隠された素顔
ある日の夜、屋敷の廊下。厨房の明かりが、まだ消えていない。
私は足を止めた。
―普段なら、もう休んでいる時間。扉の隙間から覗くと、ターニャが一人で作業をしていた。手元は、震えている。鍋を、何度も、何度も磨いている。
「ターニャ。」
声をかけると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
「エリカお嬢様…なんで、こんな時間に。」
笑っている。けれど、その笑顔は無理に作られたものだとすぐに分かった。
「家に帰らないの?」
静かに問いかける。一瞬だけ、沈黙するターニャ。
「…大丈夫です。」
嘘だ。すぐに分かった。
「エディさんのこと?」
その名前を出した瞬間、ターニャの手が止まった。
「…家にいると、ラウルモンドの前で泣きそうで。」
気丈に振る舞おうとするが、声は震えていた。
「…きっと、私が悪いんです。私が至らなかったから。」
ぽつり、とこぼれる。
「もっと、支えられていたら…。」
ターニャは、最近、不審な行動を繰り返すエディに対して浮気を疑っているようだった。しかし、私は物語の設定が動き出し、ルナエクリプス内で何かが起っているのだと分かった。
「ターニャのせいじゃない!」
ターニャが顔を上げる。目が揺れている。
「でも―…。」
「一人で抱え込むの、やめて。」
言葉を重ねる。
「今はまだ、“いなくなってない”んだから」
その一言に、ターニャは息を呑んだ。
◇
数日後。
私は厨房へ足を運んだ。包丁の音が、規則正しく響いている。
「エディ。」
名前を呼ぶと、彼は振り向いた。
一瞬だけ、目の奥が揺れた。
「お嬢様、何か御用で?」
使用人のように装う顔をしているが、どこか“距離”がある。
「ねえ、エディ。」
一歩近づく。
「あなた、“誰のために働いてるの?”」
包丁を持つ手の動きが止まった。
「…どういう意味でしょうか?」
穏やかな声だが、探るような響き。
「そのままの意味よ。」
私は視線を反らさず、静かに続ける。
「ルフェラン家? それとも―…。」
一拍置く。
「“ルナエクリプス”? 」
沈黙が落ちる。
次の瞬間、彼のまとう空気が変わった。
「ルナエクリプス…?」
声が低くなり、わずかに距離が詰まる。
「とぼけるなら、それでもいいわ。」
私は静かに返す。
「重要なのは、これからの話よ。」
彼の視線が、わずかに細くなる。
「あなた、このままだと“選ぶことになる”わよ。」
「何を…ですか?」
「家族か、組織か。」
空気がぴんと張り、ほんのわずかだがエディの呼吸が揺れた。
「もし、私がどちらも守る方法があるって言ったら?」
「…一体、何の話か…。」
「あるわよ。ルナエクリプスに今起きている問題を解決する方法が。」
私は迷わず言う。
「ただし、今、動けばね。」
彼の目が変わる。
「…何を知っている?」
「全部は知らないわ。」
正直に言う。
「でも、“最悪の未来”は見える。」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ルナエクリプスが崩れる未来も。」
一歩、近づく。
「ターニャが壊れる未来も。ラウルモンドが、全部失う未来も。」
エディに、はっきりとした動揺が走った。
長い沈黙。
「今、ルナエクリプスがやるべき事は諜報活動じゃない。」
私は、言葉を重ねる。
「感染源の排除、感染経路の遮断、感染者の抵抗力の強化。」
エディの表情がわずかに変わる。
「…その情報、誰から?」
「今は答えられないわ。」
私は、はっきりと線を引く。
「でも、私なら助けられる。」
一歩、踏み込む。
「ターニャを一人にしないで。ラウルモンドを諦めないで。」
声を落とす。
「エディ、あなたにしかできないの。」
今度は、逃げない沈黙だった。やがて、彼はゆっくりと目を閉じた。
「…仮に。」
低く、慎重に言う。
「お嬢様の話が事実だとして。なぜ、私が従うと?」
「あなたが家族を簡単に捨てられるような男なら、すでに姿を消しているわ。でも、あなたは今もこの厨房に立ち、エディのふりをしている。」
一瞬。ほんの一瞬だけ、表情が崩れた。
「…条件があります。こちらの動きに過度な干渉は避けてもらいたい。」
冷静な声。
「いいわ。その代わり…。」
私も譲らない。
「ターニャとラウルモンドを最優先にして。」
彼は一瞬だけ考え、
「…分かりました。」
静かに答えた。




