命を救う代価
ルナエクリプスのリーダーを救えた―。
その事実だけで、胸の内側が熱を持っていた。徹夜明けのはずなのに、疲労は遠い。体の奥から、やり遂げた実感と同時に抑えきれない高揚が広がっていく。
今すぐ、トモエやブラッドに伝えたい。
この結果を、この奇跡を。―この世界に携帯電話がないなんて、こんなにももどかしい。
小さく息を吐き、月光亭の外へ出る。ひんやりとした朝の空気が、火照った体を撫でた。
その瞬間―。目の前に、現実が待っていた。
王家の紋章を刻んだ馬車が、店の前に横付けされている。磨き上げられた車体が、朝の光を鈍く反射していた。
嫌な予感が、遅れて背筋をなぞる。
ゆっくりと、馬車の扉が開いた。中にいたのは―アイゼン王太子。
思考が、一瞬だけ空白になる。
(どうして、ここに?)
問いが浮かぶより先に、さっきまでの高揚が音もなく消えた。
「おはよう。良い朝だね。」
優雅にくつろぎながら、微笑む。
「早起きですね…。」
自分でも驚くくらい、間の抜けた返事だった。
「送っていくよ。ここで起きたことも聞きたいしね。さあ、乗って。」
差し出された手を断れる空気じゃない。隣にいたエディを見ると、無言で頷かれた。
―逃げ場はなかった。馬車に乗り込む。
「影から聞いたよ。ライアンは持ち直したみたいだね。」
「殿下、その名前は…。」
エディが慌てて止める。
私は聞こえていないふりをした。
(知らない、知らない、知らない。)
「月光亭の中まで入って、君たち兄弟の事も知っているのに、今さらだろう?」
その言葉に、エディが苦い顔をする。
そして、アイゼン王太子の視線が、こちらに向いた。
「さて。今回の件と、スタール男爵家と進めている医療事業は繋がっているのかな?」
狭い馬車の中には逃げ場はない。
私は一度だけ息を整えた。―ここで誤魔化すのは無理だろう。
「…今回、月光亭で起きていた病は、貴族も平民も関係なく広がる疫病です。」
疫病は、ゆっくりと息を潜めながら蔓延していく。国が対策に乗り出すのは、ラウルモンドが大人になった時…それでは遅い。我が領民もターニャも死んでしまう。
アイゼン王太子の目が細められた。
「なぜ、国に報告しない?」
試されているのは分かった。私は視線を逸らさない。
「一人の患者の症例だけで「国全体に広がる疫病だ」と言ったら、信じていただけますか?」
私は静かに断言する。乙女ゲームの物語と言ったところで疑われるだけだ。
「今回、止められたのは偶然です。我が領内で、民間の医療機関を立ち上げる過程で知り合った医師が、たまたま気づけた出来事です。」
アイゼン王太子は、しばらく黙った。
「君は“人を救う方法”を考えている中で―“国を救った”のは偶然だと言うんだね。」
背筋が、わずかに粟立つ。
「今回は王家の影を救ってくれた。騙されてあげるよ。」
あっさりと受け入れた事に少し拍子抜けする。
だが、次に来た言葉で、その認識は甘かったと知る。
「―なら、その“偶然”を、国のものにしよう。」
空気が変わった。
アイゼン王太子の声は穏やかなままなのに、内容は完全に政治だった。
「医療事業は、ルフェラン領だけで完結させるには惜しい。」
視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「王家主導の政策として、国全体に広げる。…その第一号がルフェラン領だ。」
それがどういう意味か、分からないはずがない。―国の政策。それはつまり、ただの“領地の取り組み”ではなくなる。
「理由は二つ。」
アイゼン王太子は指を立てた。
「一つ。疫病対策は、本来、国家規模でやるべき案件だ。」
当然の事で私も素直に頷く。
「もう一つ…。」
わずかに、口元が上がる。
「民衆の支持だ。」
空気が張り詰める。
「医療を整えて命を救う。今まで貴族独占だったものを民衆に普及させる。それだけで、王家への信頼は跳ね上がる。」
隠す気はないらしい。あまりにも率直な“政治”。王族は、王妃の胎内に子供らしさを置いてきたのか、とても同じ歳の発言とは思えない。
「だが同時に、貴族の反発も出るだろうね。」
淡々と続ける。
「既得権益。利権。面子。」
一つ一つ、切り捨てるように。
「だからこそ、“成功例”が必要だ。」
視線が私に戻る。
「君の領で結果を出して、それを見せつけることで、反発を黙らせる。良いアイデアだろう?」
完全に筋が通っている。成功すれば王家の手柄で、失敗すればルフェラン領を切り捨てればいい。
「王家は“主導権”を持ち、ルフェラン領は“実績”を得る。もちろん、援助も惜しまない。」
静かに告げる。
「―悪くない取引だろう?」
王家にとっては支持と統制。
ルフェラン領にとっては保護と拡大。
だが、私はすぐには頷かなかった。
「…条件があります。」
アイゼンが楽しそうに目を細める。
「やはり来たね。聞こうか?」
「以前にも申し上げましたが…。孤児院の運営には、一切口出ししないでください。」
そこは、私の揺るがない芯の部分だ。
「そして、医療現場への過度な政治介入をしないこと。」
隣にいたエディがわずかに目を見開く。
「現場の判断を最優先にする。人命より優先される命令には従いません。」
はっきりと言い切る。
「守られない場合、私はこの事業から手を引きます。」
普通なら、即座に却下されてもおかしくない。だが、アイゼン王太子は、しばらく考えた後、笑った。
「いいだろう。」
あっさりと。
「孤児院には干渉しない。医療現場の裁量も認めよう。」
一瞬、視線が鋭くなる。
「その代わり―結果は出してもらう。」
低く、重い声。
逃げ場はなかった。それでも、私は、迷わなかった。
「やります。」
その答えに、アイゼン王太子は満足そうに頷いた。
「契約成立だ。もう後戻りはできない。」
私は、まっすぐに受け止める。
「―はい。」
その瞬間。この関係は、保護ではなく、利害で結ばれた共犯関係へと変わった。
気がつけば馬車はルフェラン家の前まで来ていた。馬車の中からでも分かる、あそこにいるのは、お父様と使用人達の姿。
――どうしよう。正直、朝帰りするつもりなんてなかった。昨夜、抜け出した時も、朝までに戻れば気づかれないと高を括っていた。
青ざめる私を見て、アイゼン王太子はふむ、と小さく頷く。
「しょうがない。助けるのもパートナーの役目だ。」
(誰がパートナーよ…!)
内心でツッコミを入れる間もなく、馬車が止まる。先に降りた殿下が、当然のようにこちらへ手を差し出した。
覚悟を決めて、その手を取る。扉の外に出た瞬間、―空気が変わった。
「…エリカ。」
低く、抑えたお父様の声。その視線は穏やかさを装っているのに、全く笑っていない。後ろに控える使用人達も、完全に状況を理解している顔だった。
「一体、なぜ、殿下は娘と一緒に…。」
お父様の言葉に、アイゼン王太子は一歩前へ出た。そして、さらりと言う。
「私が呼び出したんだ。」
場の空気が、一瞬で凍る。
「王家の用件でね。少し込み入った話だったから、時間がかかってしまった。私の責任だ。」
“王家の命令”という完璧な一手だった。それを否定できる貴族はいない。
お父様の眉が、わずかに動く。
「…それは、事前に一報いただければ―。」
「急を要する案件だった。」
被せるように言い切ると、一瞬だけ、こちらを見る。
「彼女は、それに見合う価値があったよ。」
(ちょっと待って、その言い方やめて)
変な誤解を生む。けれど、口は挟めない。
お父様はしばらく沈黙し―やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「…承知いたしました。娘がご迷惑を―。」
「いや、逆だ。こちらが助けられた側だ。」
その一言で、完全に流れが決まった。お父様はそれ以上追及できない。―王家がそう言ったのだから。
「エリカ。」
名前を呼ばれる。びくりと肩が揺れる。
「後で、話を聞こう。」
にこり、と微笑む父親の顔に恐怖を感じる。
(全然、助かってない!!)
内心で叫ぶ私をよそに、アイゼン王太子は満足そうに息を吐いた。
「では、私はこれで。」
軽く手を上げ、馬車へ戻る。
乗り込む直前、ほんの一瞬だけ振り返り―
「またね、私のパートナー。」
小さく、そう言った。
馬車が去っていく。
残されたのは、静まり返った屋敷の前。
そして――
「…さて。私の書斎でゆっくりと聞かせてもらおう。」
お父様にルナエクリプスの存在は話せない以上、一緒にいたはずのエディは、ただの“空気”になるしかなかった。
私はスタール男爵家と協同で進めていた民間医療普及が、王家主体の事業へと移行したことを話した。嘘は、言っていない。ただ―全部は、言っていないだけだ。
「…王家主体、だと?」
お父様は机に肘をつき、指を組んだままこちらを見ている。その目は、完全に“領主の目”だった。
「はい。ルフェラン領での取り組みが第一号として採用される形になります。」
できるだけ、平静に答える。
「民間医療の整備、衛生概念の普及、それに伴う人材育成…すべて国の政策として展開される予定です。」
言葉を重ねるごとに、自分でも分かる。これはもう、“思いつきの範囲”じゃない。国家規模だ。
お父様はしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと口を開く。
「お前は、どこまで関わっている。」
静かな問いに逃げ場はない。
私は、ゆっくりと答える。
「この事業は、貴族平民問わず人を救います。領民だけじゃない。国全体を。」
視線を逸らさない。
重い、沈黙。
「…そうか。」
短く、それだけだった。だが次の言葉は、予想外だった。
「ならば、守りも必要だな。」
思わず目を瞬く。
「王家が後ろについた以上、味方だけでは済まん。必ず、貴族間の反発は必ず出る。」
机から離れ、ゆっくりと立ち上がる。
「ルフェラン家としても動く。」
一歩、こちらへ近づく。
「お前一人に背負わせる話ではない。」
娘を守る父親の顔に胸の奥が、わずかに揺れた。
「ただし―。」
ぴたりと足が止まる。
目線が、少しだけ低くなる。
「無断外泊については、別問題だ。」
(やっぱり来た。)
にこり、と笑う。
さっきと同じ父親の顔なのに、さっきより怖い。
「今後は、必ず事前に報告しろ。」
「…はい。」
「護衛もつける。」
「…はい。」
一つ一つ、逃げ道を塞がれる。完全敗北だった。お父様は小さく息を吐く。
「…まったく。」
その声は、少しだけ力が抜けていた。
「子供を持つのがこんなに大変だとは…。」
(私も激しく同意します。)
とは、さすがに言えない。
私は大人しく視線を逸らした。その様子を見て、お父様はわずかに口元を緩めた。
「今日は休みなさい。」
「…はい。」
自室に戻った瞬間、全身の力が抜ける。
ベッドに倒れるように寝転がり、小さく息を吐いた。
―物語が変わった。それでも、運命には巻き込まれた長い一日だった。




