閑話~新薬発見~
夜更けの書斎。
灯りは一つ。机の上には、乾きかけたパンが無造作に置かれていた。その表面に広がる青い斑点を、男はじっと見つめている。
―ブラッド・スタール。スタール男爵家の時期当主にして、この国で唯一“医療という概念”を本気で理解している男。
そして、前世で【恋密】のゲームディレクターだった男。
「…やっぱり、これだよな。」
低く呟く声には、確信があった。
彼の脳裏に浮かぶのは、白衣の研究者でも、医大の講義でもない。もっと曖昧で、もっと感情的な記憶。前世でトモエと並んで観ていたドラマ。
感染症、未知の病、広がる恐怖…そして、奇跡みたいな薬。
あの時は、ただの物語だった。けれど今は違う。この世界は、“自分たちが作った物語”の中だ。
「だったら…。」
ブラッドは、ゆっくりとパンを持ち上げる。
青カビは、確かにそこに存在していた。
「再現できるはずだろ?」
前世の知識は完全じゃない。だが、断片は残っている。
・青カビ
・菌を殺す
・“ペニシリン”という名前
そこまで分かっていれば、十分だった。
「トモ…お前とドラマ観ていた俺だから気づけたんだぞ。」
ぽつりと一人言とともに、悲しい笑みがこぼれる。
前世では、守れなかった。仕事に追われて、すれ違って、気づいた時にはもう遅かった。家族間だけで行われた恋人の葬儀で、上司という立場から過労死に追い詰めたと家族に責められ、最後の別れも許されなかった。だからこそ、この世界では諦めない。
「お前が作った物語を、俺が壊してやるよ。」
静かな決意だった。スタール家の地下に作られた簡易的な研究室では、パンから削り取った青カビを培養用するブラッドがいた。薄く濁った培養液の中で、青カビの周囲だけが不自然に澄んでいる。—菌が存在しない。
彼は何度も失敗した。腐るだけのもの。変化しないもの。異臭を放つだけのもの。それでも彼は諦めなかった。
「…よし!」
今までと明らかに違う反応を示した。確かにそこにあったはずの菌が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
「はは…。」
思わず笑いが漏れる。
「できるじゃねえか、この世界でも!」
それはまだ粗雑なもので純度も低く、効果も安定しない。だが、“病を殺す何か”であることは間違いなかった。
◇
ある日の夕食。王宮で行われた授与式の話をブラッドの父親であるスタール男爵が話題に出した。ルフェラン家の侯爵令嬢が福祉部門で授賞されたという世間話。しかし、その話は、前世の知識を持つブラッドには追い風だった。彼女は、運命を壊すためのトリガーだ。その頃には新薬もほぼ完成していた。
ブラッドはエリカ・ルフェランの管轄する教会に面会の申し込みをした。




