ブラッド•スタールという男
マグノリア教会に貴族の男性が、私に面会したいという申し出があったと知らされる。貴族なら本来、正式な書状をルフェラン家へ送るはずだ。それをわざわざ“教会”で面会を求めてくる。
—つまり、表に出せない話を持っている。教会の応接室に向かうと、そこには若い男性が立っていた。
「はじめまして。ブラッド・スタールと申します。」
その名前に驚きの表情が隠せなかった。主人公の父親であり、トモエの結婚相手のブラッド•スタール。
「その表情…やはり、あなたも“知っている側”ですね。」
その一言で、背筋が冷えた。ただの勘ではなく、確信している目だった。
「先に種明かしします。私も前世の記憶を持っています。そして、この世界が【人の恋は蜜の味】という乙女ゲームの世界だという事も…。」
私は驚きのあまり声が出なかった。
しかし、この視線。侯爵家令嬢に対してのこの距離感。嘘を言ってるようには見えなかった。
「私は、前世でゲームを作っていました。この乙女ゲームです。」
「トモエと同じ…!」
ブラッドの眉がわずかに動く。
「やはり、広岡もこの世界にいるんですね。」
ブラッドは安堵の表情を浮かべる。
そして、彼は小さく息を吐いた。
「広岡はどこにいますか?彼女がこの世界で誰として生きているのか、教えて頂けませんか!」
ブラッドとトモエは、物語では夫婦となる。物語ではトモエは『トリー』という名前だったが、前世のトモエと名乗っている為、ブラッドは知らなかったようだ。
「あの、前世では広岡さんとは同僚ですよね?広岡さんが主人公の母親だったら、どうしますか?」
彼の表情が変わる。
「広岡…トリー、なのか…?」
その名前を口にした瞬間、
彼の声がわずかに震えた。
「…生きているんだな。」
ブラッドは前世では、【恋密】のゲームディレクター大島真司。【恋密】をプレイしたことがあるから、エンドロールで彼の名前は見た事があった。トモエこと広岡巴とは、同僚という関係だけではなくプライベートでは恋人関係だったそうだ。スタール男爵は、物語のようにトリーを懸命に探しており、このままでは婚約させられてしまうと思っていた時、私が『エリカ•ルフェラン』と違う行動をしているのに気づいて、会いに来たらしい。
「この世界は、まだ“書き換えられる”と思っています。」
ブラッドは、静かにそう言った。その言葉に、背筋が震えた。
「あなたは、何を変えようとしているんですか?」
「医療です。」
即答だった。
「この世界は、意図的に医療が発展しないように設計されている。」
「ええ。」
私は頷く。
「“救えない死がある方が物語として美しい”—そんな理由で人を殺す世界の為に、俺は終わるつもりはありません。」
ぽつりと落ちたその一言に、私は一瞬、言葉を失った。この人、本気なんだ。
「そのために、これを作りました。」
ブラッドは机の上の小瓶を置いた。中には、わずかに濁った液体。
「パンの青カビから抽出したものです。」
―青カビ?前世の記憶が一気に繋がる。
「まさか…。」
「ええ。細菌の増殖を抑える作用があります。効果は確認しています。」
抗生物質。この世界に、本来存在しないはずのもの。
この世界の止まっていた針が動き出したのを感じた。鼓動が速くなる。
「それって、疫病が…。」
「ええ、救えますよ。今ならルナエクリプスのリーダーも。」
疫病の発生。最初の感染者であるルナエクリプスのリーダーを救う事によって、物語のあらすじは書き換えられる。ラウルモンドの設定は全部、ここで、止められる。
「あなたには未来を変えるため、この薬を有効活用して欲しい。」
私は、深く頷いた。
「では、共同戦線といきましょう。」
私は手を差し出した。ブラッドは、差し出した手を、彼は迷いなく握り返した。
その瞬間——
“物語に用意された運命”から、私たちは初めて逸れたのだと、確信した。この瞬間、この世界の医療という概念が変わり始めた。




