「ルアーナ宛てに招待状が来ていたんだ……。」
歯切れの悪いお父様。その言葉に被せるように、お母様が小さく息を吐く。
「……あなた。正直に言えば、お祖父様と顔を合わせるのが気まずかったのよね。」
その瞬間だった。
「ほう。誰と会うのが気まずいって?」
低く落ち着いた声が響く。
振り返った瞬間、お母様の表情がふっと和らいだ。視線が集まる。そこに立っていたのは、褐色の肌に鋭い濃紺の瞳を持つ壮年の男。リップル王国・イクシード辺境伯のようだ。
しかし、私は見覚えがない。というより、そもそも“会ったことがない”。お母様の父親――つまり祖父だと理解するまでに、少し時間がかかった。
「お父様。ご無沙汰しております。」
お母様がリップル王国の言葉で話す。イクシード辺境伯はお母様を見て愛おしそうに頷く。しかし、また鋭い目を別の方向に向ける。視線の先にいるのは――お父様。柔らかい再会の空気ではない。どこか、長く続いた対立のような重さがある。
「……久しいな。エイデン。」
お父様が、外交用の笑顔を貼り付ける。
「イクシード辺境伯殿。本日はようこそ――」
「形式はいい。」
即座に切り捨てられた。
「娘を、随分と遠い場所へ連れていったものだな。ここまで来るのに何日費やしたことか。」
それは船旅の話なのか、イクシード辺境伯の人生の話なのか。その言葉に、お父様の笑みが一瞬だけ固まる。
「それは――」
「言い訳は不要。」
静かな声なのに、有無を言わせない圧があった。お母様が溜め息をつきながら、わずかに目を伏せた。その表情だけで事情が見える。
――娘を遠国に嫁がせた男への、長年の不満。その結果として生まれた距離感が、今も残っているのだろう。
レインが小声で言う。
「このおじいちゃん、だれ?」
「……お母様のお父様。」
「おじいちゃん?」
「そうよ。」
レインはしばらく考えてから、ぽつりと呟いた。
「でも、はじめて見るね。」
「うん、私もよ。」
その会話が終わる前に、再び低い声が落ちる。
「エイデンよ。娘を――随分と大事にしているようだな。ククク、ワハハハ。」
イクシード辺境伯の視線が、ようやくお父様から外れた。
「私が感じた娘を失う怒りや、娘に会えぬ悲しみを……今度はお前が味わう番だな。」
お父様の背中がわずかに反応する。
そしてイクシード辺境伯は、次の瞬間、私の目線にかがんだ。
「はじめまして。エリカちゃん。じいじでちゅよ。」
私は固まった。
長いこと手紙でしか連絡がなかったため、私のことは“初孫”という認識だけで止まっているのだろう。
「初めまして。お祖父様。エリカです。」
私は姿勢を正して挨拶する。
「お祖父様なんて他人みたいなものだな……。じいじと呼んでおくれ。」
孫には甘いのは全世界共通らしい。
「じじい!!」
レインがイクシード辺境伯に向かって、はっきり言った。
「ん?なんだ?この小さいのは……」
「お祖父様、この子はまだフォレスト国の言葉を勉強中で……。」
私はとっさにレインを庇った。
レインを見た瞬間、イクシード辺境伯が言葉を失う。
「急用を思い出した。失礼する。」
イクシード辺境伯は重々しく言った後、会場の奥へと入って行った。その背中を見ながら、お父様が呟いた。
「外交とは、笑顔で腹を探り合う戦場だからね。」
(その戦場に家族総出で来てる人が何言ってるんだろう。)
すると、お母様が少し困ったように笑う。
「レインだけ置いていくのも可哀想だったのよ。勘違いしてないといいけど。」
(レインが我が家に来た日。盛大に勘違いして夫婦喧嘩をした人が何か言っている。)
「ねーしゃま、いっぱいひといる!」
レインはきらきらした目で王宮を見回していた。
……まあ、確かに王宮の大広間は圧巻だった。
天井には巨大なシャンデリア。磨き上げられた白大理石の床には灯りが反射し、壁には金細工と青を基調とした装飾が施されている。
交流会開始前のホールでは、既に多くの貴族や招待客達が歓談していた。
フォレスト国の貴族達に加え、異国情緒のある衣装を纏ったリップル王国側の使節団。
色鮮やかな宝石。潮風を思わせる香油の香り。貴族達には耳慣れない王国語。
(うわぁ……本当に国際交流会だ。)
そんな中。人混みを分けて、アイゼン王太子がこちらに足早にきた。
「――侯爵、夫人。すぐに来て欲しい。」
アイゼン王太子のただならぬ表情に動揺するお母様。
「あなた。父に何かあったのかしら。」
アイゼン王太子の後に続き、会場奥の部屋に向かう。
廊下には列が出来るほどの騎士が並んでいた。掲げられた国旗はリップル王国の物だった。
案内された部屋の中に入る。
そこにいたのは、褐色の肌に、ミルクティー色の柔らかそうな髪、アメジストのような瞳の色を持つ少女。少女を囲むようにリップル王国使節団と思われる大人達。そこにはお祖父様――イクシード辺境伯もいた。
私は、無意識につないでいたレインの手を握り直した。ここで離したらいけないような気がした。
少女を見てお父様もお母様も言葉を失った。
一室の空気は、すでに“会談”ではなかった。
言葉を整理する余裕もないまま、事実だけが積み重なっていく。
褐色の肌に淡い髪色、アメジストの瞳を持つ少女。その輪郭が、誰かの記憶を無理やり呼び起こす。
「……レイン?」
お母様の声が、わずかに揺れた。
その瞬間、少女の肩が小さく跳ねた。
「…違います!この子は…。」
アイゼン王太子の声が静かに落ちる。
「リップル王国第二王子、セザール・リップ
ル。失踪扱いの人物と一致する。」
空気が一段深く沈む。
(第二王子……セザール・リップル?)
私の思考が止まる。隣にいるレインは、いつも通りの顔をしている。無邪気で、少しだけ首を傾げる癖もそのままだ。
それなのに、何かが終わりそうな予感に胸の奥だけが妙に騒がしい。
「セザール……?」
少女の目が見開かれた。
「――セザール!!」
次の瞬間、少女は制止も忘れて駆け寄っていた。王女としての所作も、外交の空気も関係ない。ただ一人の姉として幼い弟を抱きしめた。
レインは、動かない。抱きしめられるまま、まばたきを繰り返している。
「生きてる……! 生きてたのね……!」
アデライトの声は、壊れかけていた。肩が震え、息が乱れる。それでも離さず、失った時間を取り戻すように、必死に抱きしめている。
「姉上……?」
レインが、小さく言った。
その言葉だけが、やけに静かに響く。
“姉上”――リップル王国の言葉。意味を理解した者たちの表情が変わる。この子は、異国の迷子ではなく、王族だ。
そして私は、その瞬間に気づいてしまった。
私を呼ぶ“ねえしゃま”という言葉は……ただの言い間違いではなかった。
最初から、そこに“姉”がいた。だから、私は「姉上」ではなく「ねえしゃま」だった。
胸の奥が、冷たく沈む。
あの日の嵐。濡れた髪に言葉が通じない幼い子供。「何もわからない」と繰り返していたあの姿。
あれは……“何もわからない”のではなく、“何も言えなかった”だけだったのではないか。
私の湖の事故。 アデライト王女の消えた来訪予定。 嵐で動き出した無人の船。 誰にも見つからなかった第二王子。——全部、繋がってしまう。
私の指先が、わずかに冷える。
(私の……せい。)
確定していない。誰もそう言っていない。それでも思考は止まらないのだ。
一つの選択が。一つの回避が。この子の人生の“行き先”を変えてしまった。
アデライトが涙を拭う。
「あなたは……セザールよ。私の弟」
レインは少しだけ考えるようにしてから、小さく笑った。
「姉上、いた。」
それだけの言葉。それだけで、アデライト王女の顔が崩れる。
そして、私の喉が、ひどく乾き、呼吸の仕方が分からなくなる。
(違う、違うのに………。)
ここにいるのは、誰かの失われた弟で、誰かの希望の存在だった。
私の隣にいた“レイン”は、最初からセザールだった。その矛盾が私の中だけで処理しきれない。
レインがいつものような上目遣いでこちらを見る。
「ねえしゃまも、一緒にいくでしょ?」
その一言で、空気が完全に止まった。
アデライトも、両親も、イクシード辺境伯も、そしてアイゼン王太子さえも……。
全員の視線が私に集まる。“答え”を託すという沈黙だった。
胸の奥が締め付けられる。
(ここで止めたらこの子は私の元に戻る?)
(ダメ、戻るべきは正しい場所なの!)
分かっている。理屈では理解している。
それでも、心がレインと離れるのを受け入れられない。
言葉が遅れる。喉が震える。目の奥が熱くなる。
私の中で、“一緒に過ごした日々”が勝手に浮かび上がる。あの夜一緒に寝たレイン。私を慰めようとゴムの枝をくれるレイン。私を励まし稲穂をくれたレイン。「姉しゃま」と呼ばれ続けた日。
そんな日がもう来ないなんて……。全部が一瞬で意味を変える。
(私は……何をしてたの?)
守っていたのか。奪っていたのか。それすら分からなくなる。
「……ダメよ。ねえさまは一緒にいけないの。」
やっと出た声は、あまりにも弱い拒絶だった。
レインは瞬きをする。
理解していないのではなく、理解しようとしている顔だった。
「どうしても?」
エリカは、息を吸い直す。
「……うん、どうしても。」
それが最後の抵抗だった。心のどこかが、音を立てて折れた。
レインは少しだけ黙って。それから、いつものように笑った。こんな小さな子供が泣きながら頷き笑ってみせる。
その瞬間、視界が滲んだ。気づけば頬を涙が伝っている。拭おうとしても指先がうまく動かない。震えだけが身体に残り、呼吸だけが途切れないように続いていた。
次の瞬間、お父様とお母様の腕が私を包み込む。その温度に触れた途端、何かが切れた。
私は子供のように泣いた。
(レイン、レイン、レイン……!)
言葉にできないまま、何度も繰り返し胸の奥に残っていく。
【あとがき】
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