閑話~影の王の生還~
かつて死の気配に満ちていた月光亭には、今は穏やかな呼吸音だけが残っている。寝台の上で横たわっていた男は、ゆっくりと瞼を開いた。
―暗くて何もない。ただ、落ちていく感覚の中で、どこか遠くで声がした気がする。引き戻されるように、意識が浮かび上がる。
「…うっ…。」
かすれた声。
だが、それは確かに“生者の声”だった。
周囲に控えていた仲間達が、一斉に息を呑む。
「…リーダーが生きてる?」
「嘘だろ…あの状態から…。」
誰もが信じられない顔をしていた。
それも当然だ。彼は、確実に“死に向かっていた”。仲間達は最悪の結末を考え、彼の後を弟のエドモンドに引き継がせる準備までしていた。
彼は状況を探るように視線を動かし、ゆっくりと体を起こそうとする。
「無理しないで下さい。あのお嬢ちゃんが、まだ安静が必要だって言ってました。」
「……なんだ?その布頭巾は。それに…妙に明るいな。」
部下達は顔を見合わせ、次の瞬間、一斉に喋り出した。
「ルフェラン侯爵家の娘が来て!」
「変な布つけろって言われて!」
「手洗えって、めちゃくちゃ怒られて!」
「それでリーダーの尻になんか打ち込んだら、こうなって!」
情報量が多い。
「…待て。一人ずつ話せ。」
頭を押さえながら言う。
だが仲間達の興奮は止まらない。伝染したように、言葉が重なっていく。
「エドモンドが連れてきたんです!」
「リーダーが助かるならって、俺らも協力して!」
「あと、その病気―国に広がる疫病らしくて!」
その言葉に、彼の目が細くなる。
―ルフェラン侯爵家。
王都の隣に広大な領地を持ち、政治の均衡を保つ中立の要。その家に、弟を潜り込ませていた。
(…あいつ、やりやがったな。)
侍女と子を作った件は、報告にあった。情に流されたかと思っていたが―。
(領主の娘まで、引き込むとは…。)
―領主の娘が、感染を見抜いて、手順を組んで、こいつらに指示を出した?
(…なんだ、それは。)
呆れるべきか、警戒すべきか…。思考の奥に、わずかな違和感が残る。
部下達は一瞬、口を閉じた。そして、誰かが覚悟を決めたように口を開く。
「…エドモンドを責めないでやって下さい。」
それを皮切りに、次々と声が重なる。
「俺達も同意したんです!」
「リーダーを助けるために!」
「それに、もし本当に疫病なら放置はできない!」
「俺達は“影”だけど、国を守るためにいる!」
空気が、熱を帯びる。
「ルナエクリプスが原因で国が滅びるなんて、そんなの―」
「「俺らの志に反してる!!」」
熱だけが残る。
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
(…うるさい。)
正直、病み上がりの頭にはきつい。
「…うるせぇな。」
「うるせーうるせー、分かったから少し黙れ。」
一斉に口が閉じる。ようやく静かになった部屋で、彼は額を押さえたまま呟く。
「…で?」
ちらり、と視線を上げる。
「その“お嬢ちゃん”は、どこだ?」
誰かが答える。
「もう帰られました。…多分、今頃は侯爵家かと。」
彼は小さく笑った。
「…逃げ足は速いな。」
そして、ゆっくりと背を預ける。
「面白ぇ。あのエドモンドを手懐けて、ここまで来る奴がいるとは。」
その一言に、空気がわずかに変わる。
「ルフェラン家の娘に、正式に面会を申し込め。」
短く命じる。
部下達が一斉に頷いた。
その様子を見ながら、彼はぼそりと呟く。
「…借りは返す主義でな。」
少しだけ、口元を歪めた。
「命の借りだ。踏み倒す気はねぇ。」
その声には、先ほどまでとは違う、重さがあった。
「ついでに、どんな化け物かも見ておきてぇ。」
その言葉に、仲間達は顔を見合わせる。
(いや、助けられた側なんだけどな…)
誰も口には出さなかった。




