第16話 奇跡じゃない奇跡
スタール男爵がトモエを引き取りの手続きの為にシスターと席を外す。教会の応接室の空気が、張り詰める。
「疫病の話をしよう」
ブラッドの一言で、トモエの表情が完全に切り替わった。
「で? どうするつもり? この世界、医療なんてほぼ存在しないのよ。対症療法すら怪しいレベルよ」
「ああ、だから作ったんだ」
間髪入れず、ブラッドは言い切った。
「薬を」
沈黙。トモエがゆっくりと目を細める。
「……何を言ってるのか分かってる?」
低い声で、確認ではなく否定するかのように呟く。
「分かってるよ」
「この世界は魔法はないの。神に祈って奇跡が起こる世界でもない。これから起きる疫病は、普通に人が死ぬ病気なのよ?」
「だからだよ」
ブラッドは懐に手を入れ、小さな瓶を取り出した。
机の上に、コトリと置く。中には、白く濁った液体。
不気味なほど静かに揺れている。
「“魔法や奇跡じゃない方法”で止める」
「何それ…………」
トモエの声が低くなる。試すような響き。
「抗生物質だよ」
この世界には、まだ存在しない薬品に、トモエの眉が動く。
「……説明して」
ブラッドは机の上に瓶を置いた。
「【恋蜜】では疫病としか描かれていない。ただ、この作品を手掛けていた時、当時、トモが観ていたドラマを思い出した」
「……ペニシリンを作り出す?」
「そう。この世界は前世の広岡巴の頭の中が反映されている」
トモエの目がわずかに見開かれる。
「トモ、茄子をナスビって言ってただろ?この世界の茄子の名称は『ナスビ』だ。そういう些細なトモの癖みたいなものがこの世界にあったんだ」
(そこまで再現してるの……?)
トモエの呼吸が止まる。
ブラッドは指を折るように数えながら続ける。
「それだけじゃない。料理の偏りや言葉の選び方とか、あと……」
ブラッドは、少し笑った。
「設定の“穴の開け方”とかな」
「……」
トモエは何も言えなくなる。ブラッドは静かに言った。
「“再現できる知識”は、そのまま使えるってな」
トモエの指が、わずかに震える。
「……そんなの、反則でしょ」
「そうかもな」
あっさり肯定する。
「俺達が持っている情報を使わなきゃ、多くの人が死ぬ」
その一言で、空気がまた変わった。
逃げ場がなくなる。トモエはゆっくりと瓶を手に取り、光にかざす。
濁った液体が、鈍く揺れる。
「……これ、本当に効くの?」
「試験はしたさ」
トモエの目が跳ねる。
「ちょっと……誰に使ったのよ!」
ブラッドは少しだけ間を置いた。
「……俺」
空気が凍る。
「軽い感染症になった時に試した」
「バカなの!?」
思わず声が跳ねた。
「失敗したら、死ぬかもしれなかったのよ!?」
「でも、生きてる」
「結果論でしょ、それ!!」
怒りと恐怖が混ざった顔でトモエが立ち上がる。ブラッドは視線をまっすぐ向けて静かに言った。
「誰かを巻き込む前に、自分で確かめるしかなかった」
ブラッドは視線を瓶に向ける。
「トモが作った世界にいるのは分かったけど、トモがここに存在しているかは知らなかったからさ……」
トモエの動きが止まる。
「……」
ブラッドは一歩、近づく。
逃げられる距離じゃない。
でも、トモエは動かなかった。
次の瞬間、そっと、ブラッドは腕を伸ばす。
前世で喧嘩した時と同じ距離感で、トモエを抱き寄せる。
拒まれないのを確かめるみたいに、ゆっくりと頭に手を置いた。撫でる動きも、昔と同じだった。
「トモを見つけた」
ブラッドは、静かに言い切る。
「……もう十分だ」
トモエの肩が、わずかに震える。
「もう、そんな危険なことはしないよ」
ほんの少しだけ、言葉を選ぶブラッド。
「今度こそ、二人で……じいさんばあさんになるまで生きよう」
冗談みたいな台詞だが、声は真剣だった。
トモエは顔を上げない。
返事の代わりに、服の裾をぎゅっと掴んだ。
◇
その日のうちに、トモエはスタール男爵家に引き取られることが決まった。
あまりにも早い決定だった。
応接室で話が終わると同時に、すべてが動き始めた。
「……随分と話が早いのですね」
シスターが戸惑いを隠せずに呟く。
スタール男爵は穏やかに頷いた。
「事情は理解しました。あの様子を見れば、これ以上引き離す理由もありません」
視線の先――まだ距離の近いままの二人。
トモエは、はっとして一歩離れるがすでに遅い。
男爵は小さく咳払いをした。
「本来であれば、トリー……いや、トモエ嬢には我が家へ嫁いでいただくつもりでしたが……」
わずかに間を置く。
「その前に、守るべき節度があるな」
ブラッドが肩をすくめる。
「……分かっています」
「本当に分かっているかは怪しいがね?」
淡々とした声だが、どこか呆れを含んでいる。
そして、はっきりと言い渡した。
「トモエ嬢が十六歳になるまで、節度ある交際を。これは命令だ!」
「……はい」
ブラッドが素直に頷いた。
トモエは何も言わない。
ただ、少しだけ視線を逸らして小さく呟いた。
「……守ります」
その言葉に、男爵は満足そうに頷いた。
こうして、トモエの居場所は、その日のうちに決まった。
物語の設定通りでありながら、すべてが筋書き通りではなかった。
それは、二人が自ら選んだ未来への第一歩だった。




